1.0 『序章』
幼馴染のナーコは白いベッドの上で、仰向けに横たわっていた。
喘ぐように喉から声を出している。
整った顔を歪めながら、長く綺麗な黒髪を乱し、セーラー服には泥と汗が染み込んでいる。
「ハァッ……ッあッ……っぅ゛……んッ……!」
ナーコの脚をゆっくり持ち上げる男は、ニール・ラフェットと名乗っていた。
俺には何も出来なかった。
体育座りをして、膝の間から二人を眺めている事しかできない。
ミニスカートから白い下着がチラチラと目に映る。
——何やってんだ俺は……。
「少しだけ我慢してください」
「い゛ッッッ………!!」
「大丈夫、痛いのは少しだけです」
そして男が力を込めると。
「あだだだだだッッッ……!! 痛い痛い痛い!! いたたたた!! いたたたたいた痛い!!!!」
「お、落ち着いてください! ただの捻挫です!」
緊張感の無い声でナーコが喚き散らしていた。
「ナ……ナーコッ!!!」
俺も必死に声をかける。
ナーコの足首を握るニールを見て問い詰める。
「ちょ……ッッ!! これ……これ大丈夫なのかよッッ!?」
「大丈夫です。骨に異常ありません」
ニールはそう言うと掌から眩しい光を放ち、ナーコの頭から爪先までその光を当てていく。
治癒術師ニール・ラフェットは銀色の短い髪を下ろしていた。
軍服のようなコスチュームに身を包んでいるが、緑地に黄色のラインが入っていて、いかにも『治癒術師』という印象に見える。
光が当たると、苦痛に歪んでいたナーコの顔が穏やかになった。
そして赤黒かった足首の腫れが引いていく。
俺はそれを見て思わず声をだした。
「うっわぁ〜……ホンットに治ってくんだけど……」
——これはまさか、回復魔法ってやつなんじゃねーの?
「あっれ……? 待ってもう痛くない!! すごい!! ねぇハルタ見てよ!! 私もう痛くないんだけど!! うわ〜! すっご~!!」
ナーコは目を疑うように、自分の足首を眺めてグリグリと動かしている。
俺に目を移してキラキラ輝かせ、それを見てニールは優しく微笑んだ。
「痛みはもう無さそうです。内出血はまだ残ってますが捻挫は治りました。念の為、患部は高い位置にあげておいてください」
木製の踏み台を持ってきて、ナーコの脚をゆっくり乗せた。
気遣うように、くすんだ白い麻の布をナーコの太ももにかける。
「ニール治癒術師、アイリスさんからまた往診の依頼だ」
「あ、はい! すぐに伺います!」
ニールは別の衛兵に呼ばれ、すぐに荷物をまとめ始めた。
そして優しく俺達に微笑み、「また怪我したらいつでも呼んでください」と言って、背を向けて歩き出した。
「「ありがとうございますッ!」」
ナーコは仰向けのまま、俺は立ち上がって頭を下げ、二人で同時にそう言った。
そしてナーコと目を合わせて笑った。
——やっぱりここはアレだ……!!! 俺たちが夢にまで見た……!!
「で? もういいかい? 二人のお名前は?」
夢にまで見た『異世界』の衛兵が、羽根ペンでトントンと机を叩きながら、俺達を訝しんでいた。
◇ ◆ ◇
高校から児童養護施設へ帰る途中だった。
いつものようにナーコと二人、あーだこーだと話しながら歩いていると、途中で養護施設のエリコ先生に出くわした。
エリコ先生は施設の子供用に、紙やクレヨンを買いにいく途中だったらしい。
エリコ先生の仕事を手伝うのは楽しかった。
経費や予算を聞いて、どれを買うか、何を削るか相談して決めるのは楽しかった。
大人っぽいことをしている気になれた、領収書を切るエリコ先生がかっこよく見えた。
一通り買い物を終えて、ここからまっすぐ歩けばもうすぐ施設。
『閑静な住宅街』という表現が正しいんだと思う。
いつもの道をいつものように帰っていただけ。
人通りの少ない道を横並びで歩いていただけ。
——ほんの数秒、世界が真っ暗になった——
次の瞬間、床が抜けたような感覚に陥った。
下り階段を踏み外したような感覚。
あると思っていた地面がなくなったような感覚。
俺の身体は前のめりになって転がり落ちていく。
ドシンッという衝撃が背中に響くと視界が明るくなった。
住宅街では決して起こり得ない感覚に混乱して、とにかくあたりを見回した。
言葉にならない情け無い声を出していたと思う。
とにかく自分に何が起こったか、理解ができる物を探した。
周囲は青みがかった緑色の木々が生い茂っている。
地面には砂利が広がって、そこにはチョロチョロと小さな川が流れていた。
——なんだなんだなんだ何が起こった!?
が、すぐにそんな事はどうでもよくなった。
横から悲痛なうめき声が聞こえ目をやると、そこには傷だらけのナーコが足首を押さえて蹲っていた。
ナーコに声をかけても返事が出来ず動けない。
ただ悲痛なうめき声をあげ、俺やエリコ先生の名前を呼んでいた。
セーラー服がところどころ破れて出血している。
そして足首が特にひどい、赤黒く変色して、線の細いナーコからは想像もつかない太さに腫れ上がっていた。
応急処置なんてわからない俺には、声をかける事しか出来なかった。
我ながら情けなかったと思う。
「大丈夫か?」と。
「痛いのか?」と。
大丈夫なわけがない、痛いに決まっている。
そして「ここはどこだ?」と。
そう聞いてしまった。
独り言ではなく、ナーコに向かってそう聞いてしまった。
ナーコは疑われていると思っただろう。
——ちがう、ごめん。そんな事思ってない。
そして状況は更に悪化する。
周囲の茂みから、唸り声をあげる無数の双眸に気づいた。
山犬とかそういう類だろう。
ゆっくりと姿を現した犬科のそれは、全身を真っ黒な毛に覆われて、牙を剥き出して威嚇してくる。
山犬なんて今まで一度も遭遇したことがないからか、想像以上に大きく見えた。
怖かった、身体が震えた。
俺は臆病だ、決して勇気がある人間じゃない。
喧嘩もしたことないし、相手が不機嫌になっていると感じれば真っ先に謝る。
理不尽に殴ってくる父親に一度も逆えなかった男だ。
それでも、直前の後悔が勇気につながった。
この状況をどうにか出来れば、臆病な俺のことをナーコは見直してくれるかもしれない。
もしかしたら好きになってくれるかもしれない。
こんな状況で下心を抱く自分に嫌気がさしながら、俺はナーコを背負って走った。
小さい頃から俺はナーコが好きだった。
助けたかった。
好きになってほしかった。
両思いになりたかった。
大声で助けを呼びながら小さな川に沿って下流に向けて走った。
「助けてくれ! 誰かいないか! けが人がいるんだ!」
後ろからナーコが俺に何か言っていたが、覚えてない。
必死に走ると、小さな川は大きな川へとつながった。
無我夢中で走った、体力なんてとっくに限界を超えていたと思う。
それでも懸命に走ると大きな壁に行き着いた。
レンガのような足が積み重なった鼠色のそれは希望に見えた。
人工物、少なくとも人がいる。
気づくと周囲に山犬はもういない。
とにかくその石壁に沿って歩いた。
なにかないか? なにかなにかなにか……
ここで俺に限界が来た。
立ち眩みのような感覚だった。
——あ、これやばいかも……
直後、眼前が真っ白になり、そこから先は記憶がない。
◇ ◆ ◇
「で、二人のお名前は? 私はローベ、キミたちのお話を聞かせてくれるかい?」
ローベは険しい表情で問いただすように目を向けてきた。
「えっと私は……」
衛兵の問いかけにナーコが答えようとすると、ニールを呼びに来た衛兵が俺の肩をトントンと叩いた。
「キミはこっちの部屋だ」
——おそらくこれは取り調べだ。
「ナーコ~! たぶんこれ全部正直に話したほうがいいやつだ、まぁ信じてもらえないかもしんないけどな」
「それなんだよね~、まぁ出来るだけ記憶たどって話してみようぜィ! なんとかなるって~!」
部屋から出る時にお互いの意思を統一をしておいた。
ナーコが顔の横で親指を立てながらおどけて笑った。
この時はまだ『異世界』に期待していたんだと思う。
俺の取り調べを担当するトータッハは若い男性、気軽な口調で話しやすかった。
「名前だけど……俺はタナカ・ハルタロウって言います。あと一応だけど、あの子はヘンミ・カナコ。ナーコってのはあだ名っていうか……通じますか?」
ところどころ敬語が混ざって、よくわからなくなってる自分がいる。
「はいはい、名前はわかったよ~。で、ここに来た目的は? どこから? 二人で来たの?」
それを聞かれてハッとした。
「そうだ……! エリコ先生……! もう一人いなかったか!? 若い女の人なんだ! 20代前半で……少し茶髪で……痩せ型だけど胸が大きくて……160センチくらいの身長で!!!」
「ちょ……ちょっと待って、順番にいこうか。落ち着いて、最初からゆっくり話してくれればいいからさ」
俺が突然混乱しはじめて、衛兵さんが宥めるように笑ってくれた。
そうだ、とにかく全部、正直に話そう。
そしてこの世界の事をいろいろ聞こう。
もうあんな現実に戻らなくてもいいように。
秘められたチカラがあるかもしれない。
現代知識で無双できるかもしれない。
◇ ◆ ◇
『マナ』を使って『魔術』を使う。
よく聞く単語を衛兵から聞いた時は目をキラキラさせていたと思う。
『マナ』の素質は、『下位』『中位』『上位』に分けられる。
言葉通りだ、才能のある人もいれば無い人だっている。
そして『無し人』
マナの素質が皆無。
生涯、魔術が使えない者はそう蔑まれる。
ナーコには素質があった。
俺には無かった。
いつも通りだ、前の世界とおーんなじ。
ナーコには常に劣等感があった。
ナーコはみんなが出来ない事でも直ぐにできた。
俺はみんなが出来る事も出来なかった。
——なんでいっつもナーコばっかり……! なんでいっつも俺ばっかり……!
そして俺たちは、この世界で奴隷になった。
◇ ◆ ◇
このギブリス王国は中立国、そして奴隷制度があった。
身元が不確かな者は奴隷となる。
奴隷商が身元引受人になることで、最低限の生活が担保される。
『貸奴隷』と『売奴隷』
最初は『貸奴隷』にされる。
奴隷商に寝床を与えられ、指示された場所に行き、仕事をこなす。
住込みの派遣労働者というイメージだった。
賃金も出る、休日もある、門限さえ守れば街で飲み食いも出来る。
比較的自由に過ごす権利が与えられる。
さらに借金も出来る。
奴隷商は気前よく、賃金の前払いに応じてくれる。
そしてその借金が返せなくなると『売奴隷』にされる。
『売奴隷』は仕事を選べない。
寝床と食事は与えられるが、自由がなくなる。
休日は貰えるが、街には出れない、賃金も出ない。
売るも貸すも奴隷商の自由。
どこかの誰かに売れるまで。
仕事と寝床と食事のみが与えられる。
では、売奴隷が働けなくなったらどうなるか。
『他国に売られる』
ギブリス王国は中立国を認められている。
戦争に参加しない、派兵もしない。
だが、奴隷貿易はある。
働けない『売奴隷』は他国に売られる。
そして使い捨てられる。
戦争の最前線に立って剣を持つ。
これを派兵と捉えるかがすごく曖昧。
ラインが定まっていない、あやふやなライン。
奴隷商は言う「派兵という用途で売っていない」と。
世界全体が発展途上であるがゆえの、曖昧なライン。
被害を受けた国は黙ってない。
そんな建前は通らない、ただの屁理屈だ。
しかしこの国は中立国を認められている。
この国は攻められない、責められない。
なぜなら……。
「なぜなら『この国には魔王がいる』……とまぁこんな感じだわな!」
「へー、つまりあれか。俺はリーベンさんから借金しちゃダメってことか!」
「そういうことよ、まぁそこまで落ちる人はあんまいないからな、大丈夫だろ!」
俺は奴隷商リーベン・スレイバーグに引き取られた。
牢のような『大部屋』で、貸奴隷ヤッドからこの国の事を教えてもらっていた。
『大部屋』は十人まで入れた。
鼠色の石畳が、壁や天井を覆っている。
便所は剥き出しで、不衛生極まりない牢。
糞尿の入り混じったニオイは、幼少期に育てられたあの家を思い出す。
それがとても不快だった。
リーベンの『貸奴隷』になって四日間、俺は毎日便槽の汲み取り作業をさせられていた。
「さんきゅーヤッドさん! アンタがいい人で良かったよ」
「俺もいじめられてっからな!」
「ワハハ」と笑いながら、他の奴隷にやられたであろう傷を見せてくる。
この人がいて本当に良かった。
「そうだ、俺これから友達と約束があるんだよ! ちょっと行ってくるわ!」
「一緒に『異世界』から来たとかっていうあの可愛い子か! いいねぇ休日前に! ナニするんだぁ?」
ヤッドが俺の下腹部を舐めるように見ながらニタニタしている。
「ちげーよ、ただの幼馴染だって! そんじゃ、門限には戻るよ!」
「おー、遅れんなよ!」
ここまで読んで頂きありがとうございます。
良ければ星の評価や感想いただけると嬉しいです、励みになります。