第3話 地獄の門、ノックノック - 2
ビルは外見と同様に、内部も無骨でやや古びていた。右手の受付カウンター、左手の小規模な待合スペース、そのどちらにも飾り気がない。それでも寂れて見えなかったのは、待合スペースに並ぶソファーに、五人の男がどっしりと座っているからだった。
「またお前か、侍」
そのうちのひとりが、コジロウを見て顔を顰める。整えられた金髪に、丸く色の濃いサングラス、鮮やかなオレンジの開襟シャツ。年齢は二十代後半から三十代前半ほどに見えるが、若さを感じさせない凄味があった。丁寧に砥がれた薄い刃のような、鋭くしなやかな雰囲気を纏っている。
その威圧感に、鶴屋はきゅっと肩を縮めた。再びコジロウの背に隠れ、はみ出すまいと試行錯誤する。が、侍の腰はひょろりと狭い。そのうえいきなり小走りになるので、リクルートスーツは結局丸見えになってしまった。
「と、遠近殿! ご無沙汰にござる!」
小走りの侍はソファーに駆け寄り、サングラスの男に一礼した。サングラスは長大な溜め息をつき、憂鬱そうに頭を掻く。
遠近と呼ばれたこの男が、「総長の右腕」なのだろうか。だとすれば彼は、この侍にずいぶん手を焼いているはずだ。鶴屋はかすかに同情しながら、改めて遠近の顔を見る。濃いサングラスの奥の両目は、意外に素朴な形をしていた。幼くも見えるその瞳が、不愉快そうに歪む。
「あのなぁ侍、俺たちはいま仕事の話をしてたんだ。大した用がないんなら死ぬまでご無沙汰しててくれ」
「此度ほど大した用もござらぬ。また総長にお目通りを願いたいのでござるが……」
「それは今までと同じだろうが。ダメだダメだ、総長はお忙しいんだぞ」
「い、いや待たれよ遠近殿! 此度は今までと一味違うゆえ」
「お前なんかの一味は、総長にとっての〇・一味くらいだよ」
「し、しからば十味違ってござる!」
コジロウの声が天井に跳ね返り、鶴屋の耳を痺れさせる。侍の必死さは泣きたくなるほど痛々しく、到底ついていけそうになかった。漠然とした気恥ずかしさに、どういう顔をすればいいのかさっぱり分からなくなってしまう。とりあえずネクタイの結び目を直して我関せずを装ってみたが、効果があるとは思えなかった。
たまらなくなってコジロウと遠近から意識を逃がすと、今度はソファーから、残り四人のコソコソ話が聞こえてくる。
「何だあいつ? 見たことあるか?」
「あれだろ、ウチに入れてくれって、ちょっと前からゴネてる『侍』」
「あぁ、たまに遠近さんが愚痴ってたやつか」
「総長がちゃんと突っぱねねぇからああいうのが湧いてくるんじゃねぇの」
「おい馬鹿、遠近さんに聞こえるだろ」
「待てよ、侍のほうはいいとして、じゃああのガキは何なんだ?」
ひとりが鶴屋を顎で指すと、残りの三人も視線を移した。鶴屋の胃が、きゅっと攣るように縮こまる。思わず顔を背けると、上半身の筋肉が震えて痛み始めた。恐怖にも焦りにも似た痛みだが、それらよりもっと具体的な言葉が頭の中で点滅する。
勝てない。
その四文字が白く光って、鶴屋の脳を焼いていた。
コジロウが彼らに憧れる理由を、身をもって理解できた。この男たちは、完成された「集団」なのだ。
属性と不文律と価値基準を、暗黙のうちに共有する集団。人はその中にある限り、所属という名の盾を得られる。その盾を持つ人間は、所属を持たない個人には強大な捕食者に見えるのだ。だから孤独で弱い人々は、仲間を求めずにいられなくなる。捕食者に太刀打ちできるのは、また別の捕食者だけだからだ。
弱い者は、強い者には絶対に勝てない。集団の輪から外れた者には、宿題の範囲を尋ねることすら許されないのだ。
だからこそ、鶴屋は就活をしているのだった。就職して、企業に入って、集団の内側で生きていくために。所属の盾を振りかざして、強くなるために。ひとりっきりで生きていくには、鶴屋はあまりにも弱い。だから集団の強さを借りるために、内定を求めてやまないのだった。他者の助けを求められる環境が、絶対的な後ろ盾が、欲しくて欲しくてたまらないのだ。
男たちの目が鶴屋を見ている。鶴屋はここから逃げられる足も、立ち向かえる武器も持っていない。ガチ、と上下の歯が噛みあうと、前後に擦れてきしみ始めた。瞼がひび割れるように固まり、瞬きさえもできなくなる。
胃液がごぽりと鳴るのが分かった。自分を襲う理不尽な恐怖に、怒りがどろどろと湧き上がる。苛立ちが棘の形を成して、ブチブチと皮膚を突き破っていく。
「あーあー分かった、分かったよ!」
爆発寸前のその瞬間、遠近の声が鼓膜を刺した。筋肉の震えが不意に緩んで、鶴屋は顔の向きを戻す。いつの間にか、遠近のシャツにコジロウがしがみついていた。がっしりとすがりつく侍を見て、苛立ちの棘が萎む。
「総長は今ここにいらっしゃる! お時間をくださるか訊いてくるから、ここで大人しく待ってろ!」
遠近は悲鳴のように叫ぶと、コジロウを乱暴に振り払った。それからすぐさま鶴屋を睨む。鶴屋は半歩後ずさった。
苛立ちの代わりに、再び恐怖が膨らんでいく。だが遠近から受けた恐怖は、さきほどのものとは違っていた。怒りを抱く隙すらないほどの、ただ純粋な「力」の怖さだ。裏路地の王者の右腕は、冷徹な野生動物のような力強さを備えていた。なす術もなく震える鶴屋に、彼は静かにこう問うてくる。
「で、お前は何だ。この侍の連れか?」
サングラスの位置をわずかに下げて、遠近は鶴屋を観察していた。全身をじっくりと、ロードローラーで轢くような目つきだ。気管が締まる感覚に、鶴屋は窒息しそうになる。しかし質問を無視はできず、必死に喉の奥を開いた。
自己紹介、自己紹介をしなければ。焦りに駆られて言葉を探し、ロクに見つけられもしないまま、逃げるように口を動かしていく。唇は震え、声は掠れ、それでも言葉はブレーキの壊れた自転車よろしく滑り出していった。
「俺、わ、私はこの、コ……ジロウさん、の、つ、付き添いというか一緒に、あの、総長に会う、会わせていただくのに必要だということで、その、怪しい者ではなくて全然」
「怪しい者かどうかはこっちが判断することだろうが」
自己紹介をバッサリと斬り、遠近は顎を引く。鶴屋は黙るしかなかった。耐えがたい恐怖に歯を噛みしめると、尋問めいた質問が続く。
「スーツだな。どこのグループの下っ端だ? それとも企業か?」
「え、あ、えと」
グループ、企業。自分とはかけ離れた単語たちに困惑する。否定しなくては、と瞬間的に焦りが煮え立ち、考えなしに返答を送り出してしまう。
「グループ、とか企業とか、では、なくてあの、就活、です。就活生で」
「就活生?」
回答の声を遮って、遠近の片眉が上がる。しまった。「就活生」なんて個人情報を明かしてしまった。後悔に一歩後ずさる鶴屋を、遠近は再び睨みつけた。だがその視線はほんの少し、さきほどのものとは違っている。恐ろしいことに変わりはないが、どことなく威圧感が和らいだ気がした。
鶴屋が裏路地の住人でないと聞いて、警戒を緩めたのだろうか? しかし、それにしては暗い表情にも見えた。皮膚の表面だけでなく、その奥の何かを観察されているような気がして全身が強張る。
固まる眼筋を動かして、サングラスの奥の目を見上げる。素朴なその目が何を考えているのかは、まるで分からなかった。
読んでくださってありがとうございます!サングラスの似合う顔になってみたい。