第3話 地獄の門、ノックノック - 1
こんなにも黒いアスファルトを、鶴屋はこれまで見たことがなかった。
あちこちに亀裂が走る足元は、艶のない黒に染まっている。吐き捨てられたガムの跡や、油っぽい染みを避けながら進む。午前九時にもかかわらず、裏路地はどんよりと薄暗かった。
へぇっくしゅん! 豪快なクシャミが耳に飛び込み、肩が跳ねた。音の方向へ首を回すと、アスファルトに転がる若い男が二度寝の態勢に入っている。男に気づかれないように、鶴屋は素早く首を戻した。緊張に耐えつつ前を向くと、目の前にはどこまでも続く灰色の薄闇がある。それも恐ろしくなって俯けば、今度は全身に無数の視線が刺さる錯覚に陥った。路地には人通りが少なく、しかし人の気配は激しい。俯くこともできなくなって、キョロキョロと目を泳がせる。
そんな鶴屋の五歩先を、呑気な鼻歌が進んでいる。フン、フフン、とやけに軽快なリズムに合わせ、草履が下手なステップを踏んだ。束ねた髪を左右に揺らし、コジロウは踊るように歩く。
あからさまに浮かれた侍の態度が、鶴屋には信じられなかった。犯罪者が潜むという路地で、こうも隙だらけでいいはずがない。昨日のコジロウの身の上話は、やっぱり全部嘘なんじゃないか? というより、嘘であってくれと願わずにはいられなかった。
こんな場所になど、鶴屋は来たくなかったのだ。
*
昨晩、隕石を光らせた後、コジロウは異常な興奮を見せた。といっても、はしゃぎ回ったわけではない。彼の喜びはどこまでも静かで、肌に貼りつくような粘り気を帯びていた。血走った目が隕石を見つめ、吊り上がった口角がひくひくと動く。「ようやった」「おぬしのおかげだ」「おぬしはそれがしの大恩人だ」繰り返し称える声の低さに、鶴屋は怯えた。炒め物を焦がしたあの頼りない侍は、もはやどこにもいなかった。
しかし鶴屋の恐怖には気づかず、コジロウはひとりで話を進めた。自らの手で隕石を撫で、その後でまた鶴屋に撫でさせ、それを何度も繰り返す。するとやはり、隕石は鶴屋が撫でたときだけ光った。そうして実験を終えるや否や、侍は鶴屋の肩を掴んだのだ。
「明日、それがしと共に来てくれ」
声と同時に、骨ばった指先が肩に食い込む。鶴屋は痛みに耐えながら、侍の目を見つめ返した。瞬きもしないふたつの瞳は、隕石の光が消えていてもなお、銀色に濁っているように見えた。
この侍についていけば、きっと最悪な目に遭わされる!
色濃い予感に襲われたが、断ることはできなかった。そのときはまだシャワーを浴びていなかったし、あたたかい布団で横になってもいなかったからだ。確証のない予感なんかで、目の前の疲労を無視できなかった。哀れな就活生はただ愛想笑いを貼りつけて、頷くしかなかったのだった。
*
「さぁ! もう程なく行き着くぞぉ!」
コジロウの弾みすぎた声が、薄暗い路地に反響する。今朝がた鶴屋を起こしたときから、侍はずっとこの調子だった。昨夜の粘つきはどこへやら、カラカラとしたハイテンションだ。その豹変ぶりがまた不気味だった。
コジロウという男の性質が、鶴屋にはさっぱり掴めていない。臆病で強引、でありながらも気遣いはでき、一方単純でネガティブで陰気、かと思えば過剰に楽観的に浮かれてみせる。人間性が見えそうで見えず、不安は深まっていくばかりだ。
が、出会って二日目の「侍」のことなど、分からなくて当然なのかもしれなかった。そもそも、彼はなぜ侍を名乗っているのか? そんな根本的なことからして、未だに知れていないのだ。
「されどおぬしの手でのみ光るとは、まっこと不可思議なことよなぁ! やはりおぬしこそ、隕石の持ち主なのやもしれぬ」
のう、と明るい声を出し、前を行く頭が振り返る。親しげな笑顔をいきなり向けられ、鶴屋はつまずきかけた。仲間ができたと思っているのか、コジロウは妙に馴れ馴れしい。その態度にはついていけなかったが、侍の発言自体には同意できた。
なぜあの欠片が光るのか。それは鶴屋にとっても「まっこと不可思議なこと」だった。生まれてからの二十二年間、ずっと凡庸に生きてきたのだ。超能力を持っていたとも、今さら何かが覚醒したとも思えない。
コジロウはまだニコニコとして、鶴屋の反応を待っている。気味が悪いが、突っぱねるほどの勇気もなかった。かといって同意するのも危険に思え、鶴屋は曖昧に首を傾げる。
「いやー……そうなんですか、ねぇ」
「そうであろうとも! もっとも、今はそれがしが譲り受けたがな」
カッカッカ、と高笑いが響く。昨夜せっかくシャワーを浴びて借りた布団で寝たというのに、鶴屋は早くも疲れ果てていた。溜め息をつくと右耳をハエが掠めていって、ヒィッと情けない悲鳴が漏れる。馬鹿にしやがって、ととっさに闘志が燃え上がったが、ハエの姿はもう見えなかった。
右耳を手のひらで拭い、もう一度溜め息をつき直す。クソ、全部あの隕石のせいだ。内心で悪態もついておく。あの欠片さえ光らなければ、こんな路地など一生歩かなかったのに。
そうして鶴屋は鬱々と、コジロウはウキウキと歩を進め、裏路地の奥へと進んでいく。割れた看板を通り過ぎ、密談を交わす男女を迂回し、野良の黒猫に横切られながら歩いていくと、右前方にひっそりとしたビルが現れた。
濃い灰色の外壁に、ことごとくカーテンが引かれた窓。その下の小さな入り口の前で、パタ、と草履の足音が止まる。鶴屋も続いて革靴を止めた。
「ここ、なんですか?」
「うむ」
コジロウの薄い唇が、引き攣るように閉じられた。先ほどまでの呑気さは薄れ、整った横顔には緊張が見える。鶴屋はごくりと、生温い唾を飲み込んだ。
眼前のビルはひっそりとして、全体にやや小汚い。無骨な外壁はまだらに汚れ、ところどころに細かなヒビや、焦げついたような跡も見える。コジロウの語りから受けた「裏路地の王者」の印象と、このビルはかなり乖離していた。
しかし、それがかえって恐ろしくもある。小汚いビルは有無を言わせぬ現実感に包まれていて、裏路地の王者の実在を、はっきりと証明している気がした。
あの六畳の長屋からここまで、コジロウは迷いなく歩いてきていた。身の上話が嘘っぱちだと思い込むにも、根拠が乏しい。鶴屋の胸に恐怖が満ちる。このビルに、「総長」がいるのだ。そのことからはもう、目を逸らせなかった。
「よし、行くぞ」
鈍い銀色のドアノブを、コジロウの手が控えめに握る。確かめるような視線を向けられ、鶴屋は頷いた。本当は頷きたくなどなかったが、逃げ出すのも怖かったのだ。
こうなれば、一刻も早く役目を終えてコジロウの元を去るしかない。今夜は絶対に金を惜しまず、何なら贅沢にビジネスホテルを予約して、安心安全の眠りにつくのだ。そう考えることでしかまともな精神を保てなかった。
着物の肘がゆっくりと曲がる。キィ、とか細い音を立てて、玄関扉が開いていく。身の丈およそ五尺九寸、長身のコジロウの背後について、鶴屋はわずかに中腰になった。できればこうして隠れたままで、全てをこっそりやり過ごしたい。開かれる扉の角度に比例して切実な願望が強まっていく。
「た、たのもー……!」
自信なさげな挨拶を投げ、コジロウは早足に扉をくぐる。鶴屋もバタバタと後に続き、体ごと振り返って扉を閉めた。就活をずっと続けていると、こうした所作ばかり身についてくる。ガチャ、とドアノブが鳴ってようやく、エントランスに向き合えた。
読んでくださってありがとうございます!就活マナー、一回全部逆のことやって面接したかった。