パラディオ伯爵代理テレンス~実の父親
「婚約を破棄したい? 馬鹿なことを言うな」
屋敷に戻り、すぐ執務室を訪れた。
父親は執務室にいたが仕事などやっていない。ただ執務を行なっている振りだけだ。
紅茶片手に大衆紙や新聞の三文記事を読んで時間を潰すのが日課になっている。
先ほどのカフェでの出来事を報告して訴えたエスティアの意見を、伯爵代理の父はそう言って冷たく却下した。
パラディオ伯爵代理テレンス。
エスティアの父だ。
綺麗な顔立ちの絵画に描かれそうな美青年で、濃いめに入れたミルクティ色の髪と、緑の目は彼から受け継いだもの。
もっとも、エスティアは腰まであるまっすぐな髪だが、父テレンスは緩めの癖毛だ。
ただし、エスティアの顔立ちは亡くなった母親そっくりで表情があまりなかった。
不仲な夫婦の片割れだった父親は、自分と同じ色を持っているだけの、妻似の娘のことも嫌いだ。
十代後半、学園を卒業してすぐ同じ学園生だった二歳年上のパラディオ女伯爵カタリナと結婚し、エスティアを儲けた彼はまだ三十代後半。
何も知らない他人が父娘で一緒にいるところを見たら、歳の離れた兄に見えるほど若々しく、美しい男性だった。
そんな彼は、女伯爵だったエスティアの母の生前は屋敷に寄り付かず、外に愛人を囲って子供まで産ませている。
妻が亡くなった後は屋敷に戻ってきて、エスティアが伯爵位を継承するまでの代理伯爵となった。
当主の仕事は代々家に仕えている家令や代官たちに任せっきりの〝お飾り〟だったが。
あの婚約者を見つけてきたのが、この父親だ。
婚約者は彼の実家の親戚の、モリスン子爵家の三男。
娘のエスティア本人に許可も得ずに、エスティアが領地を出て王都の学園に在学している間に、勝手に話をまとめて婚約まで進めてしまった。
それから五年が経過して、学園を卒業したエスティアも今年で二十三歳になる。
貴族の女性で、婚約者がいるとはいえまだ独身でいるには肩身が狭い年齢になってきた。
(何かと適当な理由を作って婚儀を伸ばしてきたけど、ついにお父様が彼を領地に呼び寄せてしまった。結婚式は三ヶ月後。もう猶予はない)
次期女伯爵との婚約なのに、ろくに婚前契約書も作成していない。
だからあんな無礼を平気で犯す男になるのだろう。
「平日の昼間、公衆の面前で堂々と女性を連れ歩き、婚約者の私を侮辱しました。これのどこが、モリスン子爵令息と婚約破棄しない理由になるのですか?」
しかもエスティアは『いつでも婚約破棄できる』とまで脅されている。
学園を卒業寸前にいきなり事後報告で決まった婚約で、この数年間もほとんど交流のなかった男だ。
しかもこちらは伯爵家、あちらは子爵家。
家格から言っても十分、婚約破棄の理由になる。
「その顔、その口調、お前は年々カタリナに似てくる。アルフォートは私の甥っ子だぞ? 私にもよく似て美男子だ。お前にはもったいない相手だ、多少の浮気ぐらい我慢しろ!」
この人はいったい何を言っているのか。
そもそもエスティアの問いに答えていない。
父も、婚約者のモリスン子爵令息アルフォートも確かに美男子だ。
だが、それがなんだというのだろう。
貴族の、それも女伯爵の婿養子となる伴侶が不貞を犯すなど問題だらけではないか。
声を荒げ出した父にエスティアは頭が痛くなってきた。
「ならせめて、弁護士立ち会いのもとで婚前契約書の改訂をさせてください。婚前の火遊びはまだ許せても、結婚後まで同じことをされては困ります」
溜息をついてエスティアは自分の主張を伝えた。
「お前の母親はそんな面倒なことはしなかったぞ!」
いいや、書類を作っていたのは間違いない。
今も伯爵家の金庫内に保存されているのをエスティアは見たことがある。
両親の婚前契約書には当然、婿養子の父の不貞行為を禁ずる項目がある。
だがこの父は母が生きていた頃から外に愛人を囲っていたし、そちらで産まれた子供はエスティアの三歳下の妹だ。まだ母が元気だった時点で庶子を作っている。
母はただ、面倒だったから父を放置していただけだ。
自分がいればパラディオ伯爵家は問題なく回るし、エスティアという後継者も儲けていた。
なら、従順さのない婿養子など適当に放牧して好きにやってくれという心境だったのだろう。
「婚約破棄か、婚前契約書の改訂か、どちらかの許可をください。お父様」
「却下だ。必要を感じない」
冷たく言われ、執務室の扉を指差しされた。
もう話はおしまいだ、出ていけ、の意味だ。
「お父様。その判断でよろしいのですか。パラディオ伯爵家の伯爵代理として正しい判断をされていると自信を持って断言できますか」
「うるさい! 口ばかり達者になって、女の癖に小賢しい!」
これ以上の口論が鬱陶しくなったのだろう。
父テレンスは自分のほうから執務室を出て行こうとした。
その際、引き留めようとしたエスティアにわざと強めにぶつかった。
四十代の父親が年頃の娘にやるには、随分と大人げない嫌がらせだった。
父親に向けて腕を伸ばしていたエスティアは、ぶつかられて体勢を崩した。
そして床に倒れた。
執務室には絨毯が敷かれてあったので、本来なら倒れてもエスティアの身体を受け止めてくれるはずだった。
ところが倒れた方向が悪かった。
執務机の後方には来客用の革貼りのソファとテーブルがある。
ソファには肘置きがあった。材質は木製で硬い。
その肘置きの角に、ガツン……とエスティアの後頭部が直撃した。
しん、と執務室が静まり返った。
「お、お嬢様! エスティアお嬢様!?」
室内に控えていた侍女や執事が慌てて倒れたエスティアに駆け寄る。
「わ、私のせいじゃないぞ! エスティア、お前が鈍臭いから悪いのだ!」
「旦那様、あなたという方はどこまで……! 大切なお嬢様ではありませんか!」
「大切? 誰が? 好きでもない女と義務で作らされただけの子供だ、いっそそのまま死んでしまえばいい!」
倒れたエスティアに狼狽える伯爵代理テレンスは、娘の侍女に鋭く叱責されて反論もできず、捨て台詞を吐いて逃げるように立ち去っていった。
「マリナ、放っておけ! それより医者の手配を!」
「はい!」
(好きでもない女と、義務で作らされた子供……)
慌ただしく動く周囲と、後頭部の激痛の中でも、父テレンスのその言葉はエスティアの耳にはっきりと聞こえた。
生前の母親から、父とは政略結婚だったことは聞いていた。
なぜこの、ろくでもない夫を放置しているかと幼い頃のエスティアは聞いたことがある。
『テレンスは犠牲になったのよ』
何の、とまでは母カタリナは語らなかった。
(もう父も、あの婚約者も要らない。……この家から解放して差し上げます。お父様)
そしてエスティアの意識は途切れた。