両親の過去と決裂
(前世を思い出す前のエスティアは、それでもこの人を慕う気持ちがあった。それを思うと残念ね)
「最後にひとつだけ聞かせてください、お父様。なぜ、あなたは母を蔑ろに……いえ、母と仲が悪かったのですか?」
(本編ではそれなりに親しかった二人のはず。お母様のほうが先輩で二歳年上だったけど、それだけが原因とは思えないわ)
前世のミナコの感覚で訊いてしまったのが運の尽きだ。
結論からいえば、聞かなければ良かったと後悔する内容が父テレンスの口から語られた。
テレンスが美しい顔を苦々しげに歪めながら語ったのは、それはもう根深い妻への恨みだった。
「始まりは婚約直後、このパラディオ伯爵領に顔見せに来たときだ。領内に入ると糞尿臭がする」
「は?」
嫌悪感いっぱいの顔になった父テレンスに、思わず間抜けな声が漏れてしまった。
(それって〝肥やし〟のことよね?)
パラディオ伯爵領は国内の他のほとんどの領と同じように、酪農と農業が主要産業になっている。
家畜から出た糞尿は発酵させて畑の肥料にしている。父親が嗅いだ糞尿臭は、農地の肥やしの臭いだ。
しかし、間違っても不衛生なわけではない。
(文明の進んだ異世界人の母が治めてた伯爵領よ。衛生状態はむしろ王都より良いぐらい)
だが父テレンスにとってはとても印象の悪い場所だったようだ。
「こんな、ど田舎領地の女との婚約など嫌で嫌で仕方がなかったが……王命で逆らえなかったし、婿養子とはいえ次期女伯爵の伴侶となれるメリットを取って結婚はした」
だが、結婚後も領内を嫌って、視察など出もしなかったと得意げに言っている。
「まあそれでもカタリナは私を手放したくなかったのだろうな。これでも王家の遠縁、美貌で知られたモリスン子爵家の男だ。お前の母は私を上手く宥めては機嫌を取っていたよ」
自分で言うのか、と普通なら呆れるところだが、この男は顔だけはすこぶる良い。
(前世だったら西洋絵画に出てきそうな美青年……うーん、美中年? ギリシャ神話に出てくる美少年みたいな印象なのよね)
本編のテレンス君はまさに巻毛の天使だった。
四十代となった今も濃いミルクティ色の緩い癖毛は艶々で、十代の頃のような薔薇色の頬でこそないが今でも社交界に出れば彼を見て頬を染める淑女は多いと聞く。
だがそんな前世のミナコの推し萌えも、父テレンスの次の言葉で吹き飛んだ。
「お前が腹にいたとき、カタリナは悪阻で苦しんでいた。こんな臭い領地で孕んだからそんな目に遭うんだ!」
「お、お父様。まさかそれをお母様に言ったのですか?」
当然だ、と父テレンスが胸を張っている。
なぜそこで自信満々な顔をするかな。
「だがお前の母親は生意気にもこんなことを言った」
『あなたの憤りはもっともだわ。ちょうど王都で大きなパーティーがありましたね。お友達の皆様にお悩みを相談してみると良いでしょう』
(それ、お母様は結果がどうなるかわかって言ってたわよね?)
むちゃくちゃ怒っていたのだけは間違いない。
妻カタリナに領地の肥やしの臭いを訴えた父テレンスは、そのことを王都のパーティーで友人たちに相談するよう勧められたそうな。
実際、彼は社交界のパーティーで、自分が婿入りした女伯爵領が如何に汚く、臭く、劣悪な環境であるか。
また、そんな環境を改善もしない妻の女伯爵の無能さを声高々に叫んだ。
そして、領地持ちの貴族たちから大顰蹙を買った。
「………………」
(お父様。それはもうツンデレキャラではなく、ただの〝痛い人〟だわ)
それも世間知らずの。
父テレンスの実家モリスン子爵家は当時、父の父、つまりエスティアの祖父にあたる人物が魔法騎士団の団長だった関係から王都住まいだった。
父は生まれも育ちも王都のシティボーイ。国内の地方領地の実態を知らなかったわけだ。
で、社交パーティーの場で声高々にパラディオ伯爵領の未開っぷりを話したそうなのだが、
『さすが、王都住まいの魔法騎士団長の四男坊様の仰ることは違いますなあ』
皮肉げに揶揄されたらしい。
その後、親切な学園時代の友人たちが丁寧に教えてくれた。
『お前が婿入りした女伯爵領は豊かな土地だ。お前が臭いと鼻をつまんだのは肥やしと言ってだな……』
(お父様、お父様。もう聞いてるだけで顔から火が出そうだわ)
どれだけ自分が世間知らずかを社交界で自ら公言した。
友人たちが良心的だったのだけが救いではないか。
そんな大恥をかいた父テレンスはパラディオ伯爵領に戻って妻を詰ったらしい。
『貴様は私の無知を知りながら事実を伝えることもなく、王都の紳士淑女に私が嘲笑われるよう仕向けた! 恥を知れ!』
『恥を知るのはあなたのほうでしょうね。どうでしたか、ご自身の過ちは理解できましたか?』
いくら何でも、伯爵家では本邸の敷地内にまでは家畜も肥溜めもない。馬屋はあるが本邸からは離れている。
それでもこの父は始終、伯爵家は糞尿臭いと言って罵っていたようだ。
当然、使用人や家臣たちの見る目も厳しくなる。
『そんなにこの家がお嫌いならもう結構ですよ。毎月のお小遣いは差し上げますから、好きなところにお行きになって』
下腹部を押さえながら女伯爵は微笑んだという。
『な、何を言って……』
『私たちの結婚は王命ですから離縁はできません。けれどもう世継ぎはお腹におりますので、あはたは不要なのです。私だって、あなたのような領地経営の初歩も知らない無能はもう要りません』
そして本邸から追放された。
言葉通り、毎月の夫としての手当てが小遣いとして支払われたが、それだけだった。
だが、エスティアの記憶ではたびたび戻ってきて母の執務室に居座っていた姿がある。
(そうか。あれはお金が足りなくて無心に来てたのかも)
生まれたのは娘のエスティアだ。
そして娘が十歳になるかならないかの頃に女伯爵カタリナは過労で早死にした。まだアラサーだったのに。
するとこの父テレンスは堂々と実父の権利を主張して、保護者になると言って戻ってきた。
「もう、結構です」
さすがにこれ以上、聞いていられなかった。
「何だ。もういいのか」
語りに熱が入っていた父は少し残念そうな顔になっている。
(そんなにお母様が嫌いだったって話を語るのが楽しいの? どこまでろくでなしなの、お父様)
「さあ、ご実家に帰られる準備を。今日の日暮れになってもこの屋敷にいるなら、着の身着のまま放り出しますからね」
自分でも驚くほど冷たい言葉で、改めて追放を命じた。