⑨私がナヒッドとうまくいったほうがいいんでしょ?
次の休日、ナヒッドとの劇場デート当日。
鏡の中に、化粧によって一層の女性らしさをまとったシェリーンがいた。ヘアセットもメイクも、ソハラの手によって施された。襟足でくるくると纏められた髪型は、流行りの画家の絵から話題になったギブソンロールと呼ばれるものだ。
「え……すごいかわいい」
「自分で言ってりゃ世話ないね、ソハラさまに感謝するといいわ」
「卒業後は侍女として雇って差し上げてもよろしくてよ」
「え、もっといいオウチがいい」
学生のうちは、校則に従い家格による身分差を持ち込まないことになっている。このような軽口を叩けるのも、あと数ヶ月といったところか。
ナヒッドとの約束の時間までもう少し。
シェリーンがソファーに腰掛けると、ソハラが慣れた手つきでお茶を淹れた。
「はぁ……緊張する。デートって普通どうやって過ごすの?」
「てかシェリーンがライル以外の男の誘いにのると思わなかったけど」
ソハラが向かいのソファーに座り、シェリーンにニヤっと笑いかける。
シェリーンの胃の上のほうで、何かがモヤっと沈み込んだ感覚があった。ライルとソハラが通信機器を持っていることについて、シェリーンはまだどちらにも尋ねることができずにいるのだ。
「最初は断ろうと思って話をしたんだけど、『わたしのことを知ってから決めてくれ』って言われて、しばらく保留だったの。それからなぜか毎日お喋りするようになって、断りづらくなったというか……。別に、劇を観に行くくらい断るほどでもないかなって」
「つまりナヒッドのことはなんとも思ってないってこと?」
「……ソハラは私がナヒッドとうまくいったほうがいいんでしょ?」
これが気になって、シェリーンは今日までライルにパーティーでパートナーを務めてもいいと伝えられなかった。
ソハラはキョトンとした顔で首を傾げ、一瞬の間のあとで大きな口を開けて笑い出す。
「何を勘違いしてるのかわかんないけど、アタシは相手がナヒッドでもそうじゃなくても、シェリーンがシェリーンの意志で幸せになってくれればそれでいいよ」
「それはライ――」
ライルであってもか、と聞きそうになって口を手で覆った。
シェリーンが望まない限り訪れるはずのない未来を、わざわざ確認する必要はないのに。これではまるで、ライルと自分とが幸せになる未来があるかのような口ぶりではないか。
「なんか顔赤いよ」
「いやいやいや赤くないから!」
「あー、もしかしてライルのこと考えたでしょ! えっ、待って、シェリーンやっぱライルのこと」
「違うから! なんで私があんなデリカシーなくて態度悪くてバカで女好きでバカで喧嘩っ早くて」
「バカ2回言った」
ソハラは空っぽになったシェリーンのカップに、笑いながら紅茶を注いだ。シェリーンはそこに差し湯を足して調整しつつ、深呼吸する。
「わ、私、もしソハラがライルのこと好きだったら、あの、協力、するから」
「待って待って、どしたの、どっか頭ぶつけた? 今の流れでなんでアタシがライルのこと好きってことになってんの」
「だって――」
シェリーンが何か言いかける前に、アディーブ家の侍従が来客を知らせた。ナヒッドが迎えに来たのだ。これ以上は、話をする時間はない。
「じゃあ、行ってくるね」
「はーい。楽しんできて! アタシはターヒルに本返してから帰るね」
部屋の前でソハラと別れ、シェリーンはエントランスへと降りた。灰がかった緑色の華やかな上下を着こんだナヒッドが、穏やかに笑う。
「可愛らしい色ですね、よく似合う」
「ありがとう」
ライルが選んだ淡い蘭色のドレスは、ソハラの評価も高かった。
胸元はレースで覆われているため、透けているとはいえ露出は少ない。こういったシチュエーションに慣れていないシェリーンにとって、懸念すべき点が少ないのは大歓迎だ。
ナヒッドが差し出した手をとって屋敷を出て、クライシュ侯爵家の馬車に乗る。
貴族のタウンハウスが並ぶ区画から王都の中心地を過ぎ、宝飾品店の並ぶ大通りの先にそれはあった。
劇場ツッコサリーノ座。王都にいくつもある劇場の中で、ツッコサリーノ座は決して大きいとは言えない。しかし現在上演中の戯曲は盛況で、チケットをとるのも一苦労らしい。
馬車を降りて劇場を見上げる。
雲に覆われた夕暮れ空の下で明かりを点し始めたこの劇場、およびここで活動する劇団の後援者が誰であったかを、シェリーンはふと思い出した。
「……ツッコサリーノ座ってギラス子爵の」
「ああ、そう言えばそうですね。もしかしたら、ソハラさんも観に来ているかも」
「ふふ、それはないわ」
彼女が観に来ているはずがないことはわかっている。先ほどまでアディーブの屋敷で一緒にいたのだから。
周囲を見渡すと、恋人か夫婦といった様子の男女のカップルばかりだ。多くは門を入って左手にある売店で飲食物を購入してから、劇場内へと向かっている。
「ロイヤルボックスを取ってますから、給仕がいるはず。さぁ行きましょう」
きょろきょろしてばかりのシェリーンに、ナヒッドが苦笑しながら劇場入り口を指し示した。




