その後のお話:前編
アディーブ伯爵邸に女性の叫び声が響き渡る。絶叫の主はソハラ・ギラス子爵令嬢だ。
息の続く限り叫んだソハラは、息継ぎをしてシェリーンのスカートをめくりあげた。
「わっ、わっ、ソハラちゃん積極的ぃー!」
「うるさい! なんっ、なんでっ、なんでこんなに傷だらけなのよ? ねぇ、明後日が結婚式だってわかってる? わかってるわけないわよねぇ? このお馬鹿!」
「だってカル・ハイム戦役の英雄が視察にいらしたのよ? それで急遽、稽古をつけてもらえることになっ――」
「だってじゃない! 明後日が! 結婚式なの!」
スカートをおろしたソハラはシェリーンの背後に回って紐を解き、ドレスを引っ張って中を覗き込む。肩にも胸にも創傷や打撲傷が確認できた。それに恐らく腕も。
「でもソハラが治してくれるし」
「どうせ治癒士を頼るんなら近衛隊所属の治癒士に頼みなさいよね! アタシは――」
「あーだめだめ。うちの治癒士、なんか私にだけ冷たいもん」
ソハラは全身の空気を絞り出すようなため息をついてから、シェリーンの傷のひとつひとつに手をあてて治癒魔法を唱えていく。
卒業して2年が経ち、誰もがそれぞれの進路を邁進していた。ソハラは治癒士として騎兵隊に、ターヒルは秘書官室に、シェリーンは近衛隊として王室警備といった具合だ。
「あの治癒士、ライルの大ファンだってもっぱらの噂だもんね」
ソハラが肩をすくめたとき、シェリーンの私室の扉が強くノックされた。
治癒を中断したソハラがドレスを整え始めると、シェリーンは兄であるターヒルの入室を許可した。と同時に返事を待ちきれなかった様子のターヒルが飛び込んでくる。
「ソハラ、大丈夫かい? 叫び声が聞こえたようだけど」
ターヒルは顔立ちこそシェリーンと瓜二つではあるものの、学生時代と比べると身長も肩幅も大きくなって男らしくなり、もはや兄妹を間違える人物は皆無と言える。
「聞いてよ、シェリーンってばまた全身に傷を作ってきたのよ」
「はぁ……。君に結婚相手がいて良かったと心から思うよ。婚約が決まっていなかったら、生涯剣を握っていただろうからね」
シェリーンの結婚式の準備のため休暇をとっているターヒルは、こめかみを何度も揉みながら肩を落とす。
「あら、私は結婚しても剣は握るつもりだけど」
「公爵閣下も頭を抱えていることだろう」
ターヒルはベルで呼んだ侍従に茶を用意するように言って、ソファーに座る。ドレスを着せ終えたソハラもその横に並んで座った。
「結婚したら剣を振ってる暇なんてないんじゃないのー?」
「この2年のあいだ近衛の仕事の他に、結婚式の準備と公爵家の嫁としての修行までこなして来たんだから大丈夫よ」
シェリーンが頬を膨らませながらふたりの対面に座ると、ターヒルは「それはわかっているけど」と言いながらソハラの肩を抱いた。
「いくら仲がいいとはいえ、あんまりソハラを便利に使わないでもらえるかい」
「うっわ!」
兄の惚気が始まったと、シェリーンは目を大きく開いてふたりの様子を伺う。
周囲の目を気にしてかあまり親密な空気を出さないふたりだったが、最近ではいつもこんな感じだ。結婚式を半年後に控え、日ごとにイチャイチャがエスカレートしていったのだ。
「ソハラだって仕事で魔力を消費しているんだからね、無理をさせられては困るよ」
「ふふっ、ターヒル優しい!」
ソハラはターヒルにしな垂れかかり、匂いでも嗅いでいるかのように首元に頬をこすりつける。シェリーンは見ていられないとでもいうように眉を顰めた。
「うっわ、うっわ。ねぇ、そういうのはさぁ、もっと――」
シェリーンが口を開いたところで、再びノックの音が。お茶の準備をしに来たのだとメイドの声があり、入室を許可する。
扉の開く音に合わせてソハラが入り口のほうへ目を向けた。お茶請けがソハラの好物だったのか、彼女の目が輝く。
「それで、何か言ったかな?」
「仲がいいのはいいけど、そういうのはもっとふたりだけのときにしろってハナシ!」
「とは言っても、ここは僕の家で君は妹なのだからね。十分配慮していると思わないかい?」
ソハラの髪をくるくるといじりながらイタズラに笑うターヒルに、シェリーンは「むむ」と口ごもる。
兄と親友の仲がいいのは嬉しい反面、ふたりの距離があまりに近すぎるのは複雑なのだ。いまだに彼らが恋仲にあるということに慣れずにいる、とも言える。
それに何より、男女のイチャイチャを見るということ自体がどうにも恥ずかしい。
メイドがお茶とお菓子をテーブルに並べていくのを眺めていたソハラが、何か思いついたようにシェリーンへ笑顔を向けた。
「あれだよね、お子ちゃまなシェリーンには刺激が強いんでしょ。わかるよ、わかるわかる」
「は? そういうんじゃなくて」
「ライルとうまくいっていないのかい? 兄としては心配だな」
同情するように目を細めて頷くソハラにも、言葉通り心配そうに眉を下げたターヒルにも、どこか揶揄うような空気がある。
「そっ、そんなわけないでしょ、私たちは――きゃぁっ!」
反論しようとしたシェリーンを大きな影が覆い、驚いて顔を上げると同時に彼女の体が宙に浮いた。背中と膝の裏に腕を差し入れて、ライルがシェリーンを抱きあげたのだ。
「シェリーンがお子様か、もしくは婚約者と不仲かもしれないんだ。その点について君はどう思う、ライル?」
「少なくとも後者は違うってのを証明させてもらいたい所存だな」
ライルはシェリーンを横抱きにしたまま、ソファーへと腰掛けた。




