②あのバカはほら、あっちで鼻の下伸ばしてるわ
ランチを終えて大講堂へ移動すると、兄のターヒルがシェリーンに手を振った。
ターヒルの属する総合教育科とは、いくつかの講義で顔を合わせる。シェリーンが彼の元へ向かうと、周囲からは「鏡のようだ」という声が聞こえてきた。
本人の目から見ればまるで違うのにどうして見分けがつかないのか、シェリーンは昔からそれが理解できなかった。
ターヒルのほうが線が柔らかいし笑い方も優しいし、男の子だから少し背も高いし肩幅だってある。手の大きさはあんまり変わらないが、足の大きさはターヒルの圧勝だ。もしかしたら体はまだ大きくなるかもしれないし、そうなればさすがに間違われないだろう。
願わくは、兄の身長より先に自分の胸が成長することで、見極められるようになってもらいたいのだが。
「おや、ライルは一緒じゃないんだね」
「あのバカはほら、あっちで鼻の下伸ばしてるわ」
同じく騎士科のライルはこの講義にも出席するはずだが、今日は少し離れたところにいた。女生徒たちに囲まれているし、彼の右腕には昨年のミスキャンパスがコアラのように掴まっている。
「喧嘩でもしたのかい?」
「別に」
ターヒルと並んで席につくと、彼は懐から手紙を何通か取り出した。
「シェリーン宛ての手紙、今週は3通預かってきたよ。特に今日は昼休みの終わりに2通も追加されて驚いたな」
「ああ、うん。それ全部『シェリーンに渡してください』だった?」
「ハハ、いや、いつも通りどれも勘違いだよ。僕たちはそっくりなんだから、そこまで気にすることじゃ……そういえば、ひとりだけ僕とシェリーンを見分けている人物がいたね。ええと、これだ」
シェリーンは目をカッと開いてターヒルの手元を見つめた。3つの封筒の中から、ターヒルの細くしなやかな指が最も質の良いものを選び出す。
「えっ。ナヒッド・ラ・クライシュって、なんとかの貴公子とか言われてる若き侯爵様じゃない」
「蒼雪の貴公子だったかな? そうだね。御父上が亡くなってもう1年以上になるか。領地の仕事は叔父にあたる人が代理であたっているというから、卒業したらすぐにも領地へ戻るだろうね」
青みを帯びた銀色の髪と、狼のような鋭い灰色の瞳で女生徒たちの心を掴んで離さないと噂の人物だ。魔術士科の彼と校内で顔を合わせることは滅多にないが、そんなシェリーンでさえ彼の姿はすぐに思い浮かべることができる。
「領地は北の外れだっけ」
教授が講堂へ入って来るのも構わず、シェリーンは封をピリと破いて手紙を取り出した。その一瞬だけ便せんがぼんやりと発光して、そしてすぐに消える。
大切な書簡にはかならず施される、術者へ開封を知らせる魔法だ。つまり彼にとってこの手紙はとても重要な意味を持つということ。
にも関わらず、シェリーンは手紙を一読して「んん?」と唸りながら首を傾げた。
「講義はもう始まっているよ、シェリーン」
「今度一緒に出掛けましょうとしか書いてないんだけど。ほんとにラブレター?」
手紙に施されていた魔法と、記載されていた内容とのひっ迫度がいまいち比例しない。不思議に思いながら何度も読み返したり裏面に目を通したりする。
が、手紙を封筒へ戻そうとして他にも紙片が入っていることに気づいた。有名な劇団による興行のチケットだ。
「ねぇターヒル、これって最近話題の戯曲よね?」
横に座る兄へ話しかけたとき、シェリーンの目の前で小さな光の玉が弾けた。騎士道倫理学の教鞭をとる先生が、生徒を指名するときに好んで使う魔法だ。
「ミスタ……いや、ミス・アディーブ。魔導騎士道を最初に説いたナム・ア・コタッダは、魔法剣を握るうえで忘れてはならない心得としてなんと言ったかね?」
「はいっ、ええと……」
シェリーンが助けを求めて隣のターヒルに目を向けるが、優秀かつ真面目な兄はシェリーンの差し出したチケットをしげしげと眺めるばかり。
諦めて顔を上げれば、斜め前方でライルがニヤニヤと笑っている。
目が合ったミスキャンパスが、ライルの耳元に顔を近づけて何事か囁いた。
もう、腹が立つ! とばかりにシェリーンは机に手をついて立ち上がった。手のひらの下で手紙がクシャっと音を立てる。
「まさか、わからないはずがないね?」
教授がじろりと睨む。
「もちろんです。まず、謙虚であれ。例えば答えに窮した友人を嘲笑ってはならない。それから、無欲であれ。例えば色欲に溺れて、講義中に異性と腕を絡めるようなヤツは騎士失格ってことですわ」
教授をはじめ、講堂内のほとんどの視線がライルへと向かった。それは、シェリーンがずっとライルを見ながら発言したせいだ。
「は? おま、何言って――」
「ミスタ・ベーダス、静粛に」
クスクスと笑う声がそこかしこからあがった。腰を浮かせたライルは、座り直して不貞腐れた顔のまま腕を組んだ。ミスキャンパスもまた、居住まいを正す。
「ミス・アディーブの解答は試験なら不正解だが、今この場においては60点くらいは認めよう。仲間を笑うことも、時と場所をわきまえないのも、唾棄すべきことである。肝に銘じておくように」
教授によるダメ押しで講堂内の笑い声は小さくなったが、ライルの視線だけはシェリーンに向かっていた。
顔の動きだけで、シェリーンに「覚えとけよ」と訴えている。
同じく顔芸で応戦するシェリーンの横で、机の上を滑らせるようにしてターヒルがチケットを返した。