ep.33 神様もね。人に恋をすることがあるんだよ
――突然だけど。キミは、《《だれ》》ですか?
「……なーんてね」
いつものように笑みを浮かべる沙織がいた。
それは、踏みこむべき自身のラインを区切っているようで、その役割に徹するために半歩引いているようで。
それは俺が、彼女に望んでいることではないんだとわかっていた。
「あの、えっと、いま言ったことはナシ! キスも、好きって言ったことも、何もなかったことにしていいから。ね? なつ海ちゃんにも、さやかにも。悪いしね」
顔の前で手を振るうジェスチャーですべてをナシにしようとする彼女。
ナシになんて、出来るわけがないというのに。
俺はもう彼女の本音も、彼女の口づけも知ってしまったというのに。それは時間が戻っても、俺がたとえ別の違う世界に迷い込んだとしても、確定された事実として残るというのに。
沙織の腕を強引につかむ。
その細い手首は俺の手で容易く掴めるほど華奢なものだった。
「え! ちょっと、痛いよ……」
「なかったことになんか! 絶対にしない。しちゃいけないんだ」
いまこの手を離したら、いまここにいる佐藤沙織とはもう会えないような、そんな気がした。だから俺は必死で彼女に言葉をかける。
「一樹……、でも。沙織は、違うよ。さやかとも乃愛さんとも……なつ海ちゃんとも。由依ちゃんだって一樹のこと好きなの知ってるよアタシ。皆とアタシは違うんだよ……!!」
「どう、違うっていうんだよ」
「わかんない……。わかんないけど。そう、モブって言うらしいんだよ。アタシみたいなのは、だから皆とは違うんだよ。だから間違えなの、一樹がアタシを好きってことは」
「そんなことない!」
「そんなことあるの! なつ海ちゃんがまえに言ってた。恋愛はゲームみたいなもんだって。これがもし、ゲームだったら、きっとバグなの、エラーなの! アタシがヒロインだったらいけないの! キミの隣にいることが怖いの……!」
取り乱したように、空いた左手でもって頭を抱える。
沙織は自分自身のことを、そして俺への恋心を、エラーでありバグであると言い放った。
まるでre;summerのことを。美少女ゲームの筋書きのことを知っているかのように。しかし俺にとっては、もうそんなことはどうでも良かったんだ。
「……そうだよ。沙織は俺の知るヒロインじゃない。だけどな、俺にとっての特別なんだ。俺が誰かって聞いたよな。俺は真田一樹! 趣味はゲームで、特技はプログラミング! 幼馴染のさやかと妹のなつ海にも、乃愛にだって浮気しそうなくらいのどうしようもない優柔不断なやつで。それでも、それでも俺は!」
「……」
「俺は……お前が、佐藤沙織のことが好きなんだ」
その瞬間、沙織は一瞬目を見開き、そしてそっと瞳を閉じた。
浅く息を吸う音だけが聞こえる。
呼吸に合わせて小さく動く彼女の細い首筋だけを俺は目で追っていた。
その首へとゆっくりと伝う滴が、彼女の涙だということは、すぐにわかった。
「でも、アタシがキミを好きになっちゃったら、さやかが死んじゃうの!」
「え……あれ。アタシなに言ってるんだろ。あれ、可笑しいよね」
「ああ……そっか、間違えちゃったんだ。沙織は、キミの傍でさやかを救うサポートをすることが役割だったんだ」
「――そう、水月ちゃん。あの子なら、もう一度やり直してくれる。あのときみたいに、アタシが一樹を好きにならないようにもう一度……」
そう言って沙織は俺の胸を強く叩きつけた。何度も何度もその細い手を握ったよわよわしい拳で。
あの日のように。結城さやかが死んだあの時のように。
***
昔から、恋愛ゲームは得意だった。
そのルート分岐による攻略も、イベントCGの100パーセント取得もお手の物だった。
だからと言って現実の恋愛がうまく出来るわけじゃなかった。
結城さやかと佐藤沙織。
幼馴染とその親友という構図において、俺は決してうまく立ち振る舞うことができなかった気がする。それでも、二人との夏は俺にとって特別のひと時だった。
しかし、その結末はまるでシリアスな泣きゲーのように呆気なく幼馴染の死という結果で終わった。
死の真相を俺は知らない。
沙織は何か知っているようだったが、彼女は彼女自身を悔いていた。
彼女のその絶望が生んだ奇跡が、俺と水月の出会いだったのだろう。
時の河。そこに初めて誘われたのはそのときだった。
藁をもつかむ思いで、幼い神様に俺は求めた。
「俺にもう一度この夏をくり返させてほしい。多分、いまの俺にはできないかもしれないけど。せめて時間があれば。この夏をくり返し検証するだけの時間があれば……きっと」
「この夏をくり返すことができるなら。次こそはルートを間違えないように、全ての場面を、台詞を網羅して。そのスクリプトの中から絶望の芽を摘んでみせる」
そう、現実を捨ててでもこの夏を攻略するためのプレイヤーでいようと思ったんだ。そうすれば、彼女は――
《《彼女たち》》はきっと救われるから。
――それなら書き換えてあげる。この世界の外側の存在に。でもね、神との契約は代償をともなうもの。それはきっとキミを縛ることになる、それでもかまわない?
「ああ……かまわない。俺はこのエンディングを変えたいんだ」
そうして、俺は佐藤悟という存在へと書き換えられた。
佐藤悟という人間は、ただの会社員だった。
つまらない大人の一人だった。
物語性もなにもない、どう転んでも主人公にはなれそうにもない存在。
さしての幸福も、不幸もない生活だった。
それがどういう理由によるものか、わからない程度の喪失感を埋めるように、ただ生活のために仕事をして。あとの時間をすべてゲームに注ぐ日々。
ノベルゲームを攻略する。
そうすることだけはやめなかった。やめちゃいけないと思った。
その理由をそのときの俺は、説明できなかったけれど。
やがて、琥珀――Amber softwareの美少女ノベルゲーム『Re;summer-夏色はくり返す-』をプレイすることになり、その攻略に没入した。
佐藤悟であった俺がその作品をくり返しプレイし続けた理由。そのことは、いまならはっきりとわかる。
――もう一度キミと、心揺さぶる初夏の恋を。
ただ、そう願っていたんだ。
***
「あの子は、リセットを望んでいるみたいだけど。君はどうするの?」
「水月か、ということはここは時の河なんだな」
聞きなれたような、だいぶ久しぶりなような。そんな感覚があった。
きっと、空には満点の星空が広がっているだろうが、
それをいまは見る気にはなれなかった。
ただ川の流れるせせらぎの音がして、そして水月がいるという事実だけが俺にとって重要だった。
「正解だよ、僕は水月、いちおう人の言う神様と呼べる存在さ」
自身を神と呼ぶ少女。
そのことに今は疑問などなかった。
彼女は神様だった。俺はそのことをとっくの昔に知っていた。
あくる日、泣きじゃくるなつ海と歩いた砂浜。
その先にある鳥居の隅に、一人座り込んでいた小さな少女が水月だった。
俺たちのことを見るその寂しげな瞳を覚えている。
「……小さな神様がいたもんだな。でも、そうだよな。俺の願いを叶えてくれるのは、いつもキミだった」
「あの日の君の歳に合わせようとしたんだよ。一応、僕なりの配慮だったのに、人間はすぐに大きくなるね」
「そっか、すまんな。なぁ……沙織はなぜ水月を知ってるんだ」
リサマの世界では、水月は黒衣の死神だった。
だが、いま俺の前にいる少女は、白衣に千早を羽織った、巫女の姿だった。
それは、あの日見た彼女の姿そのものだ。
「あの子、佐藤沙織は君と付き合い始めて、同じく真田一樹に思いを寄せていた親友の結城さやかが死んでしまった。その事実に彼女は耐えられなかったんだね。だから一つの奇跡をあげることにしたんだよ。物語を一つ、書き換えたんだ」
「――沙織はなにを願ったんだ」
「彼女自身が『君と恋をしない世界だよ』。彼女の恋心が結城さやかの死のトリガーだと思っているからね。くしくもそれは、キミへの代償だったようだけどね」
どうして水月が泣きそうな顔をするのだろう。
人の願いを叶える神様だという。
そして、その願いは叶えられているというのに。
「そうか、それで沙織はモブキャラだったんだな」
「そうだね。そして、同時に君も僕に願ったよね。ゲーマーの君らしい発想だと思うけど。結城さやかが死なないTrue Endingを見つけるため、君自身が傍観者としてこの世界を攻略する側でやりなおしたいなんて」
「……ああ、そうだった」
そっと指先を宙に翳した水月。
淡く光る煌びやかな翠の灯、それは指先に止まった蛍だった。
「どんなに繰り返しても逃れられない不幸を目の当たりにするだけの存在。君が望んだ佐藤悟とはそういう存在だった。繰り返される営みのなかで、避けられない不幸な結末。無意味な繰り返し。神であるボクが言うのもなんだけどさ、仏教的な思想でいう無限の苦しみ、無間地獄に落ちた者の末路そのものだよ。君はそのことに絶望したから、ここに戻って来たんじゃないのかい」
「僕は神ではあるけど、神も万能じゃない。死の総量は変えられない。そして、佐藤沙織。彼女もまたそんな無間地獄の狭間にいるとは思わないかい」
「そうかもしれないな」
「終わらせればいい。ボクもいまの君たちを見るのは辛いんだ」
指先の蛍が飛び立っていく。
その先に目線を向けながら、水月は呟く。
生命の営みの中で繰り返される生と死。
それを憐れんでいるのか、憂いているのか。目の前の神様はあの日のように淋し気だった。
「水月。ありがとな、でも俺はまだ諦めてないんだ。沙織のことも、さやかのことも」
「――だったらさ、源乃愛でも真田なつ海でも供物とすればいい」
「ううん、君はそんなことできないよね。だからさ――ねえ」
「言わなくていい……」
「《《ボクを殺せばいい》》」
「どうして水月は……俺なんかの願いをかなえようとするんだ」
その言葉を俺が発したとき、もう目の前にその銀髪の少女はいなかった。
ただその彼女の言葉はたしかに聞こえた。
――神様もね。人に恋をすることがあるんだよ
なあ、水月。
俺はまだこのゲームを詰んだとは思ってないんだ。
だからリセットではなく、ここからのリスタートでいいかな。
佐藤沙織の願いだけを書き換えて、このまま最後のEndingまで俺を導いてくれないか。
そう心の中で告げる。
それは俺の願いであり、決意だった。
俺なんかに惚れた馬鹿な神様に対しての、心からの祈りだった。




