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ep.30 マリン・サマー 2/3(なつ海視点)

「出し抜くんだよ! 先輩たちと違って由依たちは学校も違うんだから」


 兄さん達の学園祭の打ち上げと、乃愛さんの誕生日会を終えたあと、わたしは由依と一緒の部屋で、ベッドに横になりながらスマホゲームを開いていた。

 そんなとき、由依が急遽言い出した。

 海に行こうよ。と。


「だからって……海?」


 つまり、由依が言いたいことっていうのは、最近になってモテ期が来たであろう兄をさやかさんを筆頭にした高校生組がいないときに二人占めしてしまおう、というものだった。

 

「うん! なつ海ちゃんの《《これ》》で、悩殺しちゃえばいいって思うんだ」


 由依がわたしの胸を指でつんと指す。

 普段からそれくらいのスキンシップは普通のことで、女子同士だし、特に気にはならない。しいて言うならば、羨ましいでしょ。という感情くらいだったりする。


「由依、あんたわたしの前だと大胆よね。あ、でもこの前も兄さんにキスしてたよね……あー、つまりビッチなんだ」


「ビ、ビッチ!?」


「違うの?」


「ち、ち、違うよ! それに、なつ海ちゃんだって、いっつも胸元ゆるっゆるな服着てカズキさんの前にいるじゃない」


「家だもん」


 実際見せつけているつもりもないわけで。

 視線を時折感じない、わけでもないけれど。この前もパンツ見てたし。

 いちいちなにも言い返しもしないけど。


「その言い訳ずるい」


「ずるくて結構。フェアプレーだけが……あ、そっか。うん、海。いいかも」


――フェアプレーだけが戦略じゃない


 それは以前にわたし自身が口にした言葉だ。 

 あれは確か、元気なさそうな沙織さんにかけたものだった。 


 それも、かつての兄がゲームをしているときに、何度対戦しても勝てなくて拗ねてたわたしに教えてくれたことだ。

 

 敵に塩をおくる段ではないのだが、そうすることで妹であるという言い訳と、イニシアチブを持とうとしているのかもしれない。

 ずるい心を正当化するために、兄さんの言葉を使うのもなんだか、気が引ける。

 

 それでも由依の考えはありだと思った。


「わたしが水着になるってことは、由依もでしょ? その胸でよく自信持てるよね」

 

       ***


 燦燦と照り付ける太陽と、青い空。そして一面のオーシャンビュー。

 防波堤に座るわたし達の眼に映るのは、自然の美しさと、締まり切った海の家。


 海開きは、7月17日と書かれている看板。

 そう、今日はまだ7月2日で、海水浴はシーズン前。

 

 準備した水着は大きなリュックのなか。由依を恨めしそうに睨んだのは1時間前だった。人もまばらな海浜公園の傍で、釣り糸を垂らしていまだに何も引っ掛かりもしやしない。


「なつ海、釣れたか?」


「……」


「おい、まだむくれてんのかよ。海開き前だったから仕方ないだろ」


「……」


「良かったじゃん、竿とか借りられたんだから、これも海の醍醐味ってもんだろ」


 機嫌取りに兄さんがわたしに声をかける。その手には辛うじて開いていた出店の焼きそば。

 由依からはラムネ瓶が提供された。

 釣り糸を垂らしたまま無言を貫く仏頂面のわたしへの、まるでお供え物みたいになっている。

 赤白で塗られた浮きが波音に合わせて、上下に揺れ動く。

 その様子をじっと見つめていた。

 

「……ミミズ気持ち悪いし、磯臭い。ゲームだともっと簡単に釣れるのに」


「ゲームのなかのおまけの釣りとは別もんだっての。それに昔は手一杯にミミズ掴んでただろ」


「知らない。覚えてないもん」


 嘘。

 覚えている。あれはわたしがまだ小学校高学年のときだった。そのときもこんな感じで防波堤に座って。

 わたしは無邪気で、そのとき釣っていた魚はアジだっただろうか。小さなその魚を釣っては手に掴んで走り回っていた。


「あ、なつ海ちゃん引いてる引いてる!」


「……は? きゃっ。え、ちょっ」


 由依の声に思わず現実へと引き戻される。

 竿が撓り、浮きは波間に沈み見えなくなっていた。強い力に思わず身体がよろめく。こんなのコントローラーでは感じられない感覚で、どこか懐かしさを覚える。


――なつ海。巻くんだよ! 手離すなよ


 そうだ、この言葉、この声。

 中学生で声変わりをはじめた兄から発された、知らないちょっと大人びた声。

 まだ背もいまより低くて、まだまだ子供じみた姿だったのに、

 わたしは、ふいに心が動かされたのだ。


「やだやだ。めっちゃ引っ張られるじゃん! 兄さん、どうしよ、無理無理無理!」


「なつ海ちゃんがんばって!」


 いつものゲームをするときのような三角座りの態勢で、竿をぎゅっと掴んで、リールをもつ右手は固くて回せない。

 アーチを描く竿が折れそうで少し怖い。

 暴れまわる糸が水面をいびつな円を描くようだった。


「これで、いけるか?」


「え、……うん」


 背中に熱を感じた。

 後ろから強い力でわたしの身体を支える兄さんの腕だった。ふたりで握る竿のグリップと、リールに添えられた掌。

 それは、あの日の兄と重なった。

 二人がかりの力でもって、釣竿の動きは安定を取り戻す。


「落ちないようにちゃんと、支えてね」


「おう」


「んっ。まだ、かたいけど……少しずつ、巻いて。巻いて……」


「なつ海、いいぞ、もう少し」


 遠くにあった釣り糸が、少しずつだけど巻かれて近づいてくる。

 由依があわててアミを手に防波堤の端に立つ。

 あまり近づくと危ないよ、って思うけどそれを口に出すほどの余裕はわたしにはなくて。

 大慌てしながら3人がかりで、一匹を釣り上げた。


「……釣れたね。思ったよりちっちゃい」


 まだ釣り針を口に食い込ませた小さなアジがアスファルトの上に置かれたアミの上を跳ねる。こんな小さな魚があんなに重たく感じたのが不思議なくらいだった。


「でもなつ海ちゃん一番ノリだよ! 凄いよ」


「うん、由依。これ、どうしよ。わたし触れない」


「おいおい、いつももっとデカいやつ捌いてるだろ。貸してみな」


 わたしから竿とリールを取り上げた兄さんがアジの口へと手を伸ばす。

 魚の腹を掴んで固定して、要領良く返しのついた針を外す。


「買ってきた魚と一緒にしないで」


「昔は普通に触ってたのにな」


「だから、昔のことはいいって! 覚えてないもん」


 嘘。

 本当はすべて覚えている。恋をした日のこと、あれもこんな日差しの強い夏の日だったから。寄せては返し繰り返される波音の連弾。

 まだあの日のわたしは幼くて、その胸の鼓動の意味をしらなかったけれど。

 まだあの日のわたしは純粋でその心の痛みをわからなかったけど。


「なぁ、なつ海」


「兄さんなんでしょう」


「面白いだろ」


「……ん。怖いし、気持ち悪いし、臭いんだけど――」


「なんか、ちょっとドキドキした。かも」


 兄さんの顔を見ることができなくて、由依の顔を見た。

 そのときの彼女のしたり顔が悔しくて、ぬるくなったラムネの瓶に手を伸ばす。


 カラン、と音をたてるラムネ玉の音も懐かしくて。

 なんだか、そう。ドキドキした。

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