報告の364
「……分かりました」
しばらくして、泣き止んだみゆさんは渋々ながらではあるけれど僕の頼みに頷いてくれた。
「よかったぁ。ありが――」
「けど、一つだけ!」
お礼を述べようとすると、みゆさんは僕の鼻先に人差し指をピッと突き出し、
「条件として私にもその子の面倒を見させてください!!」
と声高らかに宣言した。
「えっ! いや、でもそれは……」
迷惑になりますし、と言葉を続けようとすると、
「それ以上言ったらもう片方も叩きますよ」
そう言って、手を振りかぶる仕草を見せる。
「もう十分迷惑はかけられてます。だからもう私にそんな気を遣わないでください」
「でも――っ!」
それでも言い返そうとする僕に、みゆさんはきっと睨み、平手から拳をつくった。僕は慌てて、
「あー分かりました、分かりました!! ぜひよろしくお願いします!」
と両手を挙げて降参のポーズを取る。つくづく自分の弱さが情けなくなる瞬間だった。
「それでいいんです」
鼻を啜って、みゆさんは照れ臭そうに笑顔を浮かべた。
まいったなぁ、敵わないや。
そう思い、頭を軽く掻く。そんな表情を見せつけられたら思い出してしまうじゃないか。
はやくここから離れたくなって、僕は椅子から立ち上がった。
「そろそろお暇しますね。お忙しいみたいですし。詳しい話は後ほど連絡させてもらいます。これ今の連絡先です」
矢継ぎ早にそう言って、僕は連絡先が書かれた用紙を机の上に置く。
「では」
手早く荷物をまとめ、出口に向かう。
「あっ、ちょっと!」
ドアの取っ手に手を掛けようとしたところで、みゆさんが僕を呼び止めた。
「えっと、本当にこれでいいんですか、おにい……いえ、片桐さん」
切ない響きがそこには混じっているような気がした。だから僕はゆっくりと振り向いて、
「お姉さんに……朝日に似てきたね」
とだけ言って、部屋を出た。
「……ばか」
背後から投げかけられた小さな呟きに、僕は気付かない振りをしてこの場を立ち去ったのだった。
中に入ると全面コンクリートのあまり広くはない無機質な部屋だった。
「やあ! 久し振りだね、片桐君」
そこでは白黒斑模様の白衣を着た飄々とした男性が、笑顔で僕を出迎えてくれた。
「お久しぶりです、先生」
「よく来たね! まあ、とりあえず座りなよ」
「はい、では」
僕は先生と向かい合うように置いてある回転丸椅子に座った。
左には壁に沿って机があり、その上にはパソコン、そして聴診器や注射器等が無造作に転がっていた。逆側には寝台もある。奥のスペースはカーテンが引いてあってよくわからなかった。まるで診察室を彷彿とさせる空間だった。ただ一般的な診察室とは違い、あまりにも雑然としていた。灯りが点いているのにどこか暗い印象を受ける。
「どうしてたんだい。最近ここにも来ないから心配してたんだよ――っていうのはドクターとしてはおかしいか。あっはっはっは」
快活な笑いとおどけた話し方がどんよりと薄暗いこの空間をちょっとだけましにしてくれる。
先生は自称『ドクター』だ。僕がとある期間、自暴自棄になって飲み歩きをしていた頃があり、その時に先生とは知り合った。酒の勢いで適当にドクターと名乗ったであろう彼は僕の悩みを熱心に聞き入ってくれて、時折アドバイスをしてくれた。特別なことをしてもらったとは思わない。むしろ初対面の他人事ということで無責任な発言もあった。だけどその時の僕は色々なことに絶望をしていたのでその無責任さが逆にありがたかった。情けをかけられるわけでも、同情されるわけでもない。自分とは関係ない話として完全に切り離して、けれど冷たく突き放すこともない。そんな彼の在り様に僕は感動した。だからドクターと名乗った彼の言葉を改めて確認するということはしなかった。一晩の愚行だったものが得がたい友人と会うことができたのだ。この重畳を噛み締めた後の酒はなんと美味かったことか。だから僕は敬愛の意味も込め、彼のことを先生と呼んでいる。現在でも彼との付き合いは続いており、たまに僕の調子が悪い時には体調を見てもらったり、雑談をしに来ることもあるのだった。
「まあ、冗談はさておき。いつもの薬でいいかい? それともまた話をしていくかい、いつもみたいに」
「いえ。先生との話は気が楽になって楽しいんですが、今回は遠慮しておきますよ。薬もまだありますしね」
「おっと、そうかい。じゃあ、何のご用かな?」
「今日はちょっとした報告、というか決意表明みたいなものを先生にと思いまして」
「へえ、それで?」
興味深そうに頷き、先生は僕の話を促す。
「先生。僕、決めました。以前、先生から勧められた通り、あの子をうちに迎えることにしました」
「おお!! そうかそうか! そりゃ、よかった。いやー、決心してくれて私は嬉しいよ」
僕の手を握りながら先生は微笑みかけてくれた。自分のことのように喜んでくれる姿を見て、自分の判断が間違いではなかったんだと、少なくとも一人の友人を喜ばせることができたのだと嬉しくなった。
「はい。これも先生のお言葉があったからです」
「いやいや。僕は何もしてないよ。ただちょっと可能性を示しただけさ。考えられる色んな事象から君が選び取ったことが、たまたま僕が示唆したものだったってことだよ。何一つ僕はやってない。要は言い逃げさ」
「たとえ先生にとってはそうだったとしても、僕には魅力的な提案だったんです。だから気にせずお礼の言葉を受け取ってください。ありがとうございました」
僕がお礼を述べると、先生は「そうかい」と肩をすくめるだけだった。
「で、いつからだい?」
「それが実はもう昨日のうちに」
「ほうぅ、実に君らしいね。一度決めたことは突き通してさくっと行動するところ」
そう言って先生は白黒斑模様の白衣から煙草を取り出し、火を点ける。ゆらゆらと立ち昇る煙を僕はなんとなく目で追っかける。
「それで、どうなんだい様子は?」
「ええ……。これが、まあよく分からないんです。感触がこれといってなくて。いい方向へ行っているのか悪い方へ向いているのかも謎ですね」
「まあ、最初はそうだろうね。なに、そんなに焦る必要はないさ。ゆっくり自分のペースでやっていけばいいよ。そのうち上手くいくでしょ」
軽い調子で先生は言った。時々先生はこうやって調子のいい台詞を吐くことがある。けれど僕みたいに些細なことでも気にして、深く考えてしまう人間にとってはこのぐらいの軽さが心地よく感じる。
「ただ、あっ、これは君の友人としての私の言葉なんだけど、願わくば君には幸せになって欲しいものだね。どんな結果になったとしても、さ」
「だといいですけどね」
僕は乾いた笑いしかできなかった。幸せになりたいと思っていたとしてもそうならないのはごくごくありふれた話で、順風満帆な暮らしをしていたとしてもそこから一気にどん底に落ちることもさして珍しくない。生きることが既に波乱万丈で、だからこそ自分だけが幸せな巡り合わせになれるなんてどうしても思えない。想像がつかない。それでもやっぱりささやかな幸せを求める気持ちすらなくすことができないのだから始末に負えない。想像はつかなくても、妄想はしてしまう。だから僕は今に至っている。しょうがなくて、しょうもない。くだらなくて、みっともない。惨めに足掻いている癖に、心底幸福を信じきれない。大きな矛盾を胸に抱え、消化できない。無為に物事が過ぎていく気がしてならないのだった。
グガガギグガギゲゲググゴッ!
けたたましい音が突然鳴った。
「おっと。ちょっと失礼」
先生はそう言って席を立つ。
「それにしてもすごいもんですね」
僕は先生の背後にそびえるモノを指さしながら言った。カーテンの隙間から垣間見えるそれは、天井につきそうなほど大きく、時折部屋中に激しいモーター音を響かせている。水族館にあるような大きな筒状の水槽もあり、それらは機械に繋がっている。そこには優雅に魚が泳いでいた。他にもモニターがいっぱい並んでいたり、何かの数値を図る装置みたいなものもあった。カーテン一枚越しに別世界が広がっていた。
「そうだろ、そうだろ。僕の自慢の作品さ」
先生はこれまた嬉しそうに頷きながら言った。先生は機械いじりが好きで、色んな部品を組み合わせて僕にはよく分からない複雑なものを作るのが趣味なのだそうだ。僕はそういう方面は疎いのでこれらがどういったものなのか全く分からないのだけれど、規模だけで見るとちょっとした研究施設を想像させてしまうほどすごいものだった。
「よく分からないんですけど、ここまでの規模のものだと個人的なものというより企業とかに売りに出せるんじゃないですか。いやまあ、どれがどういった機能があってとか価値があってとか全く知らないからあれなんですけど、そういうことをやる気はないんですか?」
「ないね。だって趣味だもの。僕の興味が満たされればそれでいい」
きっぱりと先生は言った。
「どうでもいいよ。それよりも僕は君のことが今は気になる。とりあえず何かあったらすぐに連絡をくれよ。友達だからって遠慮することはない」
「はい、ありがとうございます」
「君は親しい人ほど遠慮するからねえ、そこが心配だよ。あっ、勿論何もなくてもたまには僕のところを訪れてくれよ。何たって今のところは暇なんだから」
「ええ。わかりました」
先生とのやり取りに僕はくすりと笑う。本当に先生との会話は楽しい。いつまでも話していきたいと思ってしまう。だけど家に一人残してきた彼女のこともある。だから僕は、
「では、今日はこのへんで失礼しますね」
と席を立った。
「ん? まだここにいても――あぁ、そっか。もう君は独り身ではないものな。それならしょうがないか。またいつでもおいで」
手を差し出しながら先生は言った。僕は「はい」と差し出された手を握った。痛いくらいの握手だったけど、それは僕に頑張れと言っているような気がした。だから応えるように僕も力強く握り返した。
「ところで――」
と、握手した手を離す。そして僕のまだ赤くなっている頬を指さしながら言った。
「その顔どうしたの?」
僕は苦笑いを浮かべるしかなかった。




