シルビア「御姉様……貴女を侮っておりましたわ……」アリシア「これが競争社会ですのね……」
フォルコン号が慌ただしく、港を離れ大河を下り始めた頃……
また三人称です。
ディアマンテ城では宮廷舞踏会が続いていた……というより、舞踏会はこれからが本番だった。今夜はコルジア王クリストバルが出座し、正式な、第一日目の宮廷舞踏会が開催されるのだ。
正式な舞踏会では、まず主催者であるクリストバル国王が踊る。その相手はイザベル女王である。楽士達は、この場面での演奏だけはしくじらないようにする為に、長い間練習して来た。
一方、宮廷の侍従達は右往左往していた。コルジア国王クリストバルと、その妻でディアマンテ女王イザベルの一人息子、シモン王子が、ダンスの相手に指名していた平民の少女が何処かへ行ってしまったのである。
まさか。平民の少女が王子の引き合いを得ながら舞踏会場を去るとは、侍従達の誰も思っていなかった。
アグスティン提督の顕彰式典の最中で起きた事件の事は、極秘事項とされた。イザベルは夫には自分から話すと言い、シモン王子にも言い含めた。
柔和で従順な王子はあのような事が起きたにも関わらず、何事もなかったかのように、笑顔で舞踏会の貴賓席に座っていた。母の為に、頑張ってそうしていた。
大広間のホールでは今まさに、コルジア連合王国の国王クリストバルと、その妻イザベルが、厳かな趣のあるメヌエットにのり、見事なダンスを披露している所である。
「どうするのだ、次は王子の番ですぞ……」
「大丈夫、王子が広間に出れば必ず誰か名乗り出るはず」
「そんな曖昧な事が出来るか! 王子の御相手だぞ!」
「シッ、声が大きい!」
「何故あのマリーとかいう娘を抑えておかなかった!」
「控室に連れて行こうとしたら、もう居なかったのだ!」
侍従達が王子の席の後ろで狼狽えていると。
「王子は……こちらですか?」
大広間の後ろの廊下の方の扉から一人、赤いドレス姿の少女が、人目につかないように素早く、それでいて静々とやって来る。
「だ、誰だねっ!? 国王陛下のダンスの途中であるぞ!」
侍従の一人が声を落として咎めるが、その後ろから侍従を押し退けるように飛んで来たのは、他ならぬシモン王子だった。
「エステルちゃ……エステル殿! もう怪我は大丈夫なんですか!」
赤いドレスの少女……エステルは、自分がこんな恰好をする事になるとは思ってもおらず、今もこうして立っているだけでも恥ずかしく、増してや国中の貴賓の前でダンスを踊る事など、想像するだけで気がおかしくなるような心地もしていた。
彼女はこれまでの人生のほとんどの期間を、自分は騎士を目指す男だと思って生きて来たのである。
だけど。これも自分で考えた事だった。
自分が居ない時にシモン王子とマリーがダンスをしたという事は、王子自身が教えてくれた。エステルは幼い王子にすら嫉妬を覚えてしまう自分に辟易しつつも、王子の舞踏会の相手に自分が名乗り出ようと決めたのだ。
ジョゼフィーヌ夫人がすぐに見つかった事も幸運だった。極めて急な頼みにも関わらず、ジョゼフィーヌ夫人は何も解らないエステルの為に、衣装を借りる所から着付ける所まで手助けしてくれた。
「シモン殿下、マリーは来られなくなりましたので、もし宜しければ……」
「エステル殿! つぎは私がダンスをするばんなのです! どうかわたしと! おどってください!」
エステルが言うより早く、幼い王子はエステルの左手を取った。
「大変光栄です。どうか私めと……いえ、楽しく踊りましょう、殿下」
王子は満面の笑みで頷き、早速エステルの手を積極的に引き、舞台の方へ歩いて行く。
国王夫妻のダンスが終わり、次は国王の長男、シモン王子が踊る番が来た。
来賓達の多くは、まだ6歳の王子のダンスの相手は決まっていないか、侍従が用意した相手になるだろうと思っていた。
しかし。福々しく丸みを帯び、いつも柔和な表情をしていて、可愛らしいが少し頼りないと陰では揶揄される事も多い王子が、今日は堂々……ダンスの相手を、自分で連れて来た。
目鼻立ちのきりりと引き締まった、大変美しい赤毛の少女だ。姿勢も綺麗で、大国コルジアの皇太子のダンスの相手として全く不足は無い。
大広間のホールにただ一組だけ。
二人が方々に御辞儀を終えると、楽団の指揮者は厳かに指揮棒を振った。
可愛らしい王子と美しい少女のメヌエットが、緊張気味の観客達に温かな空気をもたらす。
「素敵ですわ……あのドレスも、ジョゼフィーヌ夫人が見立てられましたのよ」
観客の間に居た、一団の婦人方が囁き合う。
ジョゼフィーヌ夫人は昨夜のショックから何とか立ち直り、今日の会場にもやって来た。
そして港から駆け通して来たという、右腕は包帯だらけ、髪は乱れ顔にも小さな切り傷のある小柄な女騎士、エステルに懇願され、とんでもない急ぎ仕事で彼女の見た目を整えてやり、送り出していた。
「あのドレスに、黒のスリーブがいいのね」
「髪飾りが素敵、陰が差してミステリアスですわ」
エステルの右腕は傷だらけだったので、肘まで覆う長いグローブを着せた。血が染みて見えたら困るので色は黒しか選べなかった。顔の傷はぎりぎりまでファンデーションで誤魔化し、駄目押しで大きな髪飾りをつけ傷を目立たなくした。
「あの……私、今回は何もしておりませんのよ……」
ジョゼフィーヌ夫人は困った顔で控え目に言った。ドレスもたまたまサイズが合った物から選んだだけだ。正直、こんなのを自分の仕事だと思われてしまうのは口惜しい。ちゃんと時間を貰えていれば、もっと完璧な仕事をしてみせたのに。
「まあ、御謙遜ね! さすがジョゼフィーヌ夫人ですわ」
「本当に! 御覧になって……シモン殿下ったら。あんな素敵なお姫様、どこから見つけてらしたのかしら」
ジョゼフィーヌ夫人は顔を赤らめて縮こまりつつ、考える。日頃の自分の慢心も悪いのだ、今後はもう少し謙虚に生きて行こうと。
エステルはダンスの技術も完璧だった。彼女はマリーと違いしっかり練習もしていた。幼いシモン王子を上手にリードしつつ、自分が前に出ないように、王子の動きをしっかり際立たせていた。
――小さな手だな……可愛らしい。
王子と踊りながら、エステルはシモン王子にまで嫉妬してしまった事を密かに恥じていた。
そして。エステルはフレデリクの言葉を思い出していた。
――こんな化け物の為に、誰も死ぬ必要は無い! 女王陛下! 貴女が下がれば皆逃げられるのだ!
フレデリクの言葉の裏に秘められた、何故女王は黙って見ていたのかという疑問。エステルはそれに気づいていた。
恐らくマリーは今も気にしている。かつてサフィーラの路上で酷い暮らしをしていたロワンを気にしたのと同じように。この幼い王子の事を。
ならばマリーの代わりになるのは自分だ。
「シモン殿下。私がこれからも殿下を守ります。宜しければなるべく、私を殿下の近くに置いて下さいね」
ダンスの合間に、エステルは誰にも聞こえないくらいの小さな声で呟いた。
しかし、王子はすぐに笑顔で答えた。
「うれしいです! きっとちかくにいてください! でもぼく、ですが私、いまはちいさくてよわいけど、きっとつよくなります! つよくなって、こんどは私がエステル殿を守ります!」
突然、丸々とした頬をぎゅっと引きしめ、瞳を大きく見開いて、シモン王子はそう言った。
「えっ……」
エステルは言葉を失う。
クリストバル国王主催の宮廷舞踏会の一日目は盛会のうちに終わった。満月の今夜は中庭も使った晩餐会も行われる。皆が自由に踊る、お楽しみもこれからだ。
◇◇◇
ディアマンテ城の正門の衛兵達は、こんな時間まで仕事に追われていた。
今日は一般市民は招待状を持つ一部の者しか入れないが、明日には再び一般市民まで中庭に入れて、晩餐まで振る舞いの出る本祭が控えている。
今日やって来てしまったうっかり者の市民には、今日は招待状が無いと入れない、明日また来いと説明しなくてはならない。
そして詰所の方では事務仕事が始まっていた。急に上の方から、紹介状を全部チェックしろという命令が下ったのだ。
「今さらそんな事言われてもなあ……一人一人、通る時にチェックすれば良かったんだ」
「それだと正門の前に大行列が出来るし、客は怒る。それで前に衛兵がお叱りを受けたんだ。理不尽じゃないか」
「いいから黙って名簿と紹介状を照合しろ……朝までかかっちまうぞ……」
ランプや篝火の明かりを頼りに、紹介者の名前と、何種類もの人名簿や紳士録などを照合して行く作業には、終わりが無いように見えた。しかも紹介状の数は客が正門を通る度に増える。
「おい、これじゃないか?」
一人の衛兵が手を上げた。
女王陛下が身元の照合を望まれているという人物の紹介状が、見つかったようだ。
「紹介者はロングストーン市国のパスファインダー商会会長、マリー・パスファインダー、ストーク王国グランクヴィスト子爵家四男、フレデリク・ヨアキム・グランクヴィストの身元を保証しここに招待すると」
「ああ良かった、あとはそのマリー・パスファインダーが載った名簿を見つければ終わりだな……ロングストーンの商社か、御用商人録にあるかな」
「おーい、紹介状はもういいぞ」
一人の衛兵が、まだ他の紹介状を見つめていた仲間に声を掛ける。しかしその男は、その別の紹介状をじっと見ていた。
「これ……親衛隊長殿が探してる奴の名前じゃないか……?」
衛兵はその紹介状を皆に見せる。
「ドミニク・トリスタン。アンシャン魔法学会理事、白金魔法商会会長。アイリ・フェヌグリークの身分を保証し、招待する」
「そう言えば、あいつも何か言ってたな……トリスタンって奴を知ってたら教えろ、だと」
「声がでかい。仮にも上司だぞ」
「いいや、衛兵隊と親衛隊は別の組織だ、俺達は奴等の下位組織じゃないぞ」
「そうだそうだ、何で俺達があいつの為にこれを見つけてやらなきゃならない」
別の衛兵が、その……アイリ・フェヌグリークという人物が提出した紹介状をヒョイと奪い取り、そのまま……明かりと暖を取る為に焚いていた篝火の中に放り投げる。
「あっ! 待てよ!」
紹介状を奪われた衛兵は慌てて、火がつきそうになっていた紹介状を篝火台から取り上げた。
「何しやがる! 俺が見つけたんだぞ」
「じゃあお前、あの高慢ちきの親衛隊長にそいつをくれてやるのか? あいつ礼なんか言わないぞ、衛兵なんて小馬鹿にしてるからな」
「俺だってそう思うさ! だけど仕事だろこれは。まあ、奴に渡す前にせいぜい交渉してみるさ、見つけてやったんだから、たまには衛兵隊に酒でもおごれってな」
そう言ってその衛兵は、アイリ・フェヌグリークの紹介状を懐にしまった。