猫「あやつがまた現れたというのなら、拙者を連れて行けば良かったのに……全く未熟な小娘よ」
涙を隠し、エステルは去って行った。
フォルコン号に戻った私は、ワイン樽の積み込み作業も手伝わず艦長室のベッドでいじけていた。
エステルを連れて行きたかったなあ。
今の仲間達に不満などない。だけど同性同世代で、心持ち良く気は優しく、勇敢なエステルは私にとって喉から手が出る程欲しい仲間だった。
逃した魚はでかいって本当だな……私はついさっきまで、エステルは必ず仲間になってくれると信じきっていたのだ。
話としてはハッピーエンド、悪い事など一つも無い。エステルは女王陛下の御引立てで出世し、グラシアン家の使用人の人々も助かった。それは解っているんだけど。
だけど……乗組員として迎え入れられないとしても、せめて、エステルを囲んで御祝いの宴くらい開きたかった。
今さっき買って来た高級ワインもあるし、アレクがどこからか仕入れて来たワインは売る程あるのになあ。
アレクが仕入れて来たワイン……
不貞寝してしまうつもりで今は亡き父のチュニックに着替えてベッドに転がっていた私は起き上がり、真面目の商会長服に着替えて艦長室を出る。
「太っちょ、このワインどうしたの? ディアマンテではこんなのコネが無いと卸売りしてもらえないんでしょ?」
甲板で積み込んだワインと台帳を見比べていたアレクが、意外そうな顔をして振り返る。
「僕より船長の方が詳しいんじゃないの? これは覆面男……フレデリクへの、イサンドロさんって人からの御礼だよ。商船なのに空荷で帰りたくないだろうって、口利きをしてくれて。今年は豊作だったらしいけど、それにしても一等品揃いだよ。一体何をしたの船長」
イサンドロ……誰だっけ、誰……ああ! ビコの飼い主ですよ!
あの人、わざわざフレデリクの船を探し出してお礼をしてくれたんですか?
……
そうかもしれないけど……マカリオだってフレデリクがこの船に乗っていた事を知っていた。もしかしてその他にも……今フォルコン号にフレデリクが乗っている事を知ってる人は意外と多いんじゃないだろうか。
「どうしたの? 船長」
「ちょっと心配事が……とりあえず」
私は急いで艦長室に戻り、便箋を出して手紙を認める。宛先はグラナダ卿と……ロヴネル提督……私はグラナダ候宛てを普通のアイビス語で、ロヴネル提督宛てを怪しいストーク語で書く。私のストーク語は読み書きなら話したり聞いたりするのより多少マシなのだ。
それからこれを駅逓に……ああ、私が再び艦長室を飛び出すと、甲板ではちょうどワインの船積みを終えた不精ひげが、シーニュ産高級ワインのコルク栓をナイフで綺麗に引き抜いた所だった。
「不精ひげ! 飲むの待って! この手紙、今すぐ駅逓に持って行って!」
私がそう言うと、不精ひげは細い目を一杯に見開き必死に首を振る。
「御願い! 急ぎの手紙じゃないけど、急がないといけないの! 船長命令!」
不精ひげは泣く泣く手紙を持ってボートを繰り出し波止場に上がり、駅逓の事務所へと走って行った。
荷物の確認と決済を終えたアレクはまだ少し商人達と立ち話しているし、ロイ爺は徒歩の旅から戻ったばかりで疲れている。ウラドとカイヴァーンはこの街でお使いに出すのは不安だし、ここは不精ひげしか居ない。ごめんね。
その間に私は船牢に降りて行く。アイリさんは籠城を続けていた。
「マリーちゃん……どう? 大丈夫? まだ何も起きてないの?」
アイリさんの顔色は良くない……聞けば、船に私が居る間しか眠れないのだと。だから本当は今は寝たいらしい。
「普段、貴女には危険な事をして欲しくないと思ってるのにね……トリスタン……あの男の事になると本当にだめ。自分が死ぬだけならまだいいけど、自分が操られて悪事を働かされたらと思うと……」
とにかくアイリさんは今もトリスタンを恐れている。うーん。起こった事を全部説明する必要は無いかなあ。あんまり責任とか感じて欲しくないし。早くいつも通りの明るいアイリさんが見たい。
「トリスタンの事は王宮の警備の人達に話しました。大丈夫です、皆信じてくれました。近衛兵や司祭が対応してくれるそうですから、もうトリスタンも自由には出来ませんよ!」
「そう……それならいいんだけど……」
「私達ももう出港しましょう、アイリさんも出て来て下さい、宮廷舞踏会は残念だけど仕方無いです。そうそう! 高級ワインも買って来たんです、今開けたばかりですよ、早く行かないと無くなっちゃう!」
アイリさんもようやく船牢から出て来てくれた。アレクと話していた商人達も帰ったようだ。
不精ひげが栓を開けて置いて行ったワインは、不精ひげを除く6人で飲んだら一瞬で無くなった。
私でも解るくらいの上物ですよ! なんという心震わせる薫り。古いワインなんて酸っぱいだけだと思ってたのに。保管の仕方が違うんだろうか。
戻って来た不精ひげは悲しげな目で空になった瓶と私の顔を見比べていた。
「ごめんね不精ひげ、まだ同じの3本あるでしょ? あとは一人で飲んでいいから。ボートを引き上げてちょうだい。すぐ出港しましょう」
「えっ……もう出るの?」
横からアレクが聞いて来る。
「ロイ爺も戻ったしいいわ。静かに急いで。ワインも積んだしもう十分よ」
私がそう言うと水夫達はいつも通り、アイ、マリーとか言って出航準備に取り掛かる。
やれやれ……このディアマンテ訪問は最初から予定外だった上、休暇と言ったりやっぱり休暇じゃないと言ったり、商売もするんだかしないんだか、舞踏会では成果があったんだか無かったんだか、訳の分からない事ばかりだ……って、私が水夫の立場だったら思うだろうなあ。
皆も黙って働いてくれているけど、本当の所はどう思ってるんだろう。
「待って、ロイ爺は休んで、戻って来たばかりなんでしょ?」
「ありがとう船長、港を離れたらそうさせて貰うかの」
ウラドと不精ひげはボートを吊り上げて固定している。アレクとカイヴァーンは展帆の準備だ。私は舵の所で待機する。
ボートを途中からウラドに任せ、不精ひげがキャプスタンの所に走る。
「ばぁぁつ びょおぅ」
不精ひげが言う前に、私は間の抜けた声で言ってやる。
錨が水底を離れる。ロイ爺とカイヴァーンが索を引き、フォルコン号の天秤をあしらった模様のついた帆が開く。私は舵取りだ。
「ねえ船長、もう少し詳しく教えて! あの男……トリスタンはどうなったの? 本当に大丈夫なの? 何を企んでいたの?」
アイリさんは私の側を離れない。その様子は本当に不安そうだけど……シーニュ産高級ワインはちゃっかり飲んでたし、本質的には大丈夫だと思う。
「結局良く解らないんです。でもトリスタンが何か企んでいたという事、ディアマンテに潜んでいたという事はコルジア当局にも認識していただけました。あの人も別に私達を追い掛けて来たわけじゃないみたいだし、私達も通報者としての責任は果たしたって事で、終わりにしていいんじゃないですかね」
私は舵を持ったまま、後ろを振り返る。
ディアマンテは円熟期を迎えた都市だ。新世界からの珍しい香料が、金銀が、南回り航路からの茶葉が、スパイスが、この港を目指し殺到して来る。
そしてこの港からは北大陸の工業品が積みだされ、数千キロ先の異世界のような港を目指すのだ……まあそれは、大手商社の仕事の話だけど。
とにかく、振り返ればディアマンテの大市街の中心部がある。大きな聖堂も見えますね、あれが大聖堂か。それから満月に照らされた街の中でも、一際明るく浮かび上がるディアマンテ城……舞踏会はまだ続いているのだろう。
トゥーヴァーさんどうしたかな。私の勘ではアグスティンさんの事、トゥーヴァーさんもまんざらでもなく思ってるような気もするのだが。
船と共に沈んで、ああこれで死ぬんだと思った時に、大変な危険を犯して助けてくれたんですよね? アグスティンさんが。下手をすれば自分だって沈没船やそれと共に沈んで行く船乗り達に引き摺り込まれてただろうに。
ていうか。何だったんですかあれは。
トリスタン先生まで一瞬ポカーンってしてたわね。あの人にもまだ感情が残ってるんだな、多分。
そして周りの人やトゥーヴァーさん自身まで「説明してくれ」という顔で私を見て来た時にはどうしてやろうかと思った。ロワンの物真似でもすれば良かったかしら。
「船長、舵を代わろう」
私が余所見をしたまま舵を持っていると、ウラドが来てそう言ってくれた。
ありがとうウラド……私は艦尾に移動し、城の方を見つめたまま腕組みをする。
気掛かりや気残りなんて、どこに行ったってあるものだけど。
イザベル陛下は大国コルジアの女王である。物事の価値観も日々抱える問題も、我々一般庶民とは全く違うのだとは思う。
人前では普通の母親のように、危機迫る我が子の元に我を忘れて駆け寄ったり、助けを呼んだり泣き叫んだり出来ないのかもしれない。
それにしても。
謀ったつもりは全く無いのだが、私はマリーとフレデリクの両方で陛下と殿下にお会いしてしまった。舞踏会での御様子、トリスタンの暗躍、小聖堂での襲撃……
私はどうしても、トリスタンが現れる事について、女王が何か知っていたのではないかという気がしてならない。
さすがに女王が謀ったとまでは思わない。女王が謀るのならあんな手段は必要ない。だけど女王は……あの場に何等かの奸計がある事を察知した上で、敢えてそのまま飛び込んで来たように思えてならないのだ。
シモン殿下は福々しく、いつもニコニコしていた。そして話してみるとさらに純真で屈託なく、何とも可愛らしい方だった。
それが、いけないとでも言うのか。
「ねえ、マリーちゃん……何を考えてるの? 舞踏会で何かあったの? それともまた何か、危ない事に首を突っ込んで来たんじゃないでしょうね?」
私はアイリさんに後ろから頭を挟まれ、揺さぶられる。ああ、アイリさんだんだん元気になって来ましたね、良かった。
「エステルって覚えてますか?」
「ちょっと、そんな最近の事忘れる訳ないでしょ、人を何だと思ってるの。サフィーラでフレデリクに告白してフラれた女の子でしょう? 酷いわよねあの男。あんな可愛い子の気持ちを弄んで。所詮船乗りは船乗り……」
「エステルは! ディアマンテの女王に働きを認められて、準男爵に叙任されたんですよ! 私が提げてた赤い宝石がついた剣、あれはその御祝いにあの子にあげました! ちゃんと仲直りもしました! 人聞きの悪い事言わないで下さいよ!」
私はつい大声を上げてしまった。
操舵のウラド、操帆のロイ爺とアレク、見張りに上がろうとしていたカイヴァーン、残る3本のシーニュ産ヴィンテージワインをどこに隠そうかと甲板を右往左往している不精ひげが、一斉にこっちを見た。
「姉ちゃん、今度は何をやらかして来たんだよ」
皆を代表して質問を投げて来たのは、意外にもカイヴァーンだった。
河の両岸にはまだディアマンテの市域が続いているが、この辺りまで来るとさすがに静かだ。
おかげで波止場の騒ぎの音が良く聞こえてしまう。お城の騎兵隊かしら? 後から後から波止場目掛け、騎兵さんがやって来る。
そして河に向かって何か叫んでいる……もう結構離れているので、はっきりとは聞き取れない。
「そこの船ぇぇ! 女王陛下の御召しであるぞぉぉお! 引き返せぇぇえ! 戻って来ぉぉぉい!」
誰を呼んでいるのか解らないし、そもそも聞こえないんだから仕方ない。
私は一呼吸、息を吸って……艦首方向に、大きく指を振りかざす。
「代金はもう払ったんです、このワインは返しませんよ! ラヴェル半島を迂回し外洋を北に向かいます! フォルコン号、全速前進!」
ディアマンテ編やっと終わり! 〆は年内に間に合わないかしら……