マカリオ「……ここはどこだ!? あの少年は? むむ、後頭部が痛い……一度ならず二度までも、一体誰が」
女王様への御願い、ホントにそれで良かったの?
もっと欲張って良かったんじゃないの?
フレデリク・ヨアキム・グランクヴィストは、女王の手で「無罪」と書かれた書き付けを受け取ると、一刻も早く鞭打ち刑を止める為と言い、その場を辞して、再び開き始めた聖堂の門の隙間から駆け出して行った。
「相変わらず、忙しい奴だこと……」
トゥーヴァーは目を細め、呆れ顔で呟くが、すぐにまた、アグスティンに手を取られている事を思い出す。
「あ、あの、そろそろこの手……」
「……外が賑やかなようだ。扉が閉まっている間は気づかなかった」
アグスティンは片方だけ手を離し、開かれて行く扉の外を見つめる。
そこへ駆け出して来たのは、エステルの左手を掴んだシモン王子だった。エステルもまさか王子の手を振り払う訳にも行かず、ついて来る事になった。
「きょうは! お父様がしゅさいする、宮廷舞踏会の日なのです! まちの人々やがいこくの方をよんで、みんなでダンスをするんです!」
「お父様、つまりコルジア国王かい? そうか。コルジアは今も豊かなのか」
シモン王子に目を落としたアグスティンに、エステルは遠慮がちに声を掛ける。
「提督の勝利のおかげです。ターミガン勢力は内海の東部に戻り、コルジアは新大陸の開拓と南大陸の周回航路の開発で大いに発展しております」
「君もあの魔術師を相手によく戦ってくれたようだな……右腕の傷は大丈夫か」
「このくらい、傷のうちには入りません」
そこに、静かに。ディアマンテ女王イザベルが近づき、シモン王子の、空いている方の手を取り、腰を屈めて諭すように言った。
「シモン王子。この騎士は貴方の為に怪我をしたのです、治療をしなくてはいけませんわ」
「お母様! この騎士は私をたすけてくれました! この騎士にもほうびをあげてください!」
ようやくシモン王子の手から離れたエステルは、後ずさるように膝を折る。
「褒美など要りません。騎士見習いとして当然の仕事をしただけです」
「お待ちなさい」
エステルの言葉を、即座に、打ち消すように。冷たい、女王の言葉が降り注いだ。
「ゴルリオン王の命を救い負傷した者が、そこまで謙遜するのは不遜です。そして騎士見習いなどと名乗るのも」
「も、申し訳ありません!」
エステルは動揺し、ますます深く腰を折るが。女王は冷たく続けた。
「顔を上げなさい。そして名乗りなさい」
「エ……クラウディオ・グラシアンの娘、エステルと申します」
「いいえ。貴女はマルガノ準男爵エステル・グラシアン。これからは御父上の名前ではなくそう名乗りなさい……アントリアス。手続きを」
女王は廷臣の一人に振り向いて言う。マルガノはゴルリオン領内の一角で、先の領家が断絶してゴルリオン王預かりとなっていた準男爵領だった。
コルジアに於いての準男爵は騎士を飛び越えた、世襲権利を持つ爵位である。
「御父上の封地を返納し、可能な限り早くマルガノに赴任なさい。いえ……舞踏会が終わってからでいいわ」
女王の視線がもう向けられてない事を確認してから、エステルは慌ただしく辺りを見回す。彼女は酷く困惑していた。だけど彼女が相談相手と頼むフレデリクは、もうこの場に居なかった。
代わりにとばかり。アグスティン提督が、エステルに微笑んで頷く。
「おめでとう、エステル準男爵」
◇◇◇
アグスティンはそのまま、トゥーヴァーの手を引いて小聖堂から歩み出す。
「こんな所に連れて来て、申し訳無かった」
「いいよ、それはもう……だけどこのまま外に出るのはまずいんじゃないの? アタシ達幽霊だよ?」
アグスティンはトゥーヴァーの手を握ったまま、向き直って片膝をつく。
「御願いだ。私と一緒に踊っていただきたい」
「ちょ、ちょっとそんな!? あ、あ、アタシ異教徒の海賊でこんな格好で、あのそれに、コルジアのお姫様達みたいに綺麗じゃなくて……」
「私には貴女しか見えない。貴女を知ってからは貴女の事しか考えなかった」
中庭でも舞踏会の賑わいは続いていた。日は既に暮れていたが、場内は各所に篝火が焚かれ、ランプの数も多くとても明るく、客は昼間より増えていた。
アグスティンが着ている海軍制服は現在の物と少しデザインが違うが、元々の血色の良さや覇気のある堂々とした態度もあり、すれ違う人も衛兵も皆、まさかこれが英雄アグスティンの幽霊だとは誰も気づかなかった。
トゥーヴァーの方はかつてシハーブ諸島と南大陸の海峡を根城に密輸商人達をさんざん打ちのめした、女海賊キャプテン・トゥーヴァーだった時のままの姿をしている。それは確かに北大陸の姫君風の装いには程遠いが、見栄えが悪いなどという事は全く無く、むしろニスル語の名作童話に出て来るロマンチックな盗賊王女のようでもある。そして幽霊にしておくのは勿体無いくらいの健康的な美女だ。
やがて楽士達が、メヌエットを奏で始める。
「こんな曲、知らないよ……」
「私もだよ。だけどこうして貴女とステップを踏んでいられるだけで幸せだ……貴女は退屈だろうか?」
「いや……こんなの……想像したことも無かった。いいのかなアタシ、こんな事して……だってその……」
「私達が一緒に居たところで、今さら誰の迷惑にもならないさ。いや、誰が迷惑しようと構うものか。私は今、本当に幸せだ。トゥーヴァー殿。ああ。私達にこの時間をくれたフレデリク……彼にも何か礼を出来ない物か」
美男美女のカップルは、すぐに周囲の者達の目についたが。
「見て、あの二人……素敵ね」
「バトラのお姫様かしら? ズボンは男の子みたいだけど、とても綺麗だわ」
「あの美男子はどなたですの? お若いのにとても堂々としてらっしゃいますわ」
「二人ともお互いの事しか見えないみたいね……羨ましいですわ」
誰にも幽霊と気づかれる事のないまま、アグスティンとトゥーヴァーは、踊り、語らい……百年以上の時を越え、ようやく許された束の間の逢瀬を楽しんだという。
◇◇◇
「無罪」と書かれた書き付けを手に、先程不精ひげが引き摺って行かれたと思われる衛兵詰所に飛び込んだフレデリクを待っていたのは、あの囚人はすぐに別の場所に移されたという衛兵の返事だった。
フレデリクは女王の書き付けを振りかざして猛抗議したが、衛兵達は本当に誰も囚人の行き先を知らないと言う。普段の手順通りなら、この手の粗暴現行犯は詰所で鞭打ちにしてから、日を改めて移送するのだと。
本来なら一先ず半裸にして鞭で数回打つ所だったらしいが、こんなに早く移送されたという事は、それ以上の刑罰に処せられるのかもしれないと、衛兵は言った。
フレデリクは大騒ぎをして市内の司法局の場所だけ聞き出すと、夜の市域へと飛び出して行った。
◇◇◇
小聖堂にはエステルと司祭、修道女、それにいくらかの衛兵が残っていた。
教区の司教の方は帰宅させられた。アグスティン王子の顕彰式典は中止である。何しろ記念堂の奥で静かに眠っているはすの本人がどこかへ行ってしまったのだ。
式典で読み上げる原稿には、王子の業績の一つとして大海賊トゥーヴァーを生け捕りにしたという項目も入っていた。
近衛兵達はイザベル女王とシモン王子が城の大広間に戻るのを護衛して行った。怪我人はこの場に残されており、司祭や修道女達が治療に当たっている。
エステルもあらためて治療を受けた。一番厄介なのは掌の傷で、暫くの間何かと不自由を強いられるかもしれない。
それからエステルは修道女に礼を言い、礼拝室の片付けに駆り出されていた衛兵に一声掛ける。
「あの、色々ありがとうございました」
それは最初に、エステルが警備の列への仲間入りを志願した時に応えてくれた、そして小聖堂の扉が閉まる時にエステルが忍び込んだのを見なかった事にしてくれた、あの衛兵だった。
「とんでもない。エステル卿、貴女の御手伝いが出来て良かった」
「やめて下さい、そんな」
衛兵が敬礼までして寄越すので、エステルは苦笑いを返す。
それからエステルは小聖堂の門を出た。
大きな丸い月が……東の空に浮かんでいる。
さすがのマリーもここに魔術師が現れる事を確信していた訳ではないようだった。マリーはいくつかの想定される襲撃地点の一つに自分を配置してくれたのだろう。
その期待に応える事が出来たのは良かったが……正直、危なかったと思う。自分がシモン王子の前に飛び出したのは本当にぎりぎりだった。
マリーは他の場所をロヴネル提督に守らせたのだと思うが、今にして思えば自分にはあまりにも荷が重かった。ロヴネルのような豪傑なら、もっと危なげなくシモン王子を救えただろう。
「……私を買いかぶり過ぎだ」
エステルは一つ溜息をつく。マリーはあの恐ろしい魔術師にもまるで臆する事なく立ち向かって行った。自分には何が出来たのだろうか……
その時。ずきりという痛みが、エステルの感覚を引き戻す。
エステルは、包帯だらけになった己が右腕を見る。
掌を引き裂く痛みに耐え、自分がその身で守り抜いたのは、一人のか弱い子供だった。
暖かい気持ちが、エステルの胸の内に広がって行く。自分はマリーに期待され、それに応える事が出来た。
この日の為に鍛えた剣の腕で、子供が一人、母親の目の前で殺される事を防ぐ事が出来たのだ。この事が迷い、悩んで来た自分に今後、どれだけの自信を与えてくれるのだろう。
マリーが、自分に全てをくれた。
静かに瞳を閉じたエステルの脳裏に、エステルの記憶の中で数段美化された、様々なマリーの姿が去来する。
サフィーラの群衆の前に颯爽と現れ、道理を説くマリー。元海賊の男やオークの紳士、多士済済の仲間達に囲まれ堂々と乗艦の指揮を執るマリー。
フレデリクと名乗る魅惑的な貴公子として現れたマリーとその、哀れなロワンに向けられた義侠心、豪傑マカリオを堂々と下す勝負度胸、甘い物を食べる時の愛くるしさ。
一度は男装で自分を欺いた事に怒りもした。だけど振り返ってみれば、自分が生まれてから今までの間であんなにも心ときめいた事は無かった。
そしてエステルは必死に抗っていた。どうかそれ以上、マリーに心を奪われないようにと。ディアマンテで再会してしまった時も、それからも。
彼女をマリー、と親しく呼ばないようにしていたのもその為だ。
だけどマリーは何度でもエステルの想像を、覚悟を、防壁を飛び越えて来た。
マリーに導かれるままについて行くと、思ってもみなかったような冒険に出会えた。想像した事も無いような人達と出会えて、驚くような仕事にもありついた。
バルレラ卿とグラナダ卿の会見にロヴネル提督と共に出席した時は、自分が何故そこに居るのか全く理解出来なかった。
そして自分も密かに心ときめかせていた宮廷舞踏会にマリーは、自分など何度生まれ変わっても着こなせないような垢ぬけた愛らしいドレス姿で現れた。
中庭で、大広間でマリーと踊った。その時にははっきりと解った。もう自分は駄目だと。
マリーは誰にでも優しく、皆と仲が良く、これからも世界中に入り込んで、様々な冒険を成し遂げて行く人間なのだろう。
だけど自分は行けない。マリーを独り占めしたいとしか思う事が出来ない自分は、マリーの旅の連れには相応しくない。
今朝。忙しいマリーの時間をいつなら貰えるか考えたエステルは、早朝にフォルコン号を目指して歩いていた。その途中で当のフレデリク姿のマリーに出会った。
自分を見つけるなり街中で座り込んで眠ってしまったマリーに膝を貸し、二時間近く。一方的にその顔を見つめて過ごした。何と無防備なのだろうと思いながら。
彼女にも敵は居るだろうに。自分だってそうだ。このまま馬車にでも乗せてどこかへ連れ去ってやろうかという考えも過ぎった。
急がないと、手遅れになるかもしれない。
短い付き合いだがマリーの、フレデリクの考えそうな事は予想がつくようになっていたエステルはしっかりと瞳を開くと、少し急ぎ足で、中庭の賑やかな宮廷舞踏会の喧騒の中へと歩き出して行く。
余談ですが、当初の予定ではアグスティンとトゥーヴァーが踊る回を西洋盆踊り、ハロウィンに間に合わせるつもりでした。