不精ひげ「見ろ大きなねずみを捕まえた。なんだたいして大きくないや、いやいやこんな大きいのは滅多に居ない、こんなの小さい小さい。大きい! 小さい! 大きい! 小さい! するとねずみが一言」看守「チュウ」
誰か出て来ましたよ……? コルジアの海軍の軍人さん?
三人称ステージが続きます。
礼拝堂の吹き抜けでは、フレデリクとトリスタンの接近戦が続いていた。
トリスタンはフレデリクを正面に見据えたまま、空中を自在に滑空して攻撃出来るようだ。
フレデリクの方はシャンデリアやそれを支えるロープの上を恐るべき身軽さで駆け回り応戦している。
誰も見た事の無い、凄まじい戦いだった。空を飛ぶ悪霊が振り回す剣を、フレデリクの剣が払い、受け流し、交わす。
「さすがの先生も、二つの魔法を一度には使えないようだな」
防戦一方であるように見えたフレデリクが、薄笑いを浮かべた。
「フレ……デリク……!!」
トリスタンは忌々しげに呻き、フレデリクから大きく離れる。
フレデリクとの一騎打ちの間、宙に浮いた木片や剣は何もせず漂っていた。しかしトリスタンが握っていた剣を放し、指を振りかざすと、再びそれらが礼拝堂の上空を渦巻き始める。
「もう諦めろ! お前は何故こんな事をしている! 誰の差し金なんだ!」
フレデリクはトリスタンに剣を向けようとしたが、渦巻く瓦礫の嵐が先程より大きく、速くなっていて、床に飛び降りて回避せざるを得なかった。
「この!」
そしてトリスタンよりさらに上空へと駆け上がっていたトゥーヴァーが斜め上から飛び蹴りを食わせようとするが、今度は間一髪トリスタンに避けられてしまう。
結局フレデリクもトゥーヴァーも床まで降りてしまった。トリスタンは上空にあり、先程よりどうも大きくなった瓦礫の嵐を支配している。
フレデリクはちらりと、イザベル女王の方を見る。
女王は依然として、礼拝堂の後方で……瓦礫の嵐にも臆する事なく、威厳を保ったまま立ち尽くしていた。
その周囲は重装鎧を着た近衛兵達が固めていたが、先程のように、トリスタンが木片や剣を束にしてぶつけて来たら、さすがに女王も無事では済むまい。
「女王陛下! 記念堂にお下がり下さい!」
この場の誰もが言えない事を、フレデリクは言った。
近衛兵達も、司祭や修道女達も女王を見た。
女王は真っ直ぐにトリスタンの方を見ているだけだった。決して気が触れている訳でも、ぼんやりしている訳でもない。ただ、毅然として状況を見守っていた。
近衛兵達はその女王の姿を見て決意を新たにする。自分達は一戦を退いた老壮の兵ではあるが、幾多の戦場を生き抜いて来た強者揃いである。陛下が退けと命じるまでは、何があろうと退くものかと。
司祭や修道女達も……今日が日頃の御恩に応える時だと。神の家族が助けを必要としている。自分達の奉仕は今日必要なのだと。
しかしフレデリクは。そんな礼拝堂の空気に、憤りを覚えていた。
この化け物はやはり、誰かが操っているのだ。そいつはランベロウのように遠く安全な所に居るのだ。ハマームでファルク王子を狙った時のように。
あの時もフレデリクは怒った。王と王子が大人げのない喧嘩などしてるからだと。それが悪がつけ込む隙を作り、落ち度の無い衛兵が死んだ。
フレデリクは叫んだ。
「こんな化け物の為に、誰も死ぬ必要は無い! 女王陛下! 貴女が下がれば皆逃げられるのだ! こいつは僕等が食い止めるから早く皆を率いて脱出してくれ!」
近衛兵達が青ざめる。悪霊の恐怖も、悪霊の手で渦巻く瓦礫の嵐の恐怖も忘れて。司祭達も、修道女達も一様に。
コルジアの女王は決してただの柔和な貴婦人などではない。冷徹な策略家であり、苛烈な為政者でもあるのだ。
彼女が戴冠してから処刑、追放された廷臣や官吏、貴族の数は十指に余る。
そんな女王の表情は、フレデリクの諫言に無反応ではなかった。トリスタンとその周辺を大局的に観察していたその視線は今、フレデリク一点に集中していた。
「そいつの言う通りだよ!」
その時。上空から別の声が。フレデリクの主張を擁護するように響いた。
「こんな悪霊ごっこの魔法使いに付き合って命削る事なんか無いんだよ! お前らにはまだ生きた家族とか友達とか居るんだろうが!」
その声の主、トゥーヴァーは、フレデリクがトリスタンを牽制する間、一旦身を隠し、決定機を狙っていた。
瓦礫の渦を操りながら吹き抜けの三階程の高さに浮かんでいたトリスタンに、トゥーヴァーは後ろから飛びつき、組み付いていた。
「ゴルゼ! ゾォン! ダグラ……ゼルズ!」
「あきらめろこの野郎!」
背後から組み付いたトゥーヴァーは、足でトリスタンの胴を締め、腕をその首に巻きつけて締め上げていた。おぼろげな亡霊のような姿となったトリスタンだったが、トゥーヴァーの四肢はしっかりとその身体に巻きついていて、その顔は、生きている人間が後ろから首を絞められた時のように、苦悶に歪んでいた。
しかし。
「ユルハ……ダグラ……サンゲ……ゾォン……」
「よ……よせ! やめな!」
トリスタンががっくりと首を下げた瞬間、トゥーヴァーは焦りの声を挙げる。次の瞬間。トリスタンの身体がドロドロと溶けだす。それはおぼろげな泥のように変化し……びちゃびちゃと、床まで垂れ落ちて行く。
「うわっ……!」
そこにはちょうど、下からまたトリスタンに対峙しようと、高度を上げられる場所を探していたフレデリクの目の前だった。
「危ない! そいつまた変わった!」
上空からトゥーヴァーが叫ぶ。次の瞬間。
床に落ちた、トリスタンの身体だった物の一部の、おぼろげな泥のような物が、槍のような姿へと変化し……目の前の、フレデリクの左胸……心臓の辺りを目掛け……恐るべき勢いで、飛び出した……!
――ザクッ……!
何かを切るような音がした。
トゥーヴァーの手を逃れた、泥と化したトリスタンの身体が最後の一欠けらまで床に落ちた。
槍のような形となりフレデリク目掛け突き出されていた物は、突如割り込んだ金髪の青年の剣に両断されていた。切り落とされた泥のような物の中から、隠れていた尖った木片が落ちて転がる。
その場に居た誰にも。何が起きたか解らなかった。
現れたのは、コルジア海軍の軍服を着た堂々とした体格の若い……半透明の美男子だった。肩に羽織った将官用の外套には王家を現す紋章もついている。
「元コルジア海軍提督アグスティンだ。ここはディアマンテ城の礼拝堂。貴様のような不逞の輩が居ていい場所ではない」
周囲の誰にも。予想だにしていなかった事が起きた。
新たに現れた、かつての英雄、アグスティン提督を名乗る青年は、恐るべき速さで軍刀を振り回し……泥の塊から元の悪霊の姿に戻ろうとしていたトリスタンを散々に両断する。
トリスタンの身体は赤く焼けたような煙へと変化し、上空へと逃れる。
それを見上げた美青年と、上空に居た美女との視線が合う。
「貴女は……!」
「……アンタは!」
トリスタンは二人の注意が逸れた隙に吹き抜けの端で実体化する。その姿はまたおぼろげな悪霊魔術師のようなものであったが、焦りの表情が強くなっていた。
そこにフレデリクが礼拝堂のベンチ、講壇、そしてやはり偉人像の頭を踏み越えて、突きかかって行く。トリスタンはたまたま近くに浮いていた、破壊されたベンチの足の木片を掴んでそれを払い退ける。
「マ……フレデリク! こいつもあんたの差し金か! いい加減にしておくれよ、アタシもう死んでるんだよ、こいつらに処刑されてさ、そのアタシが何でこいつらを助ける為に戦ってるんだい! あんたちょっと悪趣味過ぎない!?」
「お待ち願いたい! 私もまだ状況を把握していないが、貴女は今コルジアを襲う怪物と戦っていたのか!? 何故なのです、私達が貴女に何をしたのかお忘れではありますまい!」
「うるせーよ、アンタがその筆頭じゃないか! あたしゃアンタのせいで仲間達とはぐれて、こんな姿でこの世を彷徨う事になったんだよ! あんたも船乗りじゃなかったのかい!? 何でアタシを仲間と行かせてくれなかったんだ!」
「そんな事は出来なかったからだ! 待ってくれ! 私にこのチャンスをくれた英雄が苦戦している!」
トゥーヴァーと、その青年……アグスティンはフレデリクの方を見る。
所々赤く鈍く光る黒雲のような物に変化したトリスタンは、完全に自制心を失ったかのように、千切れた腕を、指を振り回していた。その周りを瓦礫が、剣が、燭台やら器やら花瓶やらが、避ける事も受け流す事も出来ない密度で渦巻き、飛び回り、フレデリクに迫っていた。
トリスタンは明らかに苦しんでいた。そして苦し紛れに、全ての憎悪をフレデリクに叩きつけようとしていた。




