マカリオ「何故君がここに居る。待てフレデリク!」フレデリク「来るなー! 今貴方と遊んでる暇は無い!」
小聖堂で始まる女王陛下とシモン殿下の礼拝。そこに射す不吉な影。
三人称ステージは続きます。
エステルはプランターにそっと近づいて行く。
――コッ! ココン! ゴッ……ゴツッ!
彼女は一瞬そのプランターをどけたらどうなるのだろうと思ったが、その考えを実行に移すのはやめる。
聖堂に女王陛下と聖職者達が入り、近衛兵が扉を閉めようとしている。エステルは一瞬で考える。こんな時フレデリクならどうするか。
彼女は音も無く滑るように小聖堂の両開きの扉に近づき、それが閉められる直前で中に入り込む。
「あ……おい」
扉の内側に居た近衛兵がすぐに見咎める。しかし。その近衛兵も考える。今またこの騎士見習いの小娘を摘み出すという騒ぎを起こすべきかどうかを。
「御願い致します、私は騎士グラシアンの娘で騎士見習いのエステルと」
「さっきも聞いた! 仕方無いな……隅っこで静かにしていろ!」
その近衛兵は無難と思える方の選択肢を選び、このいたずら者の騎士見習いの小娘を小聖堂の入り口隅のアグスティンの記念碑の方へ押しやる。
聖堂では礼拝の準備が整っていた。
ここディアマンテの聖者の列に加わったとされる古の英雄、時の王の四男にして、ラヴェル半島連合海軍を率いてターミガンの大艦隊との決戦を制したアグスティン提督の勇気と知略、献身的な働きを顕彰し、語り継ぐ行事だ。
それは同じ血統を受け継ぐ現在のディアマンテの王家の系統の人間にとって、自分達の誇りと正統性を誇示する為の行為でもある。
現在のコルジア王、クリストバルの先祖はこのディアマンテ王の直系列ではない。故にこの場に居るのはイザベル女王とシモン王子だけなのである。
「故に、我らが祖先はターミガンの海からの侵略を絶ち、彼等を泰西洋から締め出し、ラヴェル半島の民だけでなく、正しき神を信じる者全てを救い……」
儀式が始まり、司教が歴史書を読み上げる間、シモン王子は単身、礼拝堂の中央に一人で立ち、じっと目を見張っていた。ただ、母の期待に応える為に。
イザベル女王はそこからかなり離れた礼拝席の後方に着席していた。これはアグスティン提督の顕彰を主宰するのは王室の男子であるべきという、女王のたっての希望でそうなった。
――カーン……カーン……
城外のどこか……恐らく凱旋広場にあるリベラの塔の、日没を知らせる鐘が聞こえて来る。
――バサバサ……
不吉な羽音のような音が、礼拝堂の高い天井のどこかから聞こえた。近衛兵達や僧侶が辺りを見回す。
女王は真っ直ぐに礼拝堂の正面を見ていた。シモン王子も。きょろきょろしたいのを我慢して、真っ直ぐに前を見ていた。母の為に。
それは、突然に始まった。
数羽のコウモリのような生き物が……礼拝堂の物陰から現れたかと思うと、たちまち、多数の群れとなり、礼拝室の天井を覆い尽くすように、金切り声を上げて飛び回った。
「な、何だこれは!?」「どこから来たのだ!」
「くそっ! 早く追い出せ!」「扉を開けろ!」
近衛兵達が騒ぎ、それぞれに得物を振り回す。今日の近衛兵達は年配の者が多かった。昔は豪傑だった者も多いのだが、今は儀礼の場に立つ事はあっても、戦場に出る事は無い、そんな者達だ。
コウモリはひとしきり飛び回ると、一つ所に集まって行く。
その様子には誰もが唾を飲み、息を潜めざるを得なかった。
集まって群れ飛ぶコウモリが、ぐるぐると回る人のような形を形造って行く。そしてぐるぐると回るそれは煙のように変化して行く……
誰もが何も出来ずただ見守る中。煙は、灰色のローブを着て灰色の外套をはためかせた、人間のような姿に変化した……礼拝堂の正面の、聖人像の上空で。
その姿は。現世に蘇ってしまった悪夢のようだった。
ひび割れた石灰のような灰色の肌、深く落ち窪んだ眼窪には正常の眼球はなく、真っ赤に血走った鬼火のような物が光っている。
そんな悪霊のような物が。コウモリから変化したかと思うと、宙を滑り……礼拝堂の中央へと、掴みかかるように舞い降りる……
あまりの突然の怪異に、誰も反応出来なかった。大勢居る近衛兵も、司祭も僧侶も。修道女達はただ怯えていたし、廷臣は女王の周りから動けなかった。
誰もが。この突然現れた悪霊が……聖堂の中央に一人で立っていたシモン王子に、古びた短剣のような物をふりかざして襲い掛かるのを、止める事が出来なかった。
ただ一人を除いては。
斜め上空からまっしぐらに、シモン王子を一突きに殺そうと滑空して来た悪霊。あまりの恐怖に泣く事さえ出来ないシモン王子。
その間に立ち塞がったのは、こんな邪悪な魔術師が現れるかもしれないと事前にマリーから聞かされていた、騎士見習い、エステル・エンリケタ・グラシアンだった。
「くっ……!」
聖堂の清められた大理石の床板に、鮮血が滴る。間一髪飛び込んだエステルが掴んだのは、悪霊が突き出し、あと数十センチでシモン王子の心臓を刺し貫こうとしていた短剣の刀身だった。
これは地下墓地から持ち出して来たような、死者の持ち物として一緒に埋葬するような儀礼用の短剣だった。
それ故に切れ味はそこまで良くなかったのだが、滑空して来た勢いのままの短剣の刀身を素手で掴んだエステルは、右掌にそれなりの怪我を負ってしまった。
「この……!」
痛みを堪え、エステルは悪霊の手から短剣をもぎ取る。
この悪霊のような魔術師には、手を触れる事が出来ない。だけど魔術師が持つ武器には触れる事が出来る。だから対峙した時にはまずそれを掴んで奪う。
マリーから聞いていた通りの対策だった。
悪霊はエステルを、怨念の篭ったような視線で見下ろす。
エステルはそれを見ずに、血塗れになった右手に短剣の刀身を握ったまま、シモン王子の身体に抱き着いてその場から引き剥がしにかかる。
「お、王子を守れ!」「この不敬者め!」
ようやく近衛兵の一部が動き出し、抜刀して礼拝堂の中央へと殺到する。しかし。
「な……」「何ィ……」
悪霊に向かって突き出された剣は、その外套やローブ、身体を灰色の煙に変えたものの。まるで手応えが無かった。
その様を見ているのか。邪悪な悪霊が片方の口元を引き上げる。まるで……嘲笑うかのように。
「武器が……効かない!」
近衛兵の一人がそう叫んだ瞬間。悪霊は……何かをつぶやき出す。
「ゼオア……クシア……ゲレス……ゾオン……」
「ひっ……」「う……うわああ!?」
方々で兵達が困惑の叫びを挙げる。彼らが王族の身を守る為携えて来た武器が、その手に握っていた剣が、勝手に宙に浮かび上がろうとしだしたのだ。
「やめろぉぉ! 何だこれは!」「剣が……嘘だろおい!」
「こんなの……どうすりゃいいんだ」「殿下! お下がり下さい!」
悪霊を貫いたかのように見えた剣が、その悪霊にもぎ取られるかのように宙に浮かんで行く。
近衛兵達も抵抗したが、剣はついに男達をぶら下げたまま浮かび上がる。さすがに手を離す者、剣と共に釣り上げられる者。共通して言える事は、誰にも為す術が無いという事だった。
エステルは悪霊からもぎ取った短剣の柄を握り直す。
「くっ……!」
掌の傷から血が滴る。痛みに眉を歪めながらも、エステルは短剣を悪霊に向ける。
「デクス……ドロア……ザウン……ベレス……」
悪霊の口から、不吉な木霊を引く呟きが漏れる。次の瞬間。
――ヒュッ!!
宙に浮かんでいた剣の一つが、エステル、いやその後ろに匿われたシモン王子めがけ、まっしぐらに飛来する。
――ガキンッ! ……ガシャン!
エステルは飛来する刃を冷静に見定め、サーベルのように構えた短剣でそれを弾いた。
剣は一度は悪霊の支配から逃れたらしく、床に転がったが。少し経つと、再び宙に浮かび上がる。
エステルの手の内には決して軽くない衝撃が残っていた。普通の剣士の斬撃を受け止めるのと変わりは無い。
自らの血で滑りそうになる柄を、いつまで掴み続けられるだろうか。
「……早く! 殿下を安全な所へ!」
エステルは左手で王子を後ろに抱え、悪霊をしっかりと正面に見据えて叫んだ。