不精ひげ「ええ、今はマリーを名乗る方の恰好で出掛けてます……本当にすみません」エステル「いや、そのように頭を下げないで欲しい……」
侯爵様もさすがにアイリの事までは知らないよね。ましてやそのさらに裏にある、マリーの父がしでかした因果の事など……
女王陛下とシモン殿下が控えの間から戻られた。王族ともなると食事の度にお色直しをするのかしら……私はそんな事を考えていたが。
「お話が出来て光栄でしたわ、叔父上。また後程、舞踏会の本会でお会いいたしましょう」
御二人は舞踏会用の華やかな衣装から、礼拝用と思しき地味な衣装に着替えられていた。そういえば、後で小聖堂に陛下と殿下が来られると言っていたわね。
「ええ、それでは」侯爵様。
私は一緒に御辞儀をする。
大変な経験をしてしまいましたよ。メヌエットとガボットの違いもよく解らない私が……何だか申し訳ない。
まあとにかく、夢の時間もそろそろ終わりですね。
私がそう思っている所に、シモン殿下がトテトテと駆け寄って来られる。
「待って、マリーちゃ……マリー殿も一緒に行きましょう、小聖堂でお祈りをするんです、むかしのコルジアの英雄王子の為に」
殿下は私の袖をお掴みになってそうおっしゃる。こういうのはどうしたら宜しいのかしら。行きますと言っても行きませんと言っても失礼になりそうだ。
私が狼狽していると。女王陛下が御自ら近づいて来られた。
「王子。これはアグスティン公の血脈に連なる、私と貴方の務め。余人を交えるものではありませんわ」
これはごく普通の光景なのだと思う。希望を述べる幼子と、道理を諭す母親。王家の貴種であっても、ヴィタリスの貧乏親子であっても変わらない、当たり前のやり取りなのだろうけど。
女王陛下から溢れる、私など近づいただけで圧し退けられそうな威厳のせいだろうか? 何だろう……何かそれだけではないような。
私はこの光景から、漠然とした不安を含んだ威圧感を感じていた。
「会場に戻りましょう、マリー殿」
私がぼんやりしていると、侯爵様が近づいて来てそう言ってくれた。ここは王族の為の場所、そして招待はもう終わったのだから、立ち去らないといけない。
三階にあった王族の為のバルコニーから、一階の向日葵門へ……近衛兵さん以外誰も居ない階段や廊下を、私は侯爵様のエスコートで降りる。オーバースカートのせいで全く足元も良く見えないし、つまずいたら下の階まで転がって行きそうなので純粋に有難い。
「これだけは……私にはお伺いする資格があると思うのですが。私の娘を救ってくれたのも、貴女なのですね?」
そんな事を考えている所に。侯爵様が小声で、急所の一言を投げ掛けて来た。ああ……それを聞きますか……
変装がバレた時の言い訳って考えてなかったなあ。どうしよう。
「あの……出来ればこの事は内緒に……」
「それは勿論ですとも、貴女にも貴女の事情があるのでしょう、私はパスファインダー商会と貴女の味方である事をお許しいただきたい。それだけです」
溜息が出る。私がこんな所で徒夢を咲かせる事が出来たのは侯爵様のお蔭なのだ。感謝しなければならないのは私の方ですよ。
だいたいカリーヌさんを助けたと何度も感謝されると、私としては後ろめたい向きもあるのだ。私はただアイリを船に連れて帰りたかっただけだったのよね。
「いずれ機会があれば、ご説明致しますわ……ありがとうございます、侯爵様」
そう。私が16歳になったら、きっと話します……あの場でトライダーを味方につける為、マリーだとバレて養育院に連れて行かれないようにする為、性別も国籍も偽ろうと、ただそれだけの為にフレデリク君は生まれたのだと。
ただこの侯爵様、いい方なんですけど口は軽かったわね。ロヴネルさんが提督だというのも男爵令嬢達にサラッと明かしてしまってたし……
さて……私の、パスファインダー商会の宮廷舞踏会もこれで終わりかしらね。
シモン殿下のおかげでグラナダ侯爵と女王陛下を会談させる事も出来てしまった。これ以上望みようのない大戦果じゃないかしら。
だけど。考え過ぎのマリーちゃんの頭の中で、嫌な感じの鐘が鳴っている。
ホールに戻って来た私達の元に、ロヴネルさんがやって来る……いつの間にか現れた男爵令嬢姉妹を連れて。ロヴネルさん、すっかりお気に入りにされてしまったようですね。
ああ、エドムンド卿も一緒ですよ……ってマリーは初対面だっけ? 何だかゴチャゴチャになって来ましたよ。
「グラナダ閣下。女王陛下に御会いしていたと聞きましたが」
そのエドムンド卿が、興奮を抑えた様子で侯爵に話し掛ける。
「ハハハ、私も驚いているよ。フレデリク卿がね……」
「フレデリク卿が?」
「ああ、違った、ここに居らっしゃるマリー嬢でした。マリー嬢が女王陛下との会見を取り次いで下さいましてな」
ほら危ないですよ……もうグラナダ侯爵の知り合いには全部バレると思った方がいいのかしら。
「何と……私が手を拱いている間にもそのような事が。何とも忝い、私などが一番血も汗も流さねばならない立場だというのに。私はサフィーラのエドムンド・バルレラと申します。お見知りおきを」
「マリー・パスファインダーと申します」
「……パスファインダー商会のマリー殿!? それではまさか、貴女があの海賊ゲスピノッサを二度捕らえた豪傑」
「誤報なのです、それを成し遂げたのはアイビス海軍ですわ、私は御覧の通りのただの小娘でございます」
私は慌てて否定する。今その話やめて、侯爵様もロヴネルさんも聞いてるから、また誤解が広がるから!
「ただの小娘は嘘よ、この方が昨日エステルとペアでダンスの金賞を獲ったのよ」
「それで今日はシモン殿下の目に留まられたのよ! お父様、私言ったじゃない」
シルビアちゃんが、アリシアちゃんが、お父さんのエドムンドさんに何事か耳打ちしている。お手柔らかに御願いしますよ。
「あの、今日はエステルは一緒では無かったのですか?」
「一緒に参りました。彼女はフレデリク卿に会わなくてはいけないと言って、私も出来れば御会いしたかったので、探しに行ってもらったのですが」
エステルはどこへ? 小聖堂かもしれない。
そうだよ、今一番気になるのはトリスタンの存在だよ。何を企んでいるのか? 誰と連携しているのか?
トリスタンの目的は侯爵様を害する事だろうか? トリスタンは以前にも間接的ではあるが侯爵に危害を加えようと企んでいた。
だけど侯爵がここに来る事は誰にも簡単には予想出来なかったはずだし、わざわざ警備の厳重な所で侯爵を襲う事に意味があるのか。
もしトリスタンの狙いが侯爵でないとしたら何なのか。以前はファルク王子を暗殺しようとした奴だし、何をしてもおかしくはないのだけれど。
……
今更だけど……ファルク王子を暗殺して、トリスタンに何の得があったというのだろう。背後で糸を引いていたランベロウは何か得したんだろうけど……トリスタン本人はただ罪状が増えるだけで何も得しないんじゃないの?
今回も。トリスタンがあんな暗殺専用の短剣を用意してここで何かを企み、それに成功したとして、トリスタンに何の得があるのか。そもそもあんな怨霊のようになってしまった人に、得とか損とかあるのか。
「すみません、私もエステルに御用があるのです、探しに行って参ります」
少し唐突な感じになってしまったが、私は挨拶もそこそこに、宮廷舞踏会の本会場から飛び出して行く。
嫌な予感が、とてつもなく大きな嫌な予感へと繋がってしまったのだ。