不精ひげ「あれは……船長。こないだの赤毛の娘も一緒だな」
朝のうちならマリーに会えるかもしれないと思い、フォルコン号目指してやって来たエステル。
しかし銀獅子亭の周りを徹夜で警備してしまったフレデリクは、エステルに会うなり寝落ちしてしまう。
「昨日の舞踏会では注目の的だったし、今朝は行き交う人々にさんざん珍奇の目で見られた。どちらも君のおかげだ」
気が付くと私はベンチの上で、エステルの膝枕で寝ていた。慌てて跳ね起きて、懐中時計を取り出す……8時か。
周りには動き始めたディアマンテの街……サフィーラもそうだったけど、皆が皆宵っ張りという訳じゃないのね。市場は早くから開くし、商人や職人達は朝から働いているようだ。
「すまないエステル……少し根を詰め過ぎたようだ」
「不覚にも程があるんじゃないのか? 君には敵も多そうなのに。あと、その声色をやめろ」
ふらふらと立ち上がる私。エステルもついて来る。
「どこかでもう少し眠れ、マリー・パスファインダー。今日もやる事があるのだろうけれど、その様子では何をしても差し障る」
「エステルは何か用事があったんじゃないですか? ああ私それを邪魔しちゃったんだ、どこに行く所だったんですか?」
「別に。たいした用は無い」
エステルは目を伏せる……どうしたんだろう。
「何か困り事ですか? 私に手伝えます?」
「君の事以外には何も。私が休めと言っても君は休まないんだな? それなら好きなように行動を再開するがいい、私に構うな」
「そんな突き放さないで下さいよ、あ、キュロットに私の髪の毛がついてます」
「いきなり触るな! 君は男姿なんだぞ、人目のある場所では弁えろ!」
「エステルも男姿じゃないですか……私も赤にすれば良かったなあ。いっぺん上着交換してみませんか?」
「断る! それで? 何故君は一晩中起きて歩き回っていたんだ」
私が先に空腹を訴えると、エステルはサフィーラでも行ったような小さな市場に案内してくれた。そしてエステルは薄く広く焼いた生地を次から次へ揚げている屋台に私を連れて行く。
「揚げパンですか? あの野菜を挟むんですか」
「トスターダだ……君達船乗りは陸では野菜を食べた方がいいらしいぞ。店主、紫ビーツ多目で頼む。あとブロッコリーも」
「私はブロッコリー少な目ベーコン多目で」「店主! 彼女にも私と同じ物だ!」
トスターダ……薄焼きの生地を揚げて、野菜やら肉やらをたっぷり挟んで食べる、手軽でいいわね。私はブロッコリーが嫌いな訳ではない。自分の畑でも育ててたし、散々食べたから飽きているだけだ。
そしてこの爽やかな酸味と甘味のあるソースは、空きっ腹の底を激しく揺さぶり、食欲を掻き立てて止まないのだが……そのソースがどうしても生地の合間から指へと伝い、ポタポタと垂れる。
「これソースがこぼれるのはどうしたらいいの」
「こぼれないように工夫して食べてくれとしか……」
私はそんな朝食の合間に、トリスタンの事を説明する。
「危険な魔術師か……君自身もずいぶん御伽噺めいた奴だし、今さら驚きは無いな。私は君が幽霊船を見た事があると言い出しても驚かないと思う」
「何せ心配なんです。あんな奴が出て来るって事は、何か悪い事を考えてる人が居るに決まってるから」
「その事だ、マリー・パスファインダー……君のしている事は、私には想像もつかなかった大事ばかりだ。だけど昨日ディアマンテ城で見た君は……まるで宮廷舞踏会に迷い込んでしまった無垢な田舎娘のように見えた」
突然、エステルが私の心の急所を突いて来る。宮廷舞踏会に迷い込んでしまった田舎娘……その通り過ぎて一言も反論出来ない。
「……これが本当は遠大な計略を練る策略家なのだとは全く信じられなかった。ロヴネル卿から事前に聞かされていてもだ 。ストークまで巻き込んで……そして君がやろうとしている事には賛同者も居るが、反対者も大勢居る……当然君もそれを意識しているのだろうけれど」
エステルは何の話をしてるんだろう。そういえばエステルとロヴネルは昨日の朝食会で話をしたのね。
「君はストークの事をどこまで知っているんだ?」
「その声色は……いや。昨日の朝、ロヴネル卿は包み隠さず教えてくれた。ストークの苦境と君が仕出かした事も」
何でエステルまで知ってて私は知らないの。ずるいよ。
「とにかく……確かに君の変装と田舎娘の演技は完璧で、敵味方問わずいい目眩しになっているとは思う。だが過信は良くない」
「そこちょっと待って下さいよ、私、そんなに言われる程変装してますか? 僕はマスクをしているだけだ。あと田舎娘の演技って酷いですよ、私は普通に」
「コロコロと声色を変えないでくれ……それに君の変装に本気で騙された奴ならここに一人居るだろう!」
「申し訳ありません、誠に申し訳ありません!」
「頭を下げるな! 私が余計惨めになる……ああもう、そんな話をしたいんじゃない、食事が終わったんなら……いや、いい。好きにしろ」
エステルは好きにしろと言うけれど、私の用事はもう済んで居る。昨夜はトリスタンの事が気になって眠れなかったが、今ならもう少し眠れそうだ。船に戻って寝ようかしら……でもせっかくエステルと会えたのになあ。
「エステルはこの後の予定は……」
「私の予定などいい」
またエステルと宮廷舞踏会に行って見たかったけど……エステルは仕事で来てるのだ、私のような暇人ではない。
「じゃあエステルの言う通り、一旦船に戻って寝直します。ごめんね、勝手に膝枕借りて」
「別にいい」
私は手を振り、踵を返す……エステルみたいに、これで失礼する、とか言った方がいいのかしら。私がそう思って振り向くと、エステルはすぐ後ろに居た。
「あ、送ってくれるんですか」
「私に構わずに行け」
ついて来てくれるならそう言えばいいのに。今朝のエステルは機嫌がいいのか悪いのか良くわからない。
「その……君がロワンの為に作った服の事なのだが」
「うん? あれはあれでいい。ロワンの仕事には適しているようだから」
「君じゃなく……マリー・パスファインダーはあの服の評価を気にしていたようだが」
「ジョゼフィーヌ夫人の件ですかね? それが夫人は昨日トリスタンを見てしまったらしくて、すっかり怯えてらっしゃるんですよ。今日はもう舞踏会にも来ないんじゃないかしら」
「それはその、君は服飾デザイナーとして世に出るのは諦めたと言う事だな?」
「やだなあ、飛躍しないでくださいよ、私はあのジョゼフィーヌ夫人が、これはと、気に止めるような服を作った女ですよ、私はいつの日かきっとデザイナーとして都で名を上げて……」
「……」
私とエステルがそんな話をしながら水路添いの道を歩いていた時だ。正面から、見覚えのある三人組が、角を曲がって現れる……黒のプールポワンに黒の帽子……ああ、マカリオですね。
昨日も何もなかったので、私も特に何も考えず、そのまま道を行くと。
「待て。ようやく会えたな、フレデリク・ヨアキム・グランクヴィスト」
マカリオは道の真ん中に立ちはだかる……ああ……昨日は商会長マリーと銃士マリーでは遭ったけど、フレデリクでは遭ってなかったんだ。