クロムヴァル「お考え直しを、夜直は我らが引き受けます、閣下には明日も仕事が……」ロヴネル「フレデリク卿から頼まれたのだ、私がやる」
自分の能力を知り尽くしている、かつての師匠に怯えるアイリ。
マリーは有効な対策を打てるのか。
私が銀獅子亭を訪れる頃には、時刻は午後十時を過ぎていた。
ディアマンテの人々は宵っ張りが多いが、侯爵はどうだろう。ロイ爺と同じくらいの年の人だし、今日みたいな日はさぞやお疲れではないのだろうか。
私は周囲を警戒しながら銀獅子亭の入り口に近づく。立派なお仕着せを着たドアマンが、私を見て扉を開けてくれる。仮面の男は不審者じゃないんですかね。
この上級の宿には騒がしい酒場などは無かった。フロントの横には静かなサロンがあり、数人の紳士が離れた席で盃を傾けている。
そんなコルジアらしからぬサロンで、ロヴネルさんが一人、小さな盃で何か召し上がっている。何度見ても海軍提督には見えない人ね……その様子はまるで、哲学者か詩人のようだ。
「少しいいかな」
私は5mは離れた所からアイビス語で呼び掛ける。
「勿論だ、さあこちらへ」
それから私は近づいて、ロヴネルの近くの椅子に掛ける。ちょっとストーク人っぽく行動してみた。
「怪我をしたと聞いたので心配していた。大事でなければいいのだが」
「この通り生きているよ。侯爵はもうお休みだろうか」
「有意義な一日だったとおっしゃっていた。君の友人のマリー殿にも良くしていただいた。今日列席したコルジアの有力者達にも、好印象を与えられただろうと」
その話はもう少し聞いてみたいような気もするけど……夜も遅いし、早く本題に入らないと。
「聞いてくれ。八月の終わり頃、ハマームでマフムード国王の後継者、ファルク王子に対する暗殺未遂事件が起きた。実行犯はアイビスの元宮廷魔術師トリスタン。この男は過去にグラナダ侯爵の政敵に仕えていた事があり、侯爵の娘夫妻を陥れる事で侯爵を失脚させようと企んだ事もある。道化などとは訳が違う、本物の邪悪な魔術師だ」
自分で言っておいてなんだけど、今の私、ロヴネルさん達以上にストーク人らしい物の言い方してるわね。合理的過ぎて唐突、あまりに唐突で非合理的というか。案の定、ロヴネルさんも二の句が告げないというお顔をしておられる。
「そのトリスタンが今日、ディアマンテに現れた。これには僕も動揺している。僕は奴の最期をハマームで見届けたつもりで居たんだ。何せ奴は、僕の目の前で己の身体を魔法で爆発させた……トリスタンを操っていたのはレイヴンのランベロウ、奴は間違いなくファルク王子暗殺計画の黒幕だった」
私はそこまで言って、ロヴネルさんの言葉を待つ。そう言えばこの話、前からしようと思ってたのよね。
ロヴネルさんが考え込んでいる……じゃあこちらから聞いてみようか。私だってずっと気にしていたのだ。フレデリクのせいで何故ストークが困っているのか。
「それで……レイヴンは僕のした事を何だと言っているんだ?」
「解っている……君の言う通りだ。真実を知った所で意味は無い。戦って敗れるか、戦わずして従属するか。そのどちらかを選ばなくてはならなくなるだけだ」
いやその……私、何も解らないから教えて欲しいんですけど……
「今はそのトリスタンという魔術師に備えるべきなのだな? 私に出来る事を教えて欲しい」
ロヴネルさんが居住まいを正す。そして何と言う真剣な眼差し、マスクが無ければ私でも危険だったかもしれないわね。
ロヴネルさんには隠す必要が無いので、私はハマームでフレデリク君が見たトリスタンとその対策について話した。
私が同じ事を他の人から初めて聞かされたら、真剣になんか聞かないだろうなあ。御伽噺か何かだと思うだろう。だけどロヴネルさんは極めて真剣に聞き入ってくれた。そしてレイヴンが何を言ってるのかについては教えてくれなかった。
私は周囲を警戒しながら、銀獅子亭を離れる……私なんかが辺りを見回して、それでトリスタンが飛んで来るのが見えたとしても、何が出来るのだろうか。
銀獅子亭のある解放広場には他にも宿屋や酒場などが軒を連ねているが、広場自体にはもう殆ど人影が無い。劇場や仕立て屋などは当然閉まっている。
私は何となく、以前故郷で網に捕らえられた時に、風紀兵団に言われた事を思い出していた。
『彼女は昨日、食べる物が無いと言って父親以外の男性に連れられ村の酒場に現れたという!彼女は昨日、随分暗くなってからやっと家に帰って来たという!このままではマリーさんは不良少女になってしまいます!』
去年の今頃、私はヴィタリスの小さなあばら屋で、日に日に弱って行く祖母の手を握り、毎日泣いていたっけ。
元気な頃の祖母は、どんな用事があっても日暮れ前には家に入れと毎日のように言っていた。約束を破ると怒られたなあ。
だけど祖母を亡くし一人になってしまうと、隣町での針仕事が長引いたり、山羊追いに手間取ったりでその約束も守れなくなって……
今だって。亡霊じみた怖い魔術師が侯爵の宿所を襲っては来ないかと思うと気が気ではない。ロヴネルさん達が守ってくれるとは思うんだけど……相手はあんな奴だから、初見で対処出来るかどうか……
アイリの目撃情報を詳しく聞くと、最初にトリスタンを見掛けたのは午後五時より少し前だと言う。
ハマームでのトリスタンは一度目はまだ人間だった。酷く悪い事を考えているような、尋常ではない雰囲気を帯びていたけれど、言葉も喋るし感情も持っていた。二度目のトリスタンは、言われてみればもはや亡霊か何かのようだった。
ただの想像というか、妄想かもしれないけれど。トリスタンが本当に怨霊のようなものになってしまったのだとしたら。奴は昼間に現れる力を喪失してしまったのではないだろうか。
根拠など何もないけれど、お化けは普通夜しか出ないのだ。それが常識というものだ。
私は夜のディアマンテを徘徊する。良く考えたらこんな時間に小娘一人で外を這い回るのは怖いよね。
こういう事をする者の事を不良少女と言うのだろうか。ばあちゃんごめんね。全部済んだら、ヴィタリスに帰って大人しく暮らすから。
トリスタンがいかに化け物とて、全知全能という訳でもあるまい……奴にもやりたい事とやれない事があるはずだ。そして今この瞬間も何かをしようとして、ディアマンテのどこかを徘徊しているのではないか。
全部私の思い込みかもしれないけれど。こんな気持ちでは船に帰って寝る事など出来ない。
私は解放広場から城に続く様々なルートを歩き続けた。何という長い一日だろう……私がリトルマリー号に乗る事を決めた日より長いわね。
◇◇◇
私は懐中時計を取り出す。午前六時……間もなく太陽も姿を現すだろう……
ものすごく無駄な事をしてしまった。
私は何をしてたんですか? ロヴネルさんに警備を御願いした時点で私の仕事は終わっていたはず……
何か起きたとしてもロヴネルさんに守れない物が私に守れるはずもなく、私が夜中じゅう起きて解放広場周辺のあらゆる道を徘徊していた事に何の意味があると言うのか?
眠い……疲れた……お腹空いた……
「マリー・パスファインダー! いや、その姿はフレデリク・ヨアキム・グランクヴィストか? 君も早起きをしていたのだな。朝食は済ませたのか」
そんな私に誰かが声を掛けた。振り向くと……ああ、エステルですよ。
「ああ、エステル……あの壺をグラナダ侯に届けてくれよ。あれは……いい物だ」
「壺? 何の話だ……待てフレデリク……マリー!! そんな所で横になるな、何をやってるんだ君は! マリー!? 寝惚けるな、起きろ! マリー!!」
緊張と疲労のピークに居た私は、エステルの声と姿に安心し、その場に堕ちてしまった。昏睡する前に何かの御伽噺で読んだ台詞を口に出したような気がするんだけど、目を覚ました時の私はそれを覚えていなかった。