ニスゲイル「鬼道に堕ちたか。未熟なくせにプライドだけは高かった奴には御似合いだ」
現れたのはアイリの元師匠、アイビスの魔術師トリスタン。
アイリを狙う凶刃を寸での所で阻止したマリー。
私は手の中に残った短剣を見る。ぎざぎざの刃と、折れ曲がった刀身を持つ、何とも邪悪な短剣だ……こんなもので刺されたらどんな傷になるのか。
よく助かったものだ。ジェラルドのおかげだな……前にジェラルドがやるのを見ていなかったら、私は恐怖に震えるだけで、何も出来なかったと思う。
刃には微かに、コウモリの毛のような物が引っ掛かっていた。私が振り回した時についたのか。たいした手応えはなかった気もするけど。
だけど私が不用意にアイリに声を掛けていなければ、そもそもトリスタンが襲って来る事は無かったのでは……
「マリーちゃん……どういう事なの……」
アイリがそう呟く。今度は私が飛び上がる番だ。私のせいでアイリを危険に晒してしまった今詰問されたら、私は洗いざらい白状してしまう。
「あれは……先生だけど先生じゃないわ……昔から陰気で気難しい人だったけど、先生は決してあんな怨霊みたいな人ではなかったわ、もっと普通の、欲張りで意地悪な人だったのよ!」
アイリは涙目でそう言った……酷く、震えているようにも見える。
「あ、あの、ごめんなさい、私アイリさんのメッセージを見て心配になって……私がうっかり声を掛けなければ、気づかれる事も」
そう言い掛けた私の手を、アイリが掴む。
「違うの……私、先生……あの男の魔法に支配されていたのよ、私、自分ではあの男を尾行しているつもりだったけれど、本当はそう思い込まされてどこかへ連れて行かれる所だったんだわ! あの男はそういう魔法の使い方をするの! さっきマリーちゃんに声を掛けられた瞬間……魔法が解けたのが解ったの……」
アイリの手ははっきりと震えていた。いつものお姉さんの様子ではない。
私はトリスタンの姿を回顧していた。
初めて見たのはブルマリンで、その時はトリスタンは自身の言葉とは裏腹に、最初から私達を相手にする気が無く、乱闘が始まるなりどこかへ逃げてしまった。
トリスタンはその時から陰気な人物だったが、普通に喋っていた。
二度目はハマームで。最初に見たのは宮殿の外だったが、当時でも私の目には尋常な人物には見えなかった。
トリスタンはファルク王子を暗殺しようとしたが、ジェラルドやフレデリクに阻まれた。セレンギルも居たな……
ハマームでフレデリクはトリスタンを二度撃った。一度目は肩を、二度目は足を。トリスタンは一度目はコウモリに化けて逃げ、二度目は魔法で自爆した。
ハマームのトリスタンは最初は人の言葉を話していた。衛兵に捕まった時、フレデリクに撃たれた時。
だけど二度目の宮殿襲撃以降のトリスタンは、もう人の言葉を話していなかったような気がする。見た目も変化していたような。
そしてついさっき間近で見た、短剣を振りかざしたトリスタンは、もう人間の顔をしていなかったように思う……何だか遭う度に人間離れしていってるような。
幽霊を見たと騒いでいた人達、そしてジョゼフィーヌ夫人が見たのは、トリスタンだったのかもしれない。あれだけたくさんの人に幽霊だと認識されたんじゃ、トリスタン先生はもう本物の幽霊だと言っていいのではないだろうか。
私がアイリに声を掛ける事で、トリスタンの魔法が解けた。トリスタンは私ではなく、アイリをあの短剣で攻撃しようとしていた。それは魔法の解けたアイリの反撃を恐れていたからだろうか。そして例によって、私がフレデリクだと解らなかったからだろうか。
マリーの姿でトリスタンと対峙したのは初めてだもんね……あんな化け物みたいな人でも、マスク一つで私が誰だか解らなくなってしまうのか。ちょっとショックである。
但しこの幸運は次は無いだろう。トリスタンは私をアイリに声を掛けたただの小娘だと思い、処理を後回しにしたのだ。それで私は短剣をもぎ取る事が出来た。
私達は無事舞踏会の会場である城を離れ、フォルコン号へと歩いて戻って来た。その間アイリさんはずっと怯えていた……私はアイリさんの手をずっと握っていた。
不精ひげとロイ爺とアレクは戻っていない。ぶち君まで居ない……とにかく。私は残っていたウラドとカイヴァーンに、トリスタンとの遭遇の事を説明する。
「厄介な相手のようだが……コルジア当局には説明しなくて良かったのか」
ウラドはブルマリンで一緒にトリスタンを見ている。
カイヴァーンは私が奪った短剣をあらためていた。
「簡単に刺さるけど、返しがあって抜けない。一人の相手を確実に死なせる為の短剣だな……こんなのを持ち歩く奴なのか」
今コルジアに説明したら何が起こるだろう。
今の所トリスタンがコルジアに何の用があるのかは解らないが、かつてのトリスタンの弟子のアイリとか、トリスタンと確執のあったグラナダ侯爵とか、この騒動を持ち込んだ私とかは、即座にディアマンテから退去させられはしないか。
その先は良く解んないんだけど、そういう事になるとロヴネルさんとかストークが困るんじゃないかな……
私はフレデリク・ヨアキム・グランクヴィストでもあるのだ。その一度も見た事の無い祖国が、私のせいで困った事になるというのは嫌だ。
「何が起きているかも解らない状況なので……誰かが困るかもしれない選択肢は選びにくいんですよ。あと、今の所私達も幽霊っぽい人を見たっていうだけなんで、コルジアに説明しようにも何と説明したものか」
「待って……マリー……船長。二つ御願いがあるの」
アイリさんは膝を抱えて座っていた……いつもの陽気で優しい、そして私へのしつけに関してはちょっと怖い、元気一杯のお姉さんの姿ではない。
「一つは……私に遠慮するのはやめて。私はトリスタンが怖いわ。でも私の為に何かを諦めてディアマンテから離れるとか、そういうのはやめて。もう一つは……」
お姉さんは、覚悟を決めたように顔を上げた。
「私を船牢に入れて。私、さっきまでトリスタンの魔術にかかっていたのよ。あの時船長が来てくれなかったら、私、トリスタンに操られて今頃何をしていたのか解らない」
私は抗議しようとしていたが、アイリは強い意志を秘めた視線でそれを遮っていた。
「残念ながら、あれは私の先生なのよ……あの男は私の性格や考え方を知り尽くしている。私を利用する術に長けているの。だから私、あの男の為に金貨七万枚も借金したのよ? 御願い。私があの男に利用されないように、ディアマンテに居る間は私を船牢に入れておいて。私だって皆の役に立ちたいけど……あの男に関する限り、私は私が利用されてしまう可能性の方が怖いの!」
困った事になった。
アイリさんは本当に船牢に籠ってしまった。
私はカイヴァーンに例の魔法の短銃を預ける事にした。
「でもこれ、姉ちゃんのだし姉ちゃんが持ってた方が……俺は武器なんて何でもいい方だし」
「あのね、魔法を使う敵って、魔法の武器じゃないと傷つける事も出来ない事がある……っていう噂を聞いた事があるから、船牢に居るアイリを守る為、貴方がこれを持ってて欲しいの。ね? 御願い」
短剣の方は念の為潰す事にした。こういう物は国の禁制品になっている場合もあるのだ。これは私がハンマーで叩いただけで半壊してしまった。
「それで姉ちゃん、こんな時間にどこへ行くんだよ」
私は既にキャプテンマリーの服を着ていた。そしてマスクをつけ、帽子を深く被る。
「トリスタンは以前もグラナダ侯爵を狙っていた。侯爵に警告しないと」
「マスクつけたら、声も変わるのな……でも、いくら姉ちゃんでも一人で大丈夫なの? アイリさんがあんなに怯えている相手なのに」
臆病で弱虫の私はどんな相手だろうと怖い。だけど相手がトリスタンなら私がやらなきゃと思う所もある。
トリスタンは奇襲攻撃を仕掛けて来るし、それで立派な兵士が死傷させられるのを私は何度も見た。今度こそあれを止めるのだ。