カイヴァーン「肉汁滴るビーフステーキ……肉汁滴るビーフステーキ……」ウラド「これはこれで美味い……そう考えるべきだ」
トリスタンというのは、かつてはアイビスの宮廷魔術師だったアイリの師匠。
ブルマリンでアイリとその元恋人ヴァレリアン(グラナダ侯爵の娘婿)を奸計にはめ、失敗すると殺害しようとしていた人物。
そしてハマームではファルク王子殺害計画の実行犯となりフレデリクことマリーに阻止され、最後は自爆して消えた怪物。
長いような、あっと言う間だったような一日が終わろうとしている。
とうとう宮廷舞踏会に行ってしまった。それも隅っこの方で見学させて貰えればと思っていたのに、本会場のホールの方にまで入れてしまった。
あまりにも夢見てた通りの雰囲気だったからびっくりしたよ。絵本の通りだった! そしてそんな場所で踊ってしまった。
宮廷舞踏会は、私が思ってた通りのキラキラヒラヒラした場所だった。
名前も呼ばれちゃったよ、マリー・パスファインダーって。
侯爵に誘われたのもびっくりした。フレデリクでもないのにいいんですか、ヴィタリスの山羊追い娘が侯爵様にエスコートされてしまいましたよ。
「こんな可愛らしいお嬢さんをエスコート出来るとは。ははは、周囲の青年達の嫉妬の視線が痛いね。本当に、来て良かったよ」
侯爵はそんな事までおっしゃって下さった。身分が高いのに優しい人ですねぇ。
そして帰りもこうして、わざわざ馬車でフォルコン号が居る河岸まで送って下さった。
「とても楽しかったよ。フレデリク卿にも宜しくお伝えしてくれ……明日は舞踏会にお越し下さるのだろうか」
「彼は時々客分として私の船に乗るのですが、いつも何も言わずに現れたり消えたりするのです。私も何も聞かないようにしておりますわ」
「うむ……ブルマリンに現れて娘夫婦を救ってくれた時もそうだったようだ……彼もまたストーク人気質なのだな」
そうして船に戻ったのは午後七時。少し早いような気もするけど、良い所のお嬢様ならこういうのが普通なのかしら。エステル達も同じ頃に帰ったし。
会場にはお料理も置いてあったけれど、私はアイリさんのしつけ通り、海老の他には焼き菓子を二つ三つ頂戴しただけだった。つまる所私はお腹が空いていた。
「アイリさん、まだ戻ってない?」
「今さっき配達人が来て、これを置いてったけど」
会食室では腹ペコらしいカイヴァーンがぼんやりしていた。ああ、お土産を買って来るのを忘れていましたよ。配達人が持って来たというのは、何かの走り書きのようである。
――少し遅くなるかもしれないので、夕食は何とかして食べてね。アイリ
遅くなる、ですと……いい出会いがあったのかしら。そんな事を考えると赤面してしまうけれど。あのお姉さんにはどうか幸せになっていただきたい……
さて、ウラドとカイヴァーンはほっとけば保存食を食べだすだろうけど、それでは申し訳ない。
「じゃあ私何か買って来るね。ウラドもまだだよね? 大丈夫、任せて」
艦長室に戻った私は早速着替えを……と思ったら。あれ? 衣装箱に見た事のない胴着がありますよ。
さてはアイリさんですね。最近水夫マリーだと肌寒いって言ってたら、自分に先んじて作られてしまいましたよ、私もお針子なのに。
これは水夫マリーの上に着るのにぴったりだ……いいんですかね、男の子みたいだけど。鏡に映る姿はさしずめ、水夫マリーあらため、銃士マリーといったところ。
じゃあちょっとお使いに行って……ってこれ船酔い知らずの魔法掛けてあるじゃん! 頼んでないよ私! 私、もう船酔い知らずは増やさないって決めてたのに。
その時。私の脳裏に住む柄の悪い虫が、ヒソヒソと鳴く。
私はベルトにトゥーヴァーさんの剣を提げる。
「姉ちゃん、何か買って来てくれるなら牛肉の串焼きがいいなあ。昼間姉ちゃんの話聞いてからずーっと牛肉の肉汁の味が頭ン中回っててさ」カイヴァーン。
「私も贅沢を言っていいのなら牛串が」ウラド。
「ごめん、二人とも……私は今は本当に牛肉見るだけで辛い気持ちになるから……鱈のフライで勘弁して」
「姉ちゃんそんな、じゃあせめて豚肉! コルジアったら肉料理だから! 肉!」
「本当ごめん私も急用が出来たの! 鱈のフライならすぐそこで売ってるから!」
私は大急ぎで河岸の揚げ物屋との間を往復し、やや不満顔の二人に大きな鱈のフライと野菜のフライを渡した後、自分も少し冷めた鱈のフライを一切れ貪り食いながら、馬車で送ってもらって来た道を走って引き返す。
着替えた途端、行儀もへったくれも無いわね私。
この街は宵っ張りでそこら中に灯りがあるし、今日は満月に程近い月も出ている。
案の定、城までの道は馬車で来た時よりも短く感じた。やっぱり私が走った方が早いよ。
正門前の様子は昼間とは違っていた。さすがに入場を待つ人の列は無く、門からは帰宅の途に就く人々が、三々五々現れる。
私は今度は何を始めたのだろう。何が気になって、馬車で送っていただいた道を駆け戻り、舞踏会の会場に入ろうとしているのか。
門の前後には衛兵さんが何人も居る。腰に剣を提げた紹介状も無い人間なんて、中に入れて貰えるかしら。
私は弾んだ呼吸を整えてから、普通に歩いて行き、正門を通ろうとする。
「おい、坊主、駄目だ勝手に入っちゃ……うん? 坊主じゃなくてお嬢ちゃんか」
そして普通に衛兵さんに止められた。
「ごめんなさい。アイビスのグラナダ侯爵はもうお帰りになられたか御存知ありませんか?」
衛兵さん達は顔を見合わせる。恐らく誰も知らないのだろう。私自身は勿論、侯爵は既に帰ったという事を知っている。
「解らないけど、偉い人は今日は早くに帰ったと思う。明日は御前舞踏会だから」
うーん……突破出来そうにない。そりゃそうだ。仕方ない、ここまで来たけれど諦めようか。
「今日の催し物はみんな終わったのですか?」
「とっくに終わっているよ、今残っているのは暇人だけだ……おっと、口が過ぎた。さあ、お嬢ちゃんも帰った、帰った」
帰れ、と言われて簡単に帰る訳にも行かない。私もマリー・パスファインダーである。昼間来た馬車専用の入り口は……まあ、普通に馬車専用の出口になってるみたいね。
何とかしてどこかから突破出来ないか。私がそう考えていると。
「きゃあああああああ!」
その時。まさにその、馬車用の出入り口の向こうから、女性の大きな悲鳴のようなものが聞こえて来た。
衛兵さん達の注意が集まる。何事だろう。
「今そこに幽霊が! 幽霊が居たのよ、スーッと宙を飛んで……」
「奥様、どうか落ち着いて下さい、何も居りませんわ」
向こうで女の人が騒ぎ、お付きの人がなだめているらしい。
大変なような、大した事ないような騒ぎですね……ここからじゃ見えないけど、馬車用の入り口の方にも衛兵さんは居たわよね。
「見たのよ! 灰色のローブを着た幽霊が、空を飛んで塀を乗り越えたのよ!」
だけど女の人はまだ騒いでいるようだ。
「忙しくなりそうですね、お邪魔してすみません、失礼します」
私はそう言って衛兵さんに丁寧に頭を下げる。
「ああ、気をつけて帰れよ」
正門に背を向けて去ろうとした私から、衛兵さん達の視線が離れる。皆がこちらの騒ぎは終わったと思ってあちらを向いた瞬間、私はヒョイと柱の陰に潜り込み、正門の内側へと忍び込む。
中に入ってしまえばこの程度の姿はたいして目立たない。チビで貧弱な体で良かった。庭園から通路、通路から中庭へ、私は辺りを見回しながら走る。
「あっ……ごめんなさい!」
中庭に飛び出した所で、私は人にぶつかりそうになってしまった……ってぎゃああ!? この人マカリオじゃん!
「こんな所を走るな、女よ」
マカリオは……単に警備の手に駆り出されているのだろうか、黒のプールポワンに軍の記章をつけていて、私を一瞥してぶっきらぼうにそう言うとそのまま行ってしまった。
とにかく、探しているのはこの人ではない。
私は今日と明日は正式に休暇だと言ってある。大人の女性であるアイリさんがどこで何をしていようと、それを船に連絡する必要は無いはずなのだ。
そもそもアイリさんは良いと思う事は人に相談したりせず、勝手にやっちゃうタイプの人だ。それでブルマリンでは一人で降りて行ったし、私のこの革の胴着も勝手に作って勝手に魔法をかけてくれた。
そんなアイリさんがわざわざメモを送って来たのには、きっと何か理由がある。それもどちらかと言えば良くない理由な気がする。
昼間、エステルと手を繋いで踊った花壇の周りを、私は走る……闘技場の外で屋台にぶつけた背中がまだ痛い……
満月に近い月が、私を見下ろしていた。