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エステル「荷が過ぎる……何故聞いてしまったのだ私は……」

マリー壊れ回。

 視界が真っ白になった。眩しくて何も見えない……! 音も聞こえない。いや、一つの音が繰り返し繰り返し残響して、全ての音を掻き消しているのだ。



――どこのどなたの作品なのかしら。どこのどなたの作品なのかしら。どこのどなたの作品なのかしら――



 ジョゼフィーヌ夫人が。あのジョゼフィーヌ夫人が今、間違いなくそう言った!


 私の目を覆っているのは涙だ。たちまちのうちに溢れだした涙だ。もしくは私は今白目を剥いているのかもしれない。

 多分鼻水も出ている。口からは泡を吹いている。心臓が早鐘を打っている。

 膝から力が抜け、腰は砕け、立っていられない……四つん這いに這いつくばった私は、何とか、何とか前へ進もうとするのだが、一歩も、一歩も歩けない。

 早く、早く名乗り出なきゃ、名乗り出なきゃ……!



「わかっ……あしあッ……」



 自分は本番に弱い人間だとは思っていたが、こんなにも弱いとは知らなかった。

 叫びたい。叫びたいのに、緊張と興奮のあまり声が二周裏返って全く喋れない! 肘も手も震えが止まらず、四つん這いでいる事さえ苦しい! だけど!



「あかっ……わしあっ……」



 私は震える手をどうにか伸ばすが、もう駄目だった。手を伸ばした瞬間四つん這いさえ維持出来なくなった私はそのまま床に倒れた。

 眩しくて何も見えない。見えないけどきっと向こうだ……私は必死に、必死に手を伸ばす……ああっ……あの人が、いや神様の影が、遠ざかって行く……!


「……マリー……マリー!」


 どこか遠くで私を呼ぶ声がする……だけど私は必死に手を伸ばしていて……見えない……聞こえない……私の神様が……私の神様が見えないっ……!



「いきなりどうしてしまったんだ! マリー! しっかりするんだ!」


 気が付けば。私はホールの壁際でエステルに肩を抱きかかえられていた。私の右手は今も、何かを掴み取ろうとするかのように、虚空へと伸ばされていた。


「わだじ……どうしぢゃっだの゛……」


 解らない。自分でも自分に何が起きてしまったのか、全く解らない。

 私は床に倒れ、眩む目を見開き、鼻水やら泡やら吹きながら、必死に手を伸ばしていた。

 そして私の頭の中は、欲望に塗れた妄想で一杯になっていた。




 アイビスの王都の一等地にそれはあった。今、北大陸で一番のドレスを作るという新進気鋭のデザイナーの工房である。

 そこに現れたのは華やかな四輪馬車。執事達にかしずかれながら、馬車を降りるカリスマデザイナーにして工房のオーナー、マリー・パスファインダーである。


「マリー様、今朝レイヴンから使者が参りました。第二王女の婚礼衣装の仕立てをマリー様に依頼したいと」

「まあ、光栄ですわね……勿論謹んで御請け致しますと伝えて下さるかしら」

「しかし、公爵夫人の礼服に大女優の舞台衣装、ファルケやフェザントからの依頼も立て込んでおります、マリー様のお体の事も考えませんと」


 私は苦笑いを浮かべ、溜息をつく。


「仕方がありませんわ……私の評判が仕事を呼び、仕事が評判を呼んでしまうものですから……ですが私はアイビスが世界に誇る新進気鋭のデザイナー、マリー・パスファインダー! かのジョゼフィーヌ夫人が認めた天才! その名声に恥じぬ物を作り続けるだけですのよ!」


 執事が工房の扉を開く。国中、いや世界中から集まった私を慕う弟子達が準備を整え、私の号令を待っている……




「私は服飾の世界には疎いのだが、それは少し飛躍し過ぎではないだろうか……」


 エステルは呆れ顔で私の妄想話を聞いていた。確かに少し飛躍し過ぎたかもしれない。だけど!


「ジョゼフィーヌ夫人が、これは、と指差すだけで、その服の値段は十倍になると言われてるんですよ! 前にも言ったけど私は本当にお針子なんです、お針子は騎士や船乗りとは違うんです、こんな大手柄を挙げるチャンスなんて、普通は一生に一回だって無いんです!」


 私はどうにかハンカチを出して、涙だの鼻水だの涎だのをぐりぐり拭う。

 ああああ……興奮がぶり返して来た。


「ヨゼフィーヌ夫人は! ジョセフィーユ夫人はろちらに行かれたんれすか!」

「あの……待ってくれ、君は……海賊ゲスピノッサやホドリゴを捕えた私掠船の船長にしてマジュドの騎士、そして影では内海に広い人脈を持ちアイビスとコルジアとアンドリニアを三者協議へと導くフレデリク卿でもある、海の勇士、マリー・パスファインダーではないのか?」

「あんな物はまやかしれす! たまたま手に入った泡銭あぶくぜにみたいなもんれすよ、わぬしに生きて行く自信をくれるのは針と糸だけなんれす!」

「そんな……」



 私はジョゼフィーヌ夫人の姿を探し、宮廷舞踏会の会場全体をつぶさに眺め回す。何ということだ。つい今さっきまで目の前に居られたのに。何故私は話し掛けられなかったのか。

 だけど今もし目の前にジョゼフィーヌ夫人が居たら……それを想像するとまた動悸が高まり、喉が押し潰され、声が出なくなるような心地がする……

 立ち上がれマリー……今立ち上がらないでいつ立ち上がるんだ! これは一生に一度の、千載一遇のチャンス、天国のばあちゃん、地獄のお父さん、どうかマリーに力を下さい!


「ジョ……ジョレフィーユふりん……!」

「待つんだ、無理だマリー、一度水を飲みに行こう、君は突然降って湧いた名誉に目が眩んで正気じゃなくなっている」


 私はジョゼフィーヌ夫人が目の前にいる事を想像しただけで息切れを起こし、再びうずくまっていた。


「御願い、肩を貸してエステル……ジョゼフィーヌ夫人……ジョゼフィーヌ夫人を探さないと……」

「仮に夫人の前に立てたとしても、そんな状態の君にまともな話が出来るとは思えない、せめてもう少し落ち着いてからにするんだ……とにかく廊下のベンチにでも座ろう」





『あのジョゼフィーヌ夫人も認めた!テーラー・マリー』


 パルキアの大通り。瓦礫と化した白金魔法商会の跡地に建てられた、小さな店。その小さな看板が揺れる店頭には、今日も街のお洒落に敏感な人々が集う……


 店長の私は朝からほうきで店の前を綺麗に掃き清める。

 そのうちに弟子達がやって来る。開店の時間だ。

 マリーの店は決して裕福な人達だけの店ではない。女工さんや店員さん、学生さんでも手の届く、だけどとびきり素敵な服を作る店なのだ。


「このお店、あのジョゼフィーヌ夫人も認めたデザイナーが居るんですって」

「凄いわねー。お店の中にいらっしゃるのかしら?」


 今日も街の女の子達がそんな噂話をしながら、箒で道を掃く私の横を通って、店の中に入って行く……ふふふ。私がそのデザイナーのマリーです。気づかなかったでしょう?




 私はホールの外の廊下のベンチで、グレードダウンした妄想に浸っていた。そこに、小さな陶器の水差しとカップを持ったエステルが戻って来る。


「ほら、水だ。これを飲んで……少しは落ち着いただろうか」


 私はエステルが差し出してくれた水をいただく。興奮に焼けた喉に、冷たい水が心地良い。

 まだ少しのぼせた感じがするなあ。あ……鼻血出るかも……

 エステルはベンチに座った私の正面に回り、片膝をついて急に居住まいを正す。何……何だろう。


「あの……マリー・パスファインダー。君の気持ちは少しは解った。君にとって針仕事は他の事には変えられない、掛け替えのないものなのだと。だけど、そんな大事な物ならばこそだな……私も上手くは言えないけれど。いや、はっきり言おう、今は君はジョゼフィーヌ夫人に名乗り出るべきではない!」


 あ……鼻血出たかも……


「なぜれすか! わらし……」


 たちまち呂律が回らなくなる私。ああ。これはエステルの言う通りだ。このままジョゼフィーヌ夫人に会ったら、才能はあるが頭のおかしな小娘として記憶に残ってしまうだろう。後々の事を考えればそれは得策ではない。


「ごめんね、ああ大丈夫! 自分のハンカチで拭くから……」


 私はエステルがハンカチを取り出したのを見て、慌てて自分のハンカチを出して鼻の辺りを拭く。はあ……私は今、この様でジョゼフィーヌ夫人に挨拶しようとしていたのか……


「ありがとう、エステル。ヒョゼ……ジョゼフィーヌ夫人には、私がもっと落ち着いてから挨拶致しますわ」

「……それがいいよ。一休みしたら踊ろう。折角本会場に入れたんだから」


 エステルは、目を伏せてそう言った。


 少し前。


 錯乱したマリーを廊下のベンチに残し、エステルは飲用水を探していた。

 招待客は廊下にも多く居て、近衛兵の姿もある。


「すみません、水はどちらに……ああ、ありがとう」


 エステルは近衛兵に教えてもらった小部屋の方へ行く。そこには給仕が居て、栓のついた樽から飲用水をカップに注いで招待客達に渡していた。


「その水差しもお借り出来ませんか」


 エステルが水差しに水を注いでもらっていると、そこに一人の初老の淑女がやって来る……この人は、まさにマリーが言っていたジョゼフィーヌ夫人ではないか。


「失礼、御挨拶させて下さい、私はエステル・エンリケタ・グラシアン、貴女はジョゼフィーヌ夫人と御見受け致しましたが」

「あら、可憐な騎士様ね。光栄ですわ」

「先程、ホールで道化師の芝居を御覧になっていたと思いますが、あの道化師の服は私の知人が製作した物なのです。ジョゼフィーヌ夫人は服飾の権威と存じます。恐れ入りますが、どうか知人の為に講評を頂けませんか」


 エステルがそう言うと、ジョゼフィーヌ夫人は扇子で口元を隠し、眉をハの字にして視線を宙に逸らす。

 エステルは内心、これはあまり良くないようだとすぐに気づいた。


「……遠目にも縫製や着心地は優れているように見えましたわね。道化師がどのように動いても生地が追従する、あれは大変良く出来た……作業着ですわ」

「……デサインは如何でしょうか」

「……そうねえ。もしその方があのセンスでデザイナーになる為に都会に行こうとされているのでしたら、思い止まるよう説得して差し上げるのが、友情というものでしょうね」


 マリーにはこれまでさんざん振り回されて来たし、恨みに思う所は無いでもない。だけど、自分がこんな重い物を背負う事になるとは思わなかった。


「率直な御講評に感謝致します……本人には私からの忠告として、それとなく伝えます」

「そう……頑張ってね」


 最後にエステルは深く礼をして、水差しを手に、重い足取りでマリーの元へ戻って行く。

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ご来場誠にありがとうございます。
この作品は完結作品となっておりますが、シリーズ作品は現在も連載が続いております。
宜しければ是非、続きも御覧下さい。


シリーズ全体の目次ページはこちら
マリー・パスファインダーの冒険と航海
― 新着の感想 ―
そうか。。。 エステルほんと良い子だな。泣
[一言] 服飾デザイナー! マリーさんの夢だったんですね。見事な動揺っぷりでした。 確かにあこがれの人に自分の作品を褒めてもらったら、天にも舞い上がる気持ちがしますよね。 だからこそ……その、現実が。…
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