馬「あいつこの前の無礼者じゃねーか! いいんですかご主人」
スペインの闘牛は17世紀ぐらいから流行し、現在の形になったらしいよ。
でもそれはこの世界とは関係ないよ。
私の我侭でやって来たディアマンテ。その港に係留されたフォルコン号の低い艦尾楼の上で、私は普段着姿でハンモックに揺られていた。
キャプテンマリーの服はたった今洗い終えてロープに吊るしてある。
あのまま銀獅子亭に行くのはやめにしたのだ。侯爵だって牛の返り血塗れの小僧に尋ねて来られても困るだろう。
ヴィタリスでは11月の初め頃に鱒追いをやる。仕事というよりは村の行事に近い。鱒の群れが川を登って来た所を、大勢で浅瀬に追い込んで一網打尽にするのだ。
村の行事だから、どこの家からも家長もしくはその跡取りが義務的に参加する。普段力仕事をしない文筆家のジェルマンさんだって、ズボンをまくり上げて鱒を追う。
我が家の家長は滅多に家に居ないので、三年前からは私が代わりに蛮勇を振りかざし棒で鱒をぶっ叩き、気絶したやつを籠に入れ、三枚に下ろす作業に従事していた。それは冬の間の保存食にする為、全部燻製になる。
田舎娘の私にとって、生き物の命を奪う事は別に初めてでは無かった。だけど今はとうとうやってしまったという気持ちの方が強い。
剣なんかぶら下げて歩いてたら、いつか斬るか斬られるかするんじゃないかという気はしてたし、以前ヴィタリスで食い詰めた追い剥ぎに斬りつけた事も忘れてはいないんだけど。
ビコに向かって突いた、最初で最後の一撃……非力な私の剣が、何故あんなに深々と刺さってしまったのだろう。
私には何となく、傷つき苦しむビコが、私の剣に刺し貫かれる事を望んだからだと思えてならないのだ。
留守番をしていたウラドとカイヴァーンは、私の様子がおかしいのを察してそっとしておいてくれていたのだが。
私は二人に、今あった出来事を正直に話して感想を求めてみた。
二人は一瞬、顔を見合わせていたが。
「おめでとう、船長」「おめでとう姉ちゃん」
「ごめん、私の気持ち伝わってないかしら、私、ショックを受けてるんですけど」
だけどウラドは珍しく、くだけた様子で笑みまで浮かべて話す。
「私は私の経験と知識の価値観でしか物を言えないから、船長のその話を聞いて一番感じるのは羨望だ。素晴らしい。船長の行動は間違いなくその牛を、その飼い主を、そして広場の皆を救った。私もそのような名誉ある戦いをしてみたいものだ」
カイヴァーンもにこにこしている。
「やっば姉ちゃんってすげえな。大人の男達がどうにも出来なかった牡牛を片付けちまうなんて。でも黙って帰っちゃったのは勿体ないな。記念に耳でも貰ってくれば良かったのに」
ナチュラルボーンの戦士二人の感想は私の憔悴に対しては何の役にも立たなかった。こっちは暫くビーフステーキが食べられないかもってくらい落ち込んでるのに。
ビコはとても賢そうだったのだ。あんな場所であんな風に出会ったのでなければ、仲良くなる事だって出来たような気がする。興奮した人々に囲まれた石畳の街などではなく、ヴィタリスの放牧地だったらなあ。
のんびりとシロツメクサを食むビコが居て、その横でひたすらに雑巾を縫う私が居て……そんな光景が容易に想像出来る。
ビコはそもそも市場に連れて行かれる途中の肉牛だった……それは解っているんだけれど。こんな妄想をして涙を流す事に意味はあるんだろうか。
とにかくどうしよう。キャプテンマリー、つまりはフレデリクが洗濯乾燥中で出られなくなってしまった。
サフィーラで買ったオレンジ色のジュストコールはあるが、これは船酔い知らずではない。私の中ではこれを着てフレデリクというのは無い。
だけどそろそろ覚悟を決めないと。グラナダ侯爵が待っている……
少し後。私は商会長服姿で銀獅子亭に向かっていた。
約束の時間からは一時間以上過ぎている。ロヴネルさんやライオン、黒オールバックの人は、宿の外で待ち構えていた……ううっ。やだなあ。
私が宿に近づいて行くと、ロヴネルさんは真っ直ぐこちらを見出す。あ……もしかしてフレデリク=マリーとお気づきいただけたのだろうか。それなら気まずいけど話は早いかもしれない。
それともこの姿でも私が男の子に見えるのか? それはそれでショックだ。
私が近くまで行くと、ロヴネルさんが口を開く。
「貴女は……ロングストーンでお会いした……」
「マリー・パスファインダーと申します……フォルコン号船長で、パスファインダー商会の商会長です……先日は失礼致しました」
「貴女がフレデリク卿の乗艦の艦長でしたか。私はマクシミリアン・ロヴネル、ストーク海軍提督ですが、今はグラナダ侯爵の私兵として働いております」
別人扱い! また別人扱いですよ! 私とフレデレク、そんなに違うの!? アイマスクしてるかしてないかだけじゃないの!?
私は色々白状するつもりでここに来たのに。別人でいいと言うのなら……
「フレデリクは不慮の事故に巻き込まれたそうで……古い闘技場跡で牛が暴れ、怪我人が出たのです。彼もその場に居合わせて負傷したと」
本当である。私は今日二回、痛い目に遭った。
一度目は女の子を助けようとしてビコの背中から落ちた時。この時は安全の為にわざと落ちたので、そこまで痛くはないけど痛かった。
二度目は女の子を抱えたまま背中から屋台に叩きつけられた時。こっちは息が止まるかと思ったし、背骨が折れたかと、むしろ死んだかと思った。
「私も騒ぎを聞いて駆け付けた野次馬の一人でした! 私が辿り着いた時には、まさにフレデリク卿が一人で牡牛に立ち向かい、止めを刺すところでした。遠目にも似ていると思いましたが、やはりあれはフレデリク卿でしたか」
ライオンが口を挟む。見てたんなら手伝えよ! 貴方めちゃくちゃ強そうじゃん!
「負傷されていたのか……彼の具合は」ロヴネルさん。
「提督、いや船長、フレデリク卿は見事に牡牛を討ち取った後で堂々と立ち去られました、大きな御怪我はないはずです」ライオン。
「レンナルト、船長は商会長殿にお尋ねしているのだ」えーと……イェルドさん。
「これは失礼、ただ、かなりの返り血を浴びられていたようなので、一度戻られたのは仕方が無いかと」
私が口を開く前に話を終わらせるのは止めていただきたい……これがストーク人気質か。
「彼は今私の船の客人ですが、私は彼が何をしているのか良く知りません。彼に伝えるべき事があれば伺いますが」
半ばやけくそで私はそう言った。三人の人間が居て、誰もこの雑な変装に気がつかないという事があるのだろうか。
「では、エドムンド卿と侯爵の朝食は有意義なものになったと。御両所は次はコルジアの有力者を巻き込むべし、という見解で一致したと、フレデリク卿にお伝え願いたい。それから侯爵は予定通り、今日の夕方には宮殿に行くと」
「承知しました。他には宜しいのですか?」
「フレデリク卿は常に独自の考えで行動している。彼は必要な時、必要な場所に現れるはず」
どういう信頼感なのでしょう……私だってフォルコン号の仲間からそこまで信頼されてないよ。フレデリク、ちょっと羨ましいわね。
私は解放広場を離れる。
これからどうしよう。午前中にだらだら食べ歩きをしていたのでお腹は空いていない。街は浮ついているけれど、私はお祭り気分ではなくなってしまった。
やっぱりフォルコン号に戻ろうかなあ。
私、自分が宮廷舞踏会にお邪魔してみたくてディアマンテに来たはずなんだけど。
そんな事を考えながら歩いていると、道の向こうから、見た事のある三人組がやって来るのが見える……一人は馬に乗っていて、二人はそれに従っている……ってあれ! マカリオと二人のレイヴン人じゃないですか!?
こんな所で何してるの、また何か企んでいるの? いや、あの男はコルジアの騎士なんだから、ここに居るのは何もおかしくないのか。
どうしよう!? また絡まれたら……今の私フレデリクでも船酔い知らずでもないし、武器も何も無いですよ!? そもそも何で私が絡まれるのか知らないけど!
しかし。
マカリオも二人の従者も何一つ気付く事なく、ただ私とすれ違って行った。
マカリオの馬だけが、ちらりと私を見ただけだった。
マリーとは一体何なのだろう。