イサンドロ「あいつが……ビコも助けてくれたんだ」
この話は三人称で御願い致します。
十一月にしては日差しの強い日の真昼。
牡牛は古代の闘技場前の広場で引綱を振り払い、苛立った様子で辺りを見回していた。
広場には普段は衛兵の一人くらい居るのだが、今日はその姿が無い。通りの向こうからも駆けつけて来ない。皆、宮廷舞踏会の警備に駆り出されている。
「よし、よし、落ち着け……大丈夫」
牛をここまで連れてきた男達の一人で、牛の持ち主のイサンドロは、牛をなだめながら慎重に近づき、引綱を拾い上げる。
牛を育てるのはイサンドロの職業で、今までにもそうして来たし、これを最後にするつもりも無い。この牛は今日屠畜業者に引き渡され、食肉にされるのだ。
だが手塩にかけて育てて来た牛に対し、イサンドロは全くの無心ではいられなかった。その気持ちは、牛にも伝わってしまった。
――ブシュウルルル! ブファァッ!
恐ろしい不安に駆られた牡牛は大きな鼻息を吹き出し、走り出した。咄嗟の動きにイサンドロは倒れ、綱を離してしまう。
「うわあああっ!?」「牛が暴走したぞ!」「きゃあああっ!?」
たちまち広場に阿鼻叫喚が広がる。
昼時という事もあり、また祭りの前という事で、広場には普段より多くの人々が居た。
牛は古い闘技場の周りを走り出す。人々は逃げ惑い、牛の道を開ける。しかしその行く手にはちょうど、焼き菓子を売る屋台があった。その屋台は人垣に隠れていて、牛の目からは見えていなかった。
――ドガシャアアン!!
避けるのも止まるのも間に合わないまま、牛は頭から屋台に突っ込み、それをなぎ倒す。木で出来た骨組みが折れ、菓子が吹き飛び、台に掛けられていた布が引き裂かれる。
「おい、あれを……」「キャアアアアアアア!」
大人達が悲鳴を上げた。粉砕された屋台の中から立ち上がった牛の、片方の角に、小さな女の子の体がぶら下がっている……
不幸中の幸いな事に、女の子の体に傷は無かったが、牛の角がしっかりと、女の子の服の背中に潜り込んでしまっていたのだ。
その3歳くらいの女の子は、声も上げられずに居た。さすがに周りの男が近づき、女の子を助けようとしたが。
――ブルルルゥ!! ブファアア!!
包囲を狭められた牛はますます興奮し、前足で地面を蹴り始め、男達に突撃する。
「ぎゃあああっ!?」「アダン!!」
避けきれなかった男達の列に牛は突っ込み、アダンという名の中年の男はしたたかにその脇腹を、空いている方の角で打ちつけられた。
「あ……ああああ゛ああああ゛!」
女の子も火がついたように泣き出す。
牡牛はますます苛立ちを募らせ、ギョロギョロと辺りを見回す。角にぶら下げられた女の子も激しく揺さぶられるが、潜り込んだ角は外れない。
「誰か何とかしろ!」「助けて! 助けて!」「衛兵は何をしてるんだ!」
何とか女の子だけでも助け出そうと駆け寄る男達の中に、一際小柄な男が居た。その男は引綱を拾い上げながら、牛の背中に飛び乗ってしまった。
「危ないぞ!」「その綱をこっちへ……!」
小柄な男は牛の背を渡り、角にぶら下げられた女の子を持ち上げようとする。しかし、異変を感じた牛が首を振り回す。
男は牛の背中から振り落とされ、石畳を転がるが、何とか立ち上がる。
「大丈夫か!?」
「角が曲がってて外れないんだ!」
駆け寄って来た男達に、小柄な男はそう言って再び牡牛に向かって走る。
「そいつに道を開けろ!」
誰かが叫ぶ。小柄な男は他の男達の間をすり抜け、鍔に赤い水晶飾りのあるレイピアを抜きながら、再び牛の背中に飛び乗る。
――ブルルル! ブシャアア!
牡牛は怒りを露にして暴れだす。
小柄な男は帽子を被り、アイマスクをつけていた。男は牡牛の背中で奇跡的にバランスを保ちながら、振り回されて悲鳴も上げられない女の子を左手に抱き寄せ、服の背中に上からレイピアを差し込む。
「ごめん!」
小柄なアイマスクの男は子供の服の背中部分を剣で押し切り、どうにか女の子を牛の角から引き剥がした。
牛が一際高く跳ねた。
「くっ……!」
アイマスクの男は女の子をしっかり懐に抱きかかえたまま、背中から別の屋台に叩きつけられ、石畳に落ちた。
「あああ……アアアア゛!」
女の子がようやく泣き声を上げる。アイマスクの男は女の子を抱えたままどうにか立ち上がる。
「アドリアナ!」
そこへようやく、アドリアナ……この小さな女の子の母親が駆けつけて来た。
「この子、怪我は無いか!?」マスクの男。
「お前は怪我は無いのかよ……」近くの男。
「アドリアナ……怪我は無いのね!? アドリアナ……」
「わあああ゛ああああ゛!」ようやく、母の手に抱かれた女の子。
「くそっ!! 悪魔め!」
牡牛は男達に囲まれていた。
牛を大人しくさせる事を諦めた男達は、その辺りにあった棒や調理用の刃物、果ては薪割りの斧まで持ち出して、牛を仕留めようとするが。
「ぐわああっ!」
「前から近づくな! 後ろに回れ!」
「くそっ、怪我人が増えるばかりだ!」
「肩甲骨だ! 肩甲骨のコブに槍を打て!」
あるいは攻めあぐね、あるいは突き飛ばされ、思うようには行かない。
そこへアイマスクの男も戻って来た。男は自分の屋台を守ろうと気丈に踏み止まる若い女性に声を掛ける。
「女性と子供は離れて! そこの君も! 闘技場の客席に避難しろ!」
「私の店なの! これが無いと生きられないの!」
そこへ、シャツを血まみれにした大柄な男が跳ね飛ばされて来る。
「きゃあああ!?」「ぐっ……ぐふッ……」
振り向けば牡牛は目を怒らせ、真っ直ぐこちらを向いていた。そして前足で地面を掻きこむ仕草をし出す。
牡牛の背中には一本の槍が突き立ったままになっていた。かなり出血もしていて、石畳が赤く染まっている。
一方、武器を持って牡牛を追い掛けていた男達も、皆負傷するか怖気づくかして、牡牛の周りには誰も居なくなっていた。
アイマスクの男は倒れた男を起こそうとしたが、かなりの巨漢ですぐには起こせそうもない上、怪我の程度が解らないので無理に動かすのも危険なようだった。
「やめて……来ないで!」
男を守ろうというのか、その後ろの屋台を守ろうと言うのか、若い女は勇気を振り絞り、手を広げて立ちはだかる。
「ああ……もう! こっちだ! こっちを見ろ!」
アイマスク男は女の屋台から、売り物と思われる赤い毛織の布を掴み取り、女のさらに前に出て、牡牛の注意を引きつける為、その布を旗のように振り回す。
牡牛は鼻息を荒らげながら、振り回される布を睨みつける。アイマスク男は慎重に横に動き、牛の向きを屋台や倒れた男から遠ざける。
――ブルルルルゥアアア!
次の瞬間、牡牛は角を真っ直ぐにアイマスク男に向け突進する。
男は布を目の前に構えつつ、自分の体を布の後ろから避ける。
牡牛は布の向こうに居るはずの男めがけ、疑う事無く突進したが……目の前でどけられた布の向こうには、アイマスク男は居なかった。
周りで逃げ惑う人々の間から、小さなどよめきが起こる。
「早く! 怪我人を避難させろ! 女性と子供は高い所に連れてけ、早く!」
アイマスク男は周囲に叫ぶ。
「皆、あいつの言う通りにしろ!」
「お、おう!」「怪我人を運べ!」
周りの男達は協力して、避難が遅れている人々を誘導する。
「お嬢ちゃんも来い!」
「待って、私の店なのよ!」
「命あっての物種だよ!」
「店を無くしたら私も家族も生きられないわ!」
「あの男に任せるんだ!」
アイマスク男は布を振り牡牛の注意を引き続けていたが、周りの様子に気づいて叫ぼうとする。
「ちょっと待て、違う、男共は牛を倒すのを手伝えよ!」
「来たぞー覆面男!!」
別の男の叫び声に上書きされ、アイマスクの男の声は誰にも聞こえなかった。牡牛はその瞬間に真っ直ぐアイマスク男目掛けて突進していた。
アイマスクの男はまた牡牛の突撃を布を使った目くらましで交わし、今度はそのまま牡牛を斜め後ろから追い掛けながら、布で目隠しをして誘導し、闘技場跡の外壁へとぶつけさせる。
牡牛は頭から頑丈な石垣に激突し、苦しげに呻くが、再び立ち上がるとまた、少し離れて様子を見ていたアイマスクの男の方へ向きなおる。
辺りのどよめきが大きくなって来た。
「い、いいぞー! 小僧!」「早く殺っちまえ! 俺の友達も怪我をした!」
「背中だ! 背中が急所だぞ!」「皆下がれ! あいつに任せるんだ!」
アイマスクの男は呟いた。
「もういい、もう立つな、頼むから立たないでくれ」
再び牡牛は突進する。アイマスクの男は今度は布のトリックも使わずにそれを交わす。
牡牛はかすかによろめきながら振り返り、向き直る。牡牛の目がぼんやりとアイマスクの男を捉える。
正午過ぎとはいえ、晩秋の太陽が作る影はそれなりに長い影を、くっきりと石畳に落としている。
遠い昔の記憶。敷き詰められた藁の上に、産まれ落ちた時の光景が、牡牛の脳裏に蘇る。
今、目の前には何度倒そうとしても倒れない男が居る。
突進して跳ね飛ばそうとしても、この角を突き立てようとしても、目の前から消えてしまう男。そうかと思えば、何度でも目の前に現れる男。
次第に失われて行く怒りと昂ぶり、そして増大する恐怖。傷ついた背中が痛み、流れた血で足元が滑る。意識が遠ざかる……
だめだ。戦わなくてはいけない。明日を、いや数時間後、数分後を生きる為に。
――ブルルゥ! ブアッ! ブン!
残された力と勇気を振り絞り、牡牛は突進する。
アイマスクの男は再び布を振りかざし、突進を交わしながら牡牛の向きを変え、再び、闘技場の石垣へと導く。
牡牛は今度は、石垣にぶつかる前によろめき、肩口から転がるようにぶつかった。
――ブルファア……ブハッ……ブルッ……
牡牛は苦しげに呻きながら、何とか立ち上がろうとする。しかし足は滑り、意識は朦朧とし、痛みは激しく……なかなか立ち上がる事が出来ない。
「もう立つな……立つな」
アイマスクの男は呟く。牡牛はその顔を見上げる。
牡牛の背中にはたくさんの傷があった。他の男達が槍や包丁、斧でもってつけた傷だ。この牡牛が助かる事はもう無いだろう。
周囲のどよめきははっきりとした歓声と罵声に変化していた。
「いいぞー! そのまま倒せ!」「早く殺せー!!」
「正面から背中を刺すんだ!」「やっちまえー! 覆面男!」
今や牡牛は立っているのもやっとという有様だった。それでも牡牛は自らの生命と尊厳に掛け、諦め蹲る事なく、アイマスクの男に向けぴたりと角を向けていた。
しかし、突撃を繰り返して疲弊し、失血に力を奪われた体では、二度も痛打した頭をどうしても上げる事が出来ない。
アイマスクの男は、一度は納めていた剣を再び抜き、牡牛に向けて構えた。
それに応じるかのように、牡牛は本当の最後の突進を始めた。
よろめきながら迫る牡牛を避けようともせず、男はその首筋へと正面から剣を突き立てた。
まるで男と牡牛が呼吸を合わせたかのように。堅い筋肉を持つ牡牛の背中に、その細身の剣は、滑るように突き刺さる。
牡牛は目を見開いたまま、後ろ足からゆっくりと、その場に座り込む。そしてただその場に寝そべるかのように、前足を折りたたむ。
苦悶の叫びを上げる事もなく、静かに。牡牛は、眠りについた。
短い静寂が訪れる。
次の瞬間、広場は歓声で爆発した。
「やった!」「あいつ、仕留めたぞ!」
拍手と歓声が広場にこだまする。アイマスクの男を祝福する為、なおも牡牛を棒で打ち据える為、歓喜の叫び声を上げ、男達が殺到する。しかし。
「待て! やめるんだ!」
アイマスクの男は、短く低く、震えたような声で叫んだ。
勝者の一声で、たちまちにその場は静寂を取り戻した。
「その牛はもう眠っている。打ち据える必要はない。それから……この牛の飼い主は誰だ!」
周りの男達が色めきだつ。そうだ。一体どこの誰がこんな恐ろしい牡牛を連れて来たのか。皆が辺りを見回す。罵声を上げる者も居る。
「お、俺だ……俺は……イサンドロ……こいつは俺の牛だった……」
群集のなかから、一人の、酷く青ざめた男が現れた。イサンドロと一緒に牛を連れていた四人の男も、イサンドロに続いて気まずそうに現れる。
「お前の牛か!」「どうしてくれるんだ!」「何故引綱から手を離した!」
「す、すまない! 抑えようとしたんだが、その……」
「待ってくれ!」
怒りに燃えイサンドロをなじる群衆の声を、青ざめたイサンドロの謝罪の声を、またしても掻き消したのは、アイマスクの男だった。
「僕は……フレデリク。この牛の名前を教えて欲しい」
アイマスクの男……フレデリクは、震える声でそう言った。周囲の男達は、この勇者は激しい戦いの後でまだ興奮を抑えられないのだと思った。
「牛は……牛だ、ただの家畜に、名前なんて……」
「君は、どう呼んでいたんだ」
「仔牛の頃は……ビコ、トラビエッソ、やんちゃのビコと呼んでいた」
「やんちゃのビコ……最後まで勇敢で誇り高い奴だった」
フレデリクは牡牛……ビコに突き刺さったレイピアを引き抜くと、その刀身をハンカチで拭い、鞘に収め……帽子を取って胸に当て、ビコに短い祈りを捧げた。
「すまないが、道を開けてくれ」
フレデリクは帽子を深く被り直し、彼を祝福する為に集まっていた群衆に向かって呟くように言った。
ただならぬ気配に圧され、群衆はフレデリクの為に道を開く。
フレデリクは勝ち誇る事も、イサンドロをなじる事もせず、ただそのまま、少し背中を丸めて、立ち去って行った。
一か月後の話。
古代の闘技場跡には、近所の住人や露店商が出し合った金で扉がつけられていた。
以前のように勝手には出入り出来なくなった闘技場の中では、興行の実験が行われていた。
「うおおお!」「皆、ちゃんとやれ!」「いててて!」「うわああ!」
一頭の牡牛を男達が取り囲み、追い回したり、槍を突き立てたりする。牛は近くの市場で肉にする為に連れて来られた、三歳の牡牛だった。
最初は十人だった男達は、怖気づいた者や怪我をした者を除き六人にまで減っていた。
男達はそれでもどうにか、牛の体力を減らし、とどめを刺す事に成功する。
「やった……やったぞ! どうだああ! 俺がやった! あははは」
牡牛に最後のとどめを刺した男が、拳を突き上げ勝ち誇るが。
「違う! 違うんだよこうじゃない、あの男、覆面男がやったのと違うんだよ!」
客席の高い所で見ていた、身なりのいい若い男が、憤懣やる方無しといった体で頭を掻き毟りながら叫ぶ。
「な、何が違うって言うんだよ!」
「覆面男は一人で戦ったし、牛を倒して勝ち誇ったりしなかったんだよ! ただ牛の名前を聞いて、牛を称賛して立ち去ったんだ!」
「待てよ、俺達にもそうしろってのか!? 見ろよこの様、みんな怪我をした! だいたい飛び道具は禁止とか条件がキツいんだよ!」
「はあ!? 覆面男は剣と機智だけで戦ったんだぞ!」
「じゃあそこから降りてやってみせろこの野郎!」
「何だと!」
その後、闘士と猛牛がお互いの命を賭けて渡り合う「闘牛」は、改良を繰り返しながらコルジアの国技と言われるまでの発展を遂げたという。