ウラド「進路はこのままでいいのか?」不精ひげ「船長が何も言わないんだから、いいんじゃないか?」
ヤシュムでまたイマード首長に捕まったマリー。
印籠というのは携帯用の印鑑入れみたいなものだよ。大切な物なので人に見せびらかす種類の物ではないよ。
「船長、やっぱり調子悪いんじゃないか? ヤシュムで休んだんだよな?」不精ひげ。
「おかげで元気一杯ッスよ……大丈夫ッス……」
ヤシュムで一泊したフォルコン号は、再びロングストーンを目指して出航していた。風は北から。勿論順風とは言えない。それで不精ひげがまた文句を言うけど知らないよ本当に。
そして元気一杯といいつつ、水夫マリーの服で過ごす私は外洋の白波に煽られ、舷側の手摺りにぶら下がり青ざめていた。
「ひ゛ゃっ☆△×●○! □▲ぐえええ○◎××★△●×~」
「だからその格好で船酔いはおかしいから……どうしたのよ、前は他の服にも船酔い知らずの魔法掛けてくれって言ってたのに」アイリ。
「うえ゛ぇぇ」
この状態でそれを言われると決意が揺らぐ……だけどあれ、着慣れちゃうと危ないよ、たまに自分がヒーローになったような気分になる時あるし。
「い゛いんです。私これでも゛だいぶ強くなったん゛です」
「確かに。最初は港の中でもだめだったよね」
通りすがりのアレクもそう言ってくれる。航海日誌によれば、私が船長になってから今日で137日。これでも私、成長してるんです。
追い風の時は、多少風向きが変わってもそのまま流す事もある。だけど風上に切れ上がる時は風に合わせて進路や帆の角度を変えないといけない。
それが、例え夜でも。
「また少し風が回ったな、ウラド、舵頼むわ、太っちょ、タックを」不精ひげ。
「へーい゛」私。
「船長はいいって! 今日は夜直じゃないだろ」
「大゛丈夫っス、元気、余ってるん゛で……操帆なんて訳ないっス……」
「僕がやるから! 船長は部屋で休んで!」太っちょ。
「それじゃ私休んでばっかに゛なっちゃうよ! 大丈夫っス、そこのテークルを……」
「アイリさん! 御願い、船長を連れてって!」
「はいはい……」
非番のアイリさんが起きて来て、私は艦長室に放り込まれた。
「何を根詰めてるのよ……どうしたの。最近のマリーちゃんは落ち着きが無いみたい」
「落ち着きが無いのは元々の性分っスよ……」
「何か違うのよね……ねえ。貴女、お姉さんに隠している事があるんじゃない?」
たくさんあります。
「リトルマリー号から一緒の皆は遠慮して聞かないみたいだけど。いつかのアルバトロスさんって、貴女のお父さんじゃなかったのね?」
今それを聞きますか……船酔いで最初から青ざめている時で良かった。
「図星かしら……ごめんなさい。本当にお父さんに会いたいのね、マリーちゃんは。親孝行なのね……」
やめて下さい。父を慕う哀れな娘を見るような目で私を見ないで下さい。
私はただ、アイリさんの視線を避けて目を伏せる。
「私なんてねぇ、自分から家出しちゃったのよ。この話、した事無かったかしら。白金魔法商会に流れつくよりずっと前……」
ぎゃあああああああ!? お許し下さい、お許し下さい!
私は必死でアイリさんの方に顔を向けて居たが……本当は布団を被って耳を塞ぐか、もしくは土下座して洗いざらい白状してしまいたいとも思った。
「元々うちは父が厳しくて、親子仲はそこまで良くは無かったんだけど。私、ある時ちょっとした事件を起こしてね……恥ずかしくて表にも出られないような事になっちゃったのよ。仕方ないから毎日家の中に居るんだけど、その間ずーっと親子喧嘩してるわけ。それで思ったの。これは私が町から出て行った方が早いなって」
お姉さんは苦笑いしながらそう話す。私は茨の鞭で打たれているかのような気分でそれを聞く。
「親不孝と言われるかもしれないけど。向こうだって毎日家で娘と喧嘩するの、嫌だったと思うのよ。マリーちゃんはお父さんと喧嘩する事なんてあった?」
実の娘に土下座をする父を銃で撃ちたいと思った事や、実の娘程の歳の女に声を掛ける父に噛み付いて引っ掻いてやりたいと思った事はあるけれど、本気で喧嘩した事は……
「無い……です……ほとんど家に゛居ない父だったから゛……」
「ふふ。お父さんが大好きだからでしょ。きっと素敵な人なのね。羨ましいわ」
やめて下さい、神様……アイリ様……貴女の御父様は立派な方なのだと思います、貴女こそ一刻も早く御父様に会いに行かれるべきなのではないですか……だけどそんな事は言えない……私は貴女から家族の幸せを奪った、憎い仇の娘です……
「さあ! 今日はもう寝なさい! 貴女のお父さんも、きっとどこかで貴女の事を心配しているわ。私にも手伝える事があったら何でも言ってね!」
アイリさんはそう言って艦長室を出て行った。アイリさんが私を元気付けようと思って言ってくれたのは解っている。解っているけれど。
私はとどめを刺されて息絶えた山の猪のように、ベッドに横たわり涙していた。
16歳になったら船を降りる? 自分一人、故郷へ帰って幸せに暮らす? そんな事、本当に出来るのか……人として……
ロングストーンへ向かう航海は都合七度目となる。ヤシュムから向かうのは四度目。今回は終始北寄りの風を間切って進む事になったので、三晩かかってしまった。やっぱり、私が風を操っているだなど迷信である。
とにかく、私が船長になってから140日目の夜明け前、ロングストーンは見えて来たのだが……
――ドドーン……ドン、ドン、ドドン……
東の空が白む頃に遠くから聞こえて来たのは、間違いなく砲声だった。大小の砲声が立て続けに鳴る……これは船同士が大砲を撃ち合っている音だ。
「ひゃー……おっかないや」
近くに居たアレクが呟く。砲戦が起きているのは恐らく10kmは先の洋上で、こちらに影響はあるまいが……割と近くで巻き込まれた商船も居るんじゃないだろうか?ここは内海と泰西洋を分ける出入り口だ。
水夫マリーの私はシュラウドを登り見張り台へと急ぐ。船酔いは酷いし足元は揺れる。
「だから! 船酔い知らず以外で登るのやめなさい!」
「大丈夫、私、熟練の水夫ッスから……望遠鏡、貸して下さい」
私は見張り台に居たアイリから、夜でも少し見える海軍の備品の方の望遠鏡を受け取って眺める……手が震えて気持ち悪くて足元がよろけて何も見えない……いや。あの帆影は私でも見覚えがある。
「あれは……!」
私はその名前を口にしかけて留まる。私はあの船を知っている。乗った事もある。あの船の艦長室で土下座をした事もある。
だけどフォルコン号の乗組員はその事を知らない。皆にとっては、あの船は以前フェザント沖でフォルコン号を追い越して行った船というだけだ。
砲戦をしている片方の船は。間違いない。海賊ファウストの重フリゲート艦、サイクロプス号だ。
今夜は上弦の月だった。月は夜半に姿を消し、朝には霧の出やすいロングストーンの海峡は、大海賊がこっそり通過するにはうってつけの状況だったのだろう。
だが、そんな状況だからこそ待ち構えていたハンターが居たのか……
――ドドン、ドン、ドン、ドドーン……
私は甲板を見る……ロイ爺は非番だけど、不精ひげもウラドも居る……余計な事は言わず、彼等に任せよう。
「何も言わなくていいの?」
「私より不精ひげが判断すればいいんですよ。私が思うにあの男、元軍人ですよ。こういう時はいつも不精ひげが判断してくれたらいいのに」
アイリは少し、腕組みをして考えていたが。
「ねえ、マリーちゃんってどうして、不精ひげの事不精ひげって呼ぶの?」
「ニックは偽名ですもん」
「あの人別にニックは偽名だなんて言ってないわよね……何でそう解るの?」
「あいつだけ自己紹介が無いんですよ! 初めて会った時からずーっと。自分はニックですって言った事も無いんだよ。本当は自分の名前じゃないんでしょ」
「それでマリーちゃん、何かあの人にだけ厳しいのね」
「いや、それは別に……あいつは人の服を見て大笑いするような奴だし、こっちも紳士のウラドや優しい太っちょとは区別してるだけですよ」
さて、船酔いは相変わらずしている。しているが、お腹も空いてきた。私は先程起きたばかりだった。
「ねえアイリさん、私お腹空いたー」
「モロコシ粥ならすぐあるわよ?」
「えー。お粥飽きたー。たまにはパンが食べたい」
「だって貴女船酔い知らず着ないじゃない……消化にいいものじゃないとすぐ吐いちゃうし」
「じゃあキャプテンマリー着て来るから、パンとスープと……お肉! 何かお肉の朝ごはん作って下さい!」
「朝から……? 若いわねぇ……若いわぁ……」
――ドドドーン。ドンドン。ドドーン……
遠くではまだ砲声がする。だけど私の心はもうアイリさんが作ってくれる美味しい朝食にあった。艦長室に戻ってキャプテンマリーに着替えよう。アイリさん、挽肉ステーキを作ってくれないかしら。