ロヴネル「……聡明な女性だ。それに航海者だと……少々気になる」
ロングストーンに戻ったマリーは、ストーク海軍もフレデリクを探しているという事を知らされる。
私は一度船に戻り、商会長の服に着替える。本当はサフィーラで買ったジュストコールを着てみたかったけど、この町であれはちょっと浮くよなあ。
それからロイ爺をお供に、少し情報集めに出掛ける。
「ここは中立港で、基本的にはどこの船でも寄航出来るんじゃが、軍艦は滞在出来る時間が決まっておるんじゃ」
それでストークの軍艦も一昨日やって来たものの、昨日には出航しなければならなかったらしい。
ロイ爺が水運組合で少々規定外のお金を払って聞き出してくれた所によると、ストークの軍人さん達はここでフォルコン号の寄航先を聞いていったという。
一方軍艦は商船のように水運組合に行き先を告げたりしないので、どこへ行ったという確証は無いが、噂ではやはりフォルコン号を追い掛けてサフィーラの方へ行ったらしい。
私達はサフィーラからここに戻って来たので、どこかで行き違いになったのかもしれない。あの嵐が来た辺りかしら。
「オランジュ少尉達も、昨日の朝やって来たポンドスケーター号に戻って、昨日のうちに出港したようじゃの」
それで。私がストークの人に一体何をしたというんですかね。
或いは私ではなく、フレデリク君がやったというのか。それならフレデリク君に聞いて下さい、私はマリーなので何も知りません……そういう訳にも行かないか。
「何だかなあ。別に悪い事してる意識は無いんですけど」
フレデリクがした事でストークに迷惑がかかるような事……別に無いと思うんだけど……もしかして白金魔法商会の件? そういえばあの件でもう一度はパルキアに行かなきゃならないんだった、えーと、えーと……混乱して来た……
「船長、ほれ、ここが本屋じゃ」
私はロイ爺の言葉で我に返る。本当はサフィーラで行きたかったんだけど、まあ、ロングストーンにも本屋はあるじゃないですか。
ロイ爺に教えて貰わなければ絶対気が付かなかったような、小さな看板を下げた本屋は、中に入っても、少し本棚の多い宿屋の居間というような雰囲気だった。
壁沿いに棚があり本が並んでいて、部屋の真ん中には椅子や机が色々並べられている。机の上にも無造作に本が積まれているが、これも全部売り物だろうか。
アイビスの本屋とはちょっと違うな……私の故郷、ヴィタリスは田舎村なので本屋なんか無かったが、隣のオクタヴィアンさんの工場がある町は田舎町のくせに本屋があった。私が本の虫になったのはあの本屋のおかげだ。
さて、航海術の本は……探すのが面倒だ、聞いてしまえ……店の主人はどこだろう。そこに、机に積まれた本を数冊、棚に戻している人が居るが……
「あの、すみません、この店に航海術の本はありますか?」
私はその、肩くらいまでの銀髪を一束に編み込んだ、背の高いお兄さんに訪ねた。
お兄さんが振り向く……いかにも本屋さんを営まれていそうな、色白で知的な印象の人だが……よく見ると肩幅は広いし動作も機敏、そう、まるで軍人さんのような……いやこの人絶対店の人じゃないでしょ! ぎゃあああやってしまったあ!
「航海術や測量に関する本なら、その柱の陰の棚の一番上にある」
あれ? やっぱり店の人なの? 私てっきり、お客さんに聞いてしまったのかと……私がその棚の前に行くとお兄さんもついて来てくれる。
「品揃えはこれだけだが」
うっ……ロングストーンでは航海術の本を買う人は余り居ないのだろうか。そうだよね……この町は航海術を知ってる人が来る町だもの……航海術の本は、私がどんなに手を伸ばしても届きそうに無い高い所に、数冊あるだけだった。
なになに……「航海術教則全集」「白波に聞け!」「熱血青春舵取物語」「航海者の為の面積速度一定則」「はじめてのこうかい」……。
……背表紙を眺める私を、お兄さんが見ている。
ああ。取ってくれるつもりなのですね。私の手が届きそうにないから。
私に、どの本に興味があるのか言えと、そうおっしゃる。
決まってるじゃありませんか。私は素人船長ですよ? その子供向けみたいな航海術の本が欲しいに決まってるじゃありませんか。
「あの、航海者の為の面積速度一定則を取っていただけませんか?」
ぎゃあああああああ! こんなとこで見栄張ってどうすんだ私! ああああ……お兄さんが……私にはタイトルの意味すら解らない本を取ってくれた……
「助かります」
私が会釈すると、お兄さんはそのまま別の棚に向かう。
……。
やっぱりこの人店の人じゃないじゃん!? 店の人はあのカウンターテーブルの向こうで本を読んでるおじさんで、このお兄さんは……お客でしょ……
何が恥ずかしいって、このお兄さん、私が赤面するのまで予想して、こっちに背を向けてる! 気づかないフリしてる!
どうするの……この本を買ってとっとと退散しようか……でもこんな本買ったって読めないし、私に必要なのはあの「はじめてのこうかい」だよ絶対……
私はカウンターに向かっていた。
「あの、これ、いただきたいんですが」
やめろ……やめろマリー! お金の無駄だ! つまらん見栄張るな!
「航海者の為の面積速度一定則、そして楕円軌道と調和……難しい本を読むんだねお嬢さん……著者はファウスト・フラビオ・イノセンツィ……稀覯本の類いだよ、これは。大事にするんだよ」
しかもこれニコニコめがね爆弾おじさんの本かい!!
それでこの本いくら……金貨17枚!? 私の針仕事の給料何か月分!? ああああ……なんてことだ……なんてことだ……
支払を終えた私は、私の物になってしまった奇書を小脇に挟み、先程のお兄さんの所に行く。
「御親切に、ありがとうございました……」
お陰様で無意味に見栄を張って、読めもしない本を高値で買えました……
「……お若く見えますが、難解な本を読まれるのですね。私には表題の意味すら解りません」
私も解んないよ! いや……この素朴で実務的な物の言い方、軍人っぽいのに私より色白な肌、これは内海の人ではない、もっと北へ遠く……例えば……
「貴方はストークの方……ですか?」
私はおもわず呟いていた。
「む……お察しの通り。これでも精一杯、レイヴンやアイビスの人と同じように振る舞っているつもりなのですが」
この人がストークの軍人さんだとして。この人は何故軍服ではなく素朴な風合いのチュニックに長ズボンという姿で本屋に居て、本を物色しつつ自主的に棚を整頓しているのだろうか。
「この辺りで綺麗な銀髪は珍しいですよ、それだけです」
私の知り合いの範囲では、先日会ったばかりのヒューゴ艦長も銀髪だけど、あの人もどうも北洋の民族の血が濃いような気がする。家名も何となく北洋系な気がするし。
私はもう一度会釈をして、店を出る。
この本屋、店に入る前は中の様子が全く見えないのが不安だったけど、こうなると店の中から外が見えないのが助かる。
私は外で待っていたロイ爺の元に駆け寄り、小声で話す。
「まだ居るよ! ストークの軍人さん!」
「なんじゃと? しかしストーク海軍の船はもう居ないはずじゃが……」
「民間船に偽装して残ってるんですよ! 今中に居た人、普通の庶民のふりしてたけど絶対海軍の人、それも艦長とかだと思いますよ!」
ロイ爺の教えである。海軍には近づくな! それが母国の海軍だろうと、他国の海軍だろうと。
軍人さんは王様とか国とか名誉とか、私の知らない厄介な物を抱えて生活している。軍人さん自身には悪気はなくても、軍人さんが抱えている命令は、私達に何をしようとするか解らない。
もし私がフレデリクでーす、とかあの人に言ったらどうなるだろうか? 有無を言わせず樽に詰められてストーク王国に急送されたりするのだろうか?