エルゲラ「オランジュ君? それは?」オランジュ「ああ、バナナって言うんだって」
賄賂さん、ありがとうございました。
海軍事務所のロビーにはお供を御願いしたロイ爺と、勝手について来たアイリが待っていた。
「もう済んだの? ヒューゴ様は一緒じゃなかったの?」
「大人同士はまだ話があるみたいですよ。私達はもう行かないと、どんどん時間が過ぎてしまいます。早く商売に戻りましょう」
そこへ、別の事務方の軍人さんが駆けて来る。
「パスファインダー艦長、お待ち下さい、これから拿捕賞金の清算がございますので」
「フォルコン号の分は全部、ヒューゴ艦長にお渡しして下さい」
「しかし、そう簡単には……」
「そのボードとペンをお借り出来ますか? 一筆書かせていただきます……あの方には以前からお借りしている分があるんです……どうかこれで御願い致します」
私は海軍事務所を出る。ロイ爺とアイリもついて来る。
サフィーラ港は多くの船で混み合っているが、海軍は出入りがしやすい専用の埠頭や桟橋を持っている。今回はフォルコン号も、そんな桟橋の一つに堂々と横付けされていた。
「せっかくお洒落して来たのに」
アイリさんは少し萎れている。すみません。でもお姉さん、あの人もあれでラーク船長や私と同じ船乗りなんですよ。お嬢さん、船乗りだけはおやめなさい。
夕方のサフィーラを再び出航したフォルコン号は、河口を出て再び南に進路を取る。
だけど出航してから思い出したよ。私、サフィーラに来たら本屋に行ってみたかったんだった。
サフィーラは航海者の町、きっと色々な本があったはず。
本が好きでたくさんの本を読んで来た私だけど、船と航海に関する本はほとんど読んだ事が無いのよね。
私の船長としての教科書は、私に対するおべんちゃらが八割を占めている、この下らない父の航海日誌だけである。その日々の雑音の隙間隙間に辛うじて見える、父の航海哲学……曰く。
船長は好き勝手であれ。
思いつきで行動しろ。
普段は怠けていていい。
いざという時だけ役に立て。
お父さん。私は貴方の言葉を胸に刻み、立派な船長を目指します。
でもやっぱり、まともな航海術の本も欲しかったなあ。
サフィーラを出航したのがちょうど新月の夜。星を見るにはいい空なのだが、私は新月の夜にはトラウマがあり、あまり甲板に居たくなかったので、艦長室に篭って眠る。
扉はもちろん元通り戻してあったけれど、銃撃で開いた風穴がそのままなのよね。時折ヒューヒュー言ってる気がして薄ら寒い。
翌朝からは雨が降りだした。アレクが午前中に艦長室の壁を綺麗に修理してくれた。そして風が次第に募り、午後には時化の様相を帯びて来た……
昼間だというのに空が暗い。
風向きはいいんだけど、時折甲板を波が洗うような嵐というのは、今まで経験して無かったのではないだろうか。
船長になり立ての頃、リトルマリーで一度嵐にあったけど、あの時のより酷い。
「ポンプ! 予備のポンプどこ! 私がやるから!」
「船長、このくらいなら予備のは要らんぞ、船長室で休んで居たらいい」ロイ爺。
「こんなので落ち着ける訳が無いじゃない、大丈夫なのこの船!?」
「このくらいで沈むなら、リトルマリーは何十回沈んだか解らんのう。ホホ、ホ」
これでも私はキャプテンマリーの服を着ているので、揺れに対しては何も感じない。だけどこの小山のような波と、時折波除け板を超えて来る白波は普通に、普通に怖い怖い怖い!
――ザバーーン!!(笑)
「ひ゛ゃああ゛ぁああ゛あ!!」
「姉ちゃんって普段は一番剛毅なのになあ」
カイヴァーンは普通に帆を調整している。正午で当直を終えたアレクは、この嵐の中普通に船員室で寝てるのか。ウラドはポンプをついて船底に溜まった水を掻き出してはいるが、特に慌てている様子は無い。
アイリは!? アイリさんは……居ない。非番なの? だけどこんな嵐で非番とか関係無いでしょ! そうだ、アイリさんも士官室で震えているに違いない!
私はアイリさんの士官室、横に扉のついた二段重ねの棺桶のような上段の扉を叩こうとする。
「待て船長、アイリさんもさっき当直終えたばかりだから!」
たちまち不精ひげが飛んで来て、扉の前に立ち塞がる。
「アイリさんも怖がってるに決まってるよ! 私が行って勇気づけるんです!」
「やめろって! 船長濡れ鼠じゃないか、アイリさんも困るから!」
そこへもう一度カイヴァーンがやって来て言う。
「逆に艦首に行って、バウスプリッドの前にでも立ってたら?」
「正気かカイヴァーン……」不精ひげ。
「姉ちゃんの性格なら、それが正解だと思う」
カイヴァーンはそう言うけど、ここが一番白波が打ちつけて来るとこじゃないのぎゃあああああああ!
――ザッパァァァーン(笑)
艦首が白波をかきわけ、飛沫が壁のように目の前に広がる……
「わあ……びっくりした」
でもこうして艦首でまともに行く手を見つめていると、何だか自分が、能動的にこの海と戦っているような錯覚がして来るね。
「……風に乗れ! 波を切り裂けフォルコン号! キャプテンマリーは一歩も引かぬ、びゃあああああああ!」
変に高揚した私は意味も無く叫び、サーベルを抜いて振り回す。不精ひげとカイヴァーンが後ろで呆れて見ているが気にしない。
あとでアレクに聞くと、危なさで言えばリトルマリー号でオレンジを過積載して嵐にあった時の方が、今回の100倍危なかったとか。
そしてフォルコン号は北西に回った風に追い回され、翌日の朝にはロングストーンに辿り着いてしまった。
ロングストーン寄港は私が船長になってから6回目。最近は他にもパスファインダー商会の船がちょくちょく寄港するせいか、港内の割といい場所に誘導して貰えるようになった。
フォルコン号の隣には、少し手入れの悪いフリュート型貨物船が停泊している……と思ったら、甲板でパスファインダー商会のハリブ船長が昼寝をしてるじゃありませんか。ちょっと挨拶に伺おうかしら。
「ずいぶんヒマそうですわね。マリーちゃんがあげた仕事、足らなかったかしら(お元気そうで何よりです、御願いした業務に不足してる物は無いですか?)」
今朝も海が少し荒れていたので、私は船酔い知らずのお姫マリーを着ていた。
「ヒエエッ!? お、親分、何故ここに、すいません、こんな所まで御足労を」
私が貨物船の甲板に登ると、ハンモックで休んでいたハリブ船長が飛び起きる。あれ、びっくりさせちゃったかしら。
「マリーちゃん帆布買ってあげたわよね? 何で取り替えないの? 横流ししたの? (新しい帆布を手配したのですが、届きませんでしたか? 他の船に行ったのかしら?)」
「そっ、そのような事はねえです! 古い帆がまだ使えるので、大事にしまってあるんです!」
ハリブ船長は何故か直立不動で薄目を開けて話す……私のニスル語、やっぱりニュアンスがおかしいのかしら。何か誤解されているような気がする。
ちょうどそこへ。桟橋の方から跳ね上げブリッジを通り、おどおどした可愛い小さな女の子……クラリスちゃんが現れた。
「あの、ハリブ船長……あっ! 商会長さんも! お戻りになったんですね、ええと、お帰りなさい!」
「ありがとう、帰りは海が荒れて」
私はそこまで言い掛けて……言い直す。
「海が荒れて強い風が吹いたから、思ったより早く戻れましたよ」
私はアイビス語で言ったのだが、ハリブ船長も多少はアイビス語の心得があるらしい。
「さすが親分、あの程度の嵐、物ともしねぇ! 今日はそこら中で船が遅れたの壊れたの言ってますぜ」
言われてみれば、周りで槌音を響かせている船が普段より多いような。
さて……クラリスはハリブ船長に数枚の書類を渡すと、私の方に向き直る。
「あの、商会長さん……」
「マリーでいいですよ」
「じゃあ、コホン、では、マリーさん、マリーさんが居ない間の事なんですが……二日前に事務所に、大柄な海軍さんが二人来られまして。ストークから来たと」
ストークから。ストーク。ずーっと北の方にある王国の一つですね。
私はストーク人に知り合いも居ないし、多分ストーク人に会った事も無いですよ。クラリスちゃんは会ったのね。すごいなー。
「ええと、金髪に金の髭のライオンみたいな人がレンナルト・メシュヴィッツさん、黒髪で少し落ち着いた人がイェルド・オーケシュトレームさん」
「待って、ちょっと、待って」
レ……レノー? エルド? もう覚えられん……申し訳ないけど適当に聞こう。
「は、はいどうぞ、続けて下さい」
「その方々はフレデリク・ヨアキム・グランクヴィストという人を探しているそうです。詳しい御話は私では理解出来なかったんですが、その人が見つからないとストークの人はとても困るんだそうです」
クラリスちゃん、人の名前を一度で覚えるタイプの人なのかしら。フレデリク君の名前も一度で覚えたのか……乙女小説で読んだ訳ではなさそうだし。
いやいや、何で? レイヴンもだけど、ストーク海軍がフレデリクに何の用があるんですか? いや、きっとフレデリク違いだよ。