マリー「だから何でパンツ一丁なんですか……うわっ飛んだ!」
サフィーラ沖の洋上でつい最近見たキャラック船に出会うフォルコン号。
それは話に聞いていた囚人護送船だと思うんだけど、何か様子がおかしい。
三人称で参ります。
ゲスピノッサが水夫見習いとして、南大陸東岸を目指す冒険者達の船に志願し、サフィーラを離れたのは30年前の事だった。
当時は少年だったのは勿論だが、そのくくりの中でも彼の背は低く、その頃の呼び名には全て「チビ」がついていた。チビ見習い、チビ見張り、チビ測量手、チビ兵長。揶揄されながらも出世を重ねた彼に、チビの呼び名はついて回った。
「今、サフィーラには帰りたくなかったなぁ……」
船尾楼の上で、ゲスピノッサは部下達が近くに居ない事を確認した上で、そう呟いた。
この船はゲスピノッサとその手下共を、サフィーラで法の裁きに掛ける為、ダルフィーンから航海を始めた。
100人の囚人に対し、護送要員は30人だった。それ自体はマニュアルに沿ったものだった。
後はただ、たまたまゲスピノッサが背が低い割には非常に屈強だった事、同乗した士官候補生が不注意だった事、コルジア海軍の水夫の中に一人だけゲスピノッサの古い友人が混じっていた事など……ありきたりな偶然があっただけだ。
ダルフィーンからサフィーラへ航路を通らず直進していた船は二日前、ゲスピノッサとその配下に制圧されていた。
その後ゲスピノッサは数人の人質を残した上で、バルビエリ艦長他二十数名をボートに乗せて解放した。
船は航路よりかなり沖合いを航海していたから、ボートがコルジアのどこかに辿り着くのはかなり後になると踏んでいたのだが。
背後にアイビス海軍の船が見えたのは数時間前。あれはどうもこっちの事情を知っているような気がする。もしかするとボートはあの船に拾われたのかもしれない。
甲板の水夫達はふざけていた。船内にあった酒という酒を飲み尽くす気のようだ。
今の彼らはもう自分の手下ではないのだと、ゲスピノッサは思った。
たまたま、間抜けな軍人共を出し抜くチャンスに恵まれたので、仮の船長に立ててくれているだけだ。
この船にはもう水と食料は無い。あるのは酒と銃だけだ。
「お前ら、生き残りたいならもう少しちゃんと船を走らせた方がいいぞ……サフィーラの河口に入る前に捕まっちまうぜ」
ゲスピノッサは控え目に号令を掛ける。一応、何人かの水夫がだらだらと動き出す。
幸い追手のあれはアイビスの軍艦のようなので、河口を越えてサフィーラ港に突っ込んで来る事は出来ないだろう。
本来はゲスピノッサ達も人目の多いサフィーラ港には近づきたくなかった。どこか人気の無い海岸から上陸してばらばらに逃げようと思っていたのだ……あの追手がなければ。
サフィーラ港のある河口の奥には広い湿地帯がある。今はそこを目指している。
水夫達の動きは鈍い。まだ酒を飲んでる奴も大勢居る……それは海軍の罠だというのに、何故解らないのか。
ゲスピノッサは舷側の手摺りから少し身を乗り出し、後ろを見る……アイビスのフリゲート艦は次第に近づいては居るが……このままなら余裕を持って先にサフィーラに入れるだろう。
「ようゲスピノッサ! わかんねえもんだな、生き残るチャンスがあるとはよ! お前飲んでないのか? 今飲まねぇと次はいつ飲めるか解んねえぞ? ハハ!」
かつての部下が軽口を叩きながら横を通る。海軍の隙を突き船を乗っ取れたのは、ほぼゲスピノッサの武勇の成せる業だったのだが。部下共からすれば、そもそも捕まったのはゲスピノッサのせいなのだ。
30年前、チビと小馬鹿にされながら旅立った場所に今、小馬鹿にされながら帰って来た。ゲスピノッサは溜息をつく。
このチャンスにしろ、どこまで信じていいものか。縛り首への道が少し遠のいただけのような気もしなくはないのだ。
ゲスピノッサはふと、前から来る船に目を止める。右舷前方から、この船と普通にすれ違おうとして来る船……一本マストだがかなり軽快な船だ。帆の模様は天秤だ。見た目は商船のようだが……
何かを察知し、ゲスピノッサは舷側から離れ、何食わぬ顔でその船から顔を背ける。それから操舵輪の方へ近づいて行く。
さすがに操舵手は酔っ払ってはいなかった。
「おい、俺が変わってやろうか? お前も飲んで来たらどうだ」
ゲスピノッサがそう言うと、操舵手は意外そうな顔をして答えた。
「飲むのは安全だと解ってからですよ。親分。皆が皆あいつらみたいだとは思わないで下さい。あっしは今でも親分を尊敬しています」
思わぬ言葉に、ゲスピノッサも目頭を熱くする。熱くするが……同時に彼は思い出した。長年自分は、次に泣く時が自分の死ぬ時と思って生きて来た事を。
「ありがとよ兄弟。だが御願いだ、俺に舵輪を持たせてくれないか?」
ゲスピノッサは舵輪を握る。失った自信を取り返せるように。これから生き残りの為、ありとあらゆる技術と精神が必要になるのだ。
この辺りは太い航路なので、これまでも何度となく他の船とすれ違って来た。
だからその天秤の模様の帆をつけた船が右舷前方から平行するコースで接近していても、皆誰も気に留めていなかった。しかし。
その船……アイビスの商船、フォルコン号は、突然面舵を切って回頭を始めた。喫水の様子から見てもそれなりに荷物を積んでいるように見えるのだが、かなり急な回頭をしている。
さすがに、酔っ払い揃いの海賊達も何事かと色めく。
右舷前方で回頭を続けるフォルコン号。水夫の姿もまばらなごく普通の商船に見えるのに、何をするつもりなのか。
さりとて海賊側に出来る事も少ない……マスケット銃の準備をするくらいだ。船を乗っ取る時に海軍が処分しそびれたものが6丁だけある。
急旋回を終えたフォルコン号は、ほんの20m程の間隔を空けて、ピタリと併走していた。そして。無いように見えた武装があった。小さな大砲が1門きりだが、先程まで見えなかった左舷側に設置されていた。
――ドン。
――ガシャン。
フォルコン号は発砲した。弾は船尾側の喫水線近くに命中したらしい。
たちまちパニックになる船上。これが今まで乗っていたガレオン船だったなら、あんな小船の狼藉など許さない。片絃20門の大砲を浴びせてたちまち廃船にしてやるところだ。
しかしこのキャラックには大砲は積んでいない。
では接舷戦をするか? そうしたい。向こうの水夫はとても少なく見える。だけど時間がかかれば後ろから来るアイビス軍艦に追いつかれる。
海賊側の視線がゲスピノッサに集まる。
ゲスピノッサは舵を他の水夫に返し、大股で船尾楼の上に向かう。
「とにかく銃で反撃したらどうだ。船はこのままサフィーラに向けるしか無ェだろ。手の空いてる奴は下へ行って撃たれた所を補修して来い」
海賊達は今さら、ゲスピノッサの指示を仰ぎ、その通りにしようとする。もっと早くにそうしていれば、今頃サフィーラ港の中に逃げ切っていたのに。
――ドン
フォルコン号がまた撃って来る。小口径で軽量の大砲だが、その分連射が効くようだ。そしてこの距離では外しようが無い。
――バキッ……
それが喫水線近くの船体のどこかに当たって穴を開けている。やはりこの程度の小砲弾ではたいした穴は開くまいが、気持ち悪い事この上無い。
マリンベルを叩いて他の船の救援を仰ごうか? 狼藉をしているのは向こうだ。この船はただの「商船」なのに。
勿論だめだ。本当に救援が来たらそれはそれで困る。こちらの船の正体が知れたらサフィーラの警備艦隊が出て来る。
――ドン……
――ガシャッ……
「畜生! いつまで撃たせてるんだ!」
ゲスピノッサは叫ぶ。ようやく、海賊達は6丁のマスケット銃を持って来た。
「撃て! 撃ち返せ!」
しかし、何を撃てばいいのか。大砲は上甲板だが砲手は弾除けに隠れて見えない。
「見張り台からも撃て!」
ゲスピノッサの指示で、二人が銃を持ったままシュラウドを登る……しかし。
――タン……タン、タン、タン
乾いた発砲音が立て続けに響く。フォルコン号からも銃撃が来ているのだ。
「撃って来てるぞ!? どこからだ畜生!」
「どこに当たった? 誰にも当たってねぇ、敵はヘタクソだぞ!」
――タン、タン、タン、タン。
しかし発砲音は続き……
――ドサドサドサ!!
「うわああーっ!?」
何に当たったのか、メイントゲンスル……帆の一枚が、ヤードごと落ちて来る。
ゲスピノッサは見た。短銃を撃つ、自分より小柄な人物を。男姿をしているが、あれはあの日、大勢のガイコツ戦士を引き連れ入り江に現れた魔女ではないだろうか。それであの短銃もあんなに連射出来るのか。
「フヒッ……ヒヒヒッ……」
ゲスピノッサは目を覆い、俯いて笑う。
ああいう奴は理屈じゃないんだ。
そして自分が生き残る為の道はもはや残り少ない。その最低最悪の道だって、あと一時間もしたら、這いつくばって願っても選ばせて貰えない道になるだろう。
ゲスピノッサは服を脱ぎだす。近くに居た水夫が驚いて尋ねる。
「ど、どうしたんですか、お頭……」
「船乗りなんてもんは、いつでも好きな時に裸になって海に飛び込むもんだ……」
靴も脱ぎ、パンツ一丁になったゲスピノッサは右舷側の手摺りの上に立つ。
あの魔女が、ゲスピノッサを見た……が、すぐに目を逸らす。
「ケッ……やれるもんならやってみろ、ってか。やってやらあ」
ゲスピノッサはそう呟き、白波立つサフィーラ沖の泰西洋へと飛び込んだ。




