エドムンド「フレデリク卿が!? 本物なのか? 背が低くアイマスクをしていて……ロワンを連れている!? ……本物に間違いない」
猫「……」
カイヴァーン「おかえり。どうした?」
猫「……」
カイヴァーン「誰かが船を襲撃しようとしてた?」
猫「……」
カイヴァーン「姉ちゃんが止めたのか……解った。船は俺が警戒するから、休んで」
(猫の妄想)
サフィーラ港から緩やかな丘を登って行く道……その途中にはかつてのアンドリニア王国の王宮もあった。今はコルジア王国の離宮という扱いだそうだ。
ここは大きな通りで人通りも多い。街角には衛兵の姿もある。この辺りでならマカリオ達に襲撃される事は無いだろう。
ロワンはとりあえず機嫌は直したようだが、自信の無さそうな顔もしている。
「エドムンド様からは、出て行けと言われたきりなんだ……マカリオ様は以前、道で見掛けたロワンに、今はどうやって生活しているか尋ねてくれたんだ」
まだそんな事を言っているロワン。でも私も少し解るな。私だってお針子マリーとしては、どんなに意地悪を言われてもオクタヴィアンさんだけが頼りだもの。
立場の弱い者というのは、ちょっとでも優しくしてくれた人を、そう簡単に忘れる訳には行かないのだ。
なだらかな丘の上には大きな屋敷が多かった。周辺一帯が、貴族や富裕層の住まう屋敷街のようだ。景気がいい町だけあり、富裕の平民も多い気がする。
そしてそんな屋敷町の一角に、やはり白い壁とオレンジ色の屋根の大きな館……バルレラ男爵家の屋敷はあった。
「ここに来た目的は……やはり教えて貰えないのか?」
エステルが伏し目がちに聞いて来る。なんだか最初に出会った頃のエステルと随分雰囲気が変わったような……気のせいだろうか。
「目的って、ロワンがこの屋敷に帰りたいというから」
「本当にそれだけなのか?」
本当ですよ。それだけ。
まあ無理なんだろう。ロワンはこの屋敷には戻れないのだ。理由は既に聞いている。この屋敷では跡取り息子が無くなっている。そしてその子が落馬で死んだのはロワンのせいだと考えている人も居ると。
結局、ロワンが諦める事が肝心なのだ。だったら、もう一度、きっぱりと断られればいい。ただそれだけだ。
屋敷の正門を潜ると10m四方程の石畳のコートがある。庭園などは無い、都市型の屋敷だ。使用人などの姿は無いので、私は玄関の両開きの扉に手を掛ける。
「いいのかフレデリク、勝手に開けて」
「開いているようだぞ」
エステルもロワンも恐る恐るついて来る。だけどこういう屋敷は……ほら、呼び鈴は中にある。私は玄関ホールに入ってすぐの呼び鈴の紐を引く。
――ガラン、ガラン……
すると程なくして、廊下から屋敷の執政らしき壮年男性が現れる。
執政はやはり、ロワンの顔を見て驚いたようだった。
「ロワン、お前何故ここに……もう来てはならぬと言ったはずだ」
執政にそう言われ、ロワンは気まずそうに、身体を小さくして揉み手をしながら何か呟いているが……声が小さ過ぎて全く聞こえない。
「僕が連れて来た。フレデリク・ヨアキム・グランクヴィスト、ストークから来た。こちらはエステル・エンリケタ・グラシアン。サフィーラのグラシアン家当主だ」
今度はエステルが驚いた顔をする。あ……これも悪かったか……私なんか外国人な上に偽名だけど、エステルはこれからもサフィーラで生きて行くのだ、あまりバルレラ男爵家の意にそぐわない所で名前を出して欲しくなかったのかも……
でも言っちゃったんだから、このまま行くしかないや。
「エルムンド・バルレラ男爵にお取次ぎ願えないだろうか。ロワンが貴方の屋敷に帰りたがっていると」
私は敢えて要件を言伝に添えた。あとは執政がノーの返事を持って帰って来るのを待つだけだ。
「承知しました……こちらでお待ち下さい」
私達は玄関ホールの横の、窓の多い日当たりの良い部屋に案内された。執政は要件を伝える為に立ち去った。
エステルが気まずそうに言う。
「君の名前と対等に並べないでくれ、私なんて君の従者みたいなものじゃないか」
「冗談はよしてくれよ、君だけが頼りなのに」
私はそう言って笑ってみせて、エステルの肩を軽く叩く。
さて、ここは待合室だろうか。椅子と丸テーブルがあり、菓子皿が置いてある。
あれはカステラ……焼き砂糖がかかっていて何とも美味しそうだ。
私はさっそく丸テーブルの前に座り、カステラを一つ手に取る。柔らかい。甘いにおい……たまりませんな!
いただきまーす。もぐ……ひゃー! ふっくらしていい香り、生地は甘さ控えめだけど焼き砂糖の鋭い甘さが程よく交じり合って、こりゃあたまりませんよ!
「フレデリク……何だか君の方が道化師のようだ……」
ふと見ると、エステルが肩を落として苦笑いしている。ロワンは部屋の隅で小さくなっている。
「君も食べてみるべきだよ、このカステラ、黒い皮の部分と焼き砂糖の部分とで別々の甘さが楽しめるぞ、生地に練り込まれたはちみつもたまらない……もしかしてサフィーラではこれが普通なのか? ストークにはこんなのは無いよ」
「そして甘い物を食べる時は、別人になるんだな……君は」
エステルは苦笑いのまま、ただ私を見ていた。
私は少しだけ正気に戻る。またエステルを利用してしまった。さっきの所、ロワンと謎のストーク人だけなら追い払われてただろうな。グラシアン家と言われて、執政には聞き覚えがあって、だから取り次いで貰えたのだろう。
考えてみれば凄い家だ。騎士は普通一代限りの称号で世襲されない。世襲されないのに六代続けて騎士の家なんて。エステルが騎士になれば七代騎士だ。
うちなんか……私はお針子、父はごろつき、祖父は……噂では山師だったらしい。まあごろつきですね。概ねごろつき一家なのに。
さて……ロワンの件がこれで終わるとして、この後はどうしよう。
エステルをフォルコン号に乗せて、南大陸沿岸に海賊退治に行こうか。
だけどそんな手頃な零細海賊まだ居るかしら……うーん……
あ、誰か近づいて来るわね。足音が次第に……
とりあえず、立ち上がっておこうか。カステラどうしよう。一口で食べちゃえ。
「お待たせした。エドムンド・バルレラだ、フレデリク・ヨアキム・グランクヴィストがお越しと伺った! それが本当なら私は夢でも見ているのか」
足音高くやって来たのは……マカリオ!? ではなかった、とても似ているけど微妙に違う、いや、髭も髪型も服装も全部違うじゃないか……って御当主!? 何で出て来るの!?
と、とりあえず勿体ないけどカステラを飲み込んで……
「約束も無しに押し掛けて申し訳ありません。この道化師の事で御相談したい事があります」
「待って……」
部屋の隅でロワンが小さく呟いた。酷く震えている……緊張してるのかな。
気の毒だけど、ここは心を鬼にしないと。
「彼、ロワンは今も貴方の屋敷に戻れる日を夢見ていて、その為に他人に利用される事があるのです。その中で一つ看過出来ない事が起きました。昨日ロワンは、火薬入りコートを着せられて、ある船を襲撃するところだったのです」
エドムンドは眉を顰める。恐らくこれは、あまり興味の無い人物に関する、聞きたくない話なのだろう。私は別にこの話で彼を責める気は無いのだが。
「問題の根底にあるのはロワンの持つ希望。ロワンはいつも男爵屋敷に戻してやると言われて働かされるのです。貴方が彼を呼び戻す可能性があるのかどうか。それを貴方の口から今一度はっきりとロワンにお聞かせ願えませんか」
男爵は失望の色を露わにし、溜息をつき、目を伏せる。
「フレデリク卿がお越しと聞いて、私は大層胸を躍らせた……ブルマリン事件で卿があの陰謀を看破していなければ、我等アンドリニアの遺臣はアイビスのグラナダ侯爵という大きな味方を失っていたのだ。本当に、一度御会いしてみたいと願っていた」
ところでこの男爵、さっきから私の顔を直接見ないわね。そういう性格かしら……ん? エステルが何か指差してる……口? 口元?
私はふと近くの壁に掛かっていた小さな鏡を見た。ああっ!? カステラのかけらが三つくらいついてる!!
私は黙って、ハンカチで口元を拭う。
ブルマリン事件って何だっけ……アイリを連れ戻した時の騒ぎかしら。
「最近はハマームでより大きな事件に関わり、ヤナルダウ王家を致命的な陰謀から救ったと聞く……そんな卿が何故、一介の道化師の事をそこまで気に掛けているのか」
男爵はそう言って、ようやく私に目を向ける。すみません。
あとあの、考え過ぎですから……ロワンはもう雇えないよって言って下されば、それだけでいいんですから……
それからエステルも、そんな目を丸くして私を見ないで……確かにハマームの騒ぎにはちょっとだけ関わったけど、あれ主犯はジェラルドとファウストだよ。
「さて……卿は一つだけ伏せて話しておられるのだろう。ロワンに何かさせようとしたのはマカリオではないのか」
そこはちょっと、言いにくいんで……あの、とりあえずですね、ロワンに一言お願いします。
私が黙っていると、エステルが……私と男爵を見比べながら近づいて来て、遠慮がちに囁く。
「差し出がましいようだけど、フレデリク……起きた事をそのまま話すべきではないだろうか」
マカリオとレイヴン人コンビの事なら、そこはもういいもん……
ロワンの件はここまで来たら途中で投げ出したくない。
ロワンは腕のいい道化師なんだから、ロワン自身がバルレラ家を諦めさえすれば、後は何とかなるんじゃないの。せめてそこまでは面倒見たいと思うんですよ。
それが済んだら、今度こそエステルを手伝おう。海賊退治が都合よくあるか解らないけど、ともかくフォルコン号に乗って貰おう。
船酔いも大丈夫、お姫ドレス貸してあげるから。
それでサフィーラとはサヨナラ、ゲスピノッサとフォルコン号はもう本当に何の関係も無いもの。マカリオが何を恐れているのか知らないけど、フォルコン号が何もせず黙って出航すれば、それでいいんでしょ?
私がそんな事を考えていたら。何だか、私が二人に問い掛けられているのに沈黙しているみたいな格好になってしまった。
「グスッ……」
誰かが鼻を鳴らす……部屋の隅で……
「解ってるんだ……」
ロワンが……泣いている。暗い顔はごめんじゃなかったのか。
「フレデリクは言いたくないんだ。優しいマカリオ様は、ロワンを殺さないと気がすまないんだって。だけど。だから。ロワンはこのお屋敷に帰りたい。少しの間でも、エミリオ坊ちゃまが居たこのお屋敷の道化師でありたい。そして、マカリオ様に殺されたい」
(猫の実際)
猫「マーオ。アオゥ」
カイヴァーン「……」
猫「マーオ、マーオ!」
カイヴァーン「あれ……居たのかお前」
猫「マオゥ、マォゥ!」
カイヴァーン「何だよ。ああ、めしだな」




