エステル「なぜ帰らせてくれない……どうなっても知らないぞ」
衛兵「爆発物を持っていた男が居て、それを誰かが咎めて止めたと」
近所の勇気あるおじさん「背は低いがありゃ豪傑だな」
近くの酒場のお姉さん「フレディだっけ?お面をしてたけどいい男よ」
アイリ「フレデリクじゃないかしら……そいつなら良く知ってるわ……」
朝のサフィーラは静かだ……あれだけ夜が遅かったら朝はこうなるか。
ランプや篝火で夜明かしをして、朝日が出てもすぐには起きない。それは景気がいい故の贅沢なのだろうか。
私などには単に燃料が勿体無いように思えてならない。
エステルは私を近くの朝市へと案内してくれた。良かった、この町にも太陽と共に寝起きする人が居るには居るのか。
「勘定は僕が出すから、お勧めを教えてくれないか?」
「あの、私も家に帰れば金が無い訳じゃないんだ、ずっと君に出して貰う訳には」
「僕が君に助けて貰ってるのに、遠慮しないでくれよ」
今朝獲れて切ったばかりだという、とびきり大きな魚の切り身が、片っ端から茹でられてゆく。マグロという魚らしい。このあたりでは好まれる魚だそうだが、ひどく真っ赤な身で、いかにも生臭そうだなあ。
大きなマグロがどんどん切り分けられて行く……脂で白くなった身もある。切っただけで滴りそうな凄い脂ですね。さすがにそこは食べないようで、切り離しては古い桶の中に放り込んで行く。
周りには、うちのぶち君の他にも数匹の猫が居るが……猫もその脂身には見向きもしない。聞けば、その部分は肥料くらいにしかならないとか。
そんなマグロの切り身を軽く茹で、さらに炭火で炙って、スライスして麦粥に載せたものをいただく。味付けの濃厚な果実酢との相性がとてもよい。
ぶち君はいつの間にか、露店のおじさんから生の赤身の切れ端を貰って食べている。猫にも上手い猫とそうでない猫が居るよね。ぶち君は上手い。
そんなマグロを味わう私やサフィーラの人々を遠巻きに見て、眉間に皺を寄せている男の二人組が、何となく目につく。一人は背が低く太っていて、一人は背が高く痩せている。
「あの魚、半生じゃないか。よくあんなの食うよな」
「猫のエサだぜ、ありゃ」
レイヴン語のようなのではっきりとは解らないが、多分私達が食べている物の悪口を言ってるな、あの顔は。どうも内海付近の人間と北洋の人間では食べ物の嗜好が違う……いやフレデリクは北洋の人間のはずなんですけどね。
「なあ、やっぱりさっきの奴じゃないのか、道化師なんて一日のうちにそう何人も見るもんか」
「バカ、違ってたら困るんだよ、道化師ってのは王侯貴族に仕えてたりするからな、ちゃんと主人の居る道化師を襲ってみろ、袋叩きに遭うぞ」
私はレイヴン語は殆ど解らない。道化師とか王侯貴族とか言ってるのは何とか解るけど……それ以外はサッパリだ。見た目は単に、朝市で焼きジャガイモを食べているだけの……ならず者に見える。
「おい見ろよ、あいつこっちに戻って来るぞ? やっぱり追い掛けて、人目の少ない所に行ったら、名前くらい聞いてみようぜ」
背の低い太った方が、道の向こうを指差した。
私はアイマスクの中で視線だけを動かす……ロワンが、こっちへ戻って来る。そもそもロワンはあれ、何をしてるんだろう?
「市場のお客さん! 朝から道化師に出会うとは幸運だよ! みんなロワンのお手玉を見たいだろう!? 今日は特別に見せてあげよう!」
ロワンは小さな手足を振り回しながら、大きな声で言った。いくらかの周囲の目線が集まる……ロワンが私の方をちらりと見て、満足げにうなずいた。
「さあさ、これなるお手玉を、ロワンが磨きに磨いた芸で、空を舞わせてみせましょう! 目を凝らさないと早くて見えないよ!」
ロワンはそう言って、掌に握り込めるような小さな袋を三つ取り出して、空に投げ始める……しかし……たちまち全部落としてしまう。
「ああっ……今のは見なかった事にして! もう一度やるよ!」
ロワンは慌てて袋を拾い上げ、再びそれを空に放る……今度は二度、三度……お手玉に成功するが……不意に流れた袋を拾おうと手を伸ばした途端、足をもつれさせて転倒してしまう。
辺りから失笑が起こる。早くも何人かが、ロワンから目を離す……駄目だこりゃ……私ですらそう思った。
「今日はロワンのお手玉袋の機嫌が悪い! こいつらはだめ! 今日は君達にやってもらおう! これが成功したら、今ここに居る人は今日、全員幸せ!」」
ロワンはそう叫んで袋をポケットに押し込むや、露店の野菜売りが積んでいた、黒く萎びたジャガイモを次々と放り投げる。
「あっ、何をするんだ!」
露店商は抗議するが……ロワンは。次から次へとジャガイモを空へと放り、一つも地面に落とす事なく、それをまた空へと放り上げる。
たちまち周囲から溜息と喝采が沸く。ロワンは高く低く、変化をつけながらジャガイモを次々と投げる……
速過ぎてよく見えないが、恐らく8個のジャガイモが、ロワンの手で宙を舞っている。その一つとして同じ軌道を描いている物はない。
また、ロワンの手際が凄い。ジャガイモを頭の上で取ったり、膝の下から手を回して取ったり……ロワンの手は短く、そこに届くのもギリギリだというのに、全く危なげなくロワンはお手玉を続ける。
やがてロワンは、ジャガイモを一個ずつ、元の場所へ、露店商が積んでいた通りの場所へと戻して行く。最後の一個まで、ジャガイモは一つも痛む事なく、元の売り場に戻った。
「おめでとう皆さん! 今日の皆さんは全員幸せ!!」
ロワンが鈴付きの、コートと同じまだら模様の更紗の帽子を脱いで挨拶すると、周囲から大きな拍手喝采が起きる。
何人かの買い物客、食事客が歩み寄り、ロワンが取った帽子に小銭を入れる。
露店商も……特に野菜売りは観衆に銀貨を一枚高々と掲げて見せつけると、少しだけ惜しむような素振りを見せて笑いをとってから、やはり帽子に入れる。
ジャガイモは新世界生まれの野菜で私は好きだが、この辺りではあまり人気が無い。しかし野菜売りが銀貨を一枚奮発した甲斐はありそうだ。
野菜売りの周りにはたちまち客が集まって、特にさっきロワンが投げていたジャガイモはすぐに売れた。
「ロワンは新しくなった! 新しい服のおかげ!」
上機嫌のロワンは私とエステルに焼きジャガイモを一つずつ買ってくれた。この親切は素直に受け取る事にする。
「昨日までのロワンなら、お手玉を始めても誰も見なかった。ジャガイモに手を出したら鞭で打たれたかもしれない」
悲しい事を言うロワン……仕方ないのだろうか。それが都市というものか……私が作った不格好な服が役に立ったというのなら、私も素直に喜べはいいのか。
「やはりロワンは主人に見捨てられたのではなかった! そうだろう? この服は主人が私に下さったのだろう?」
ロワンはそう言って私を見上げる……ロワンは私より20cmは背が低い……
私はどう返事したものか思案する。
「ロワン、一つだけ間違いない。この服を君に作ってくれたのは他の誰でもなく、このフレデリクだ」
エステルが横から、そう言ってくれた。言った方がいいよね。ロワンは未だに自分を捨てた主人を慕っているのだ。
だけどその主人は、あの大爆発を起こしたコートをロワンに着せようとしていたのだ。
「バルレラ様が下さった訳ではない……?」
「そうだよ。これはフレデリクがくれたんだ」
だけど……これ以上はどう言ってやればいいか解らない。
「じゃあロワンに新しい服を作れと言った主人は……本当は居ないの? ロワンは……バルレラ様の所には戻れない?」
「ロワン、君も今やってみせたみたいに、町の人々に芸を見せて生きる道化師じゃだめなのか? この町を主人と思う訳には行かないのか?」
エステルは膝をつき、ロワンより低い視線から言った。
ロワンは俯き、首を振る。
「ロワンが欲しいのは立派な主人なんだ。君たちには解らないよ」
ロワンの言ってる事、解る部分もあるのよね。
船の上では船長だ商会長だと言われ、いい気になってる私だけど、心の奥では身の程を解っている部分もあって……私はやはり、16歳になったら船を下りて、お針子を目指すんだと思う。
いつまでもオレンジで偶然大儲けみたいなのが続くとは思っていないのだ。
ロワンもきっとそうなんだ。さっきみたいな成功がずっと続くとは思っていない。
それに町で一人で生きて行くのは大変だ。長い目で見れば、一番欲しいのは庇護者なのだろう。
それと……ロワンはボボネが暫く帰って来れない事をまだ知らない。昨日は喧嘩をしたけれど、また会えば元通りになると思っているかも……
「ロワン……君は私に似てるな」
エステルが膝を抱えてつぶやいた。
「私は……未熟で力も無いくせに、手柄なんか立てようとして……何も考えずに街に出て来て、人に迷惑を掛けながら……頑固に自分の欲しい物を探してる」
「よく解らないけど! ロワンはそんなに馬鹿じゃないぞ! 一緒にすんな!」
ロワンは上を向いて舌を出しながら甲高いおかしな声で言った。エステルも私もたまらず吹き出す。なるほど、いい道化師だ。
「暗い顔はごめんだ! ロワンは次の仕事を探しに行く! ごきげんよう!」
暗い顔……私もしてたのかな。この仮面も道化師には通用しなかったか。立ち上がり、往来を踊るように歩き去って行くロワン。
気を使われちゃったかな。うーん。
「ふふ……道化師に気を使われてしまったような気がする」
去り行くロワンの背中を見ながらエステルが言った……同じ事考えてたのね。
「だけどあいつ、とうとう君にちゃんとお礼を言わなかったぞ」
「ははは。この焼きジャガイモがそうじゃないか?」
「これか……ふふ。私はジャガイモ自体初めてだ」
「ストークでは国中に広まってるよ、痩せた土地でもよく育つんだ」
私は本で読んだだけの事を、さも故郷の話のように語る……ジャガイモは黒くて見た目が悪く、中毒を起こす事もあるのであまり人気が無い……食べたら美味しいのになあ。
ジャガイモ好きはストークやファルケ、レイヴンなど北方の人ばかりで……
……
さっきのレイヴン人のならず者みたいな奴が居なくなってる。
「……食べたら美味しいんだな。甘みもある」
エステルも私も、焼きジャガイモを食べ終えた。エステルは……ため息をつく。
「今度は私が気を利かせる番かな……フレデリク、あの君にはとても感謝してる、私はこれから」
エステルがそう言った瞬間。私の脳裏に嫌な閃きが広がった。
「エステル、今そこに居たレイヴン人みたいな二人組、どっちに行ったか見てなかったか?」
「えっ……た、多分、そっちの裏道へ走って行ったと思う」
エステルが指差したのは、ロワンが去った表通りと平行して走る裏道だった。
「ならず者風の二人が道化師の話をしていて、そこにロワンが来て、ロワンが去ったら消えていた、同じ方向に。気のせいならいいんだが、違ったら後味が悪い。すまないがもう少し手を貸してくれ」
私は咄嗟にエステルの肩をポンと押し、走り出す。
「ま……待てフレデリク、私は……」
エステルも追い掛けて来る。
私は一度振り向く。ぶち君も行くよね!? ええっ? 行かないの!?
こっちに見向きもせず、フォルコン号が泊まっている河岸の方へ歩いて行くぶち君……本当に何なんだキミは……