猫「すまぬ。あの女はいつもああなのだ」エステル「賢いにゃんこだな……よしよし……あはは、よく慣れてる」
夜のサフィーラで見つけたボボネは、何か物騒な相談をしていた。
エステルにも再会出来たけど、それどころではなくなってしまった。
ボボネが道の向こうからやって来る……ロワンはボボネより先にその存在に気付いたようだ。
「旦那! ボボネの旦那!」
ロワンは手を振り回しながら、ボボネに近づいて行こうとするが……途中、他の通行人にぶつかり、転倒してしまう。ロワンの身長は130cm程だ……相手は気づきもしなかったように歩いて行く。
「気をつけやがれ!」
ロワンは叫び立ち上がる……それでもボボネがロワンに気付いた様子は無い……わざとだろうか。
「ボボネの旦那!」
斜め後ろからボボネに追いついたロワンが、ボボネの腕を掴もうとする……ボボネが抱えていた包みが滑り、地面に落ちる……!
「ひっ!? き、気をつけやがれ!」
ボボネが叫んだ……
身の毛もよだつとはこの事だ。あのバルレラという男の言う事が本当なら、あの包みには大量の火薬が入っているのだ。
「旦那、これは道化の服だ」
ロワンが、包みの口からはみ出した生地を見て、手を伸ばす……その黄色と赤と黒のまだら模様は、確かに道化師でもなければ着る者など居ない物のように見えた。だけどそれは……あの男の言葉が嘘でないのなら。大量の火薬を詰めた爆薬入りのコートだ。
ボボネは、ロワンを押しのけた。
「触るな」
「すみません、旦那」
ロワンは手を引っ込めるが、未練そうに続ける。
「だけど……道化の服だ」
「うるせえな。お前のじゃねえ」
「ロワンのじゃない……?」
「そうだ。お前みたいなヘタクソな道化師に着せる服じゃねえ」
ボボネはぴしゃりと言い放つ。
その台詞は……ロワンに残っていた微かな誇りをも引き裂く物だったらしい。
「ロワンはいい道化だ! バルレラ様もおっしゃっていた! 屋敷にロワンを笑わない人は居なかった!」
「ああ、昔は笑ってたんだろうよ! だが見飽きたんだよ、バルレラもその兄弟も子供達も、お前の芸に飽きたんだ、だからお前はクビになったんだ! もうあの家に戻ろうなんて思うんじゃねえ!」
「う……うそだ!」
「俺を疑うのか!? ああもう、俺は今日はお前なんか相手にしてる時間は無ぇんだ! ほらよ! 昼間の銀貨は返してやるから、たまには酒でも飲んどけ!」
ボボネはそう言って、ロワンの小さく萎びたような掌に、銀貨を二枚押し付ける。
「私の服だ!」
ロワンは短い腕を振る……二枚の銀貨は、ばらばらに……地面に落ちて転がった。
「それはロワンの服だ! ロワンの新しい道化の服だ!」
「は……離せ!」
「その綺麗な服なら、ロワンは屋敷に戻れるんだ、ロワンは服が汚くなっただけなんだ! それはロワンの道化服だ!」
「これは……お前の服じゃねえ!!」
ボボネは反対の手を壁について、必死にすがりつくロワンを蹴り飛ばす。
「ああっ……!!」
顎の下を蹴られ、吹き飛ばされ、ロワンは転倒する。
ボボネも、ロワンも。暫く無言で睨みあっていた。
口の中を切ったのだろう。ロワンは血の混じった涎を垂らしながら、呟いた。
「きっと、バルレラ様が下さったんだ。その服はバルレラ様が、ロワンにと言って下さった服なんだ」
「……違う」
「バルレラ様以外に! ロワンに服を用意してくれるような人なんて居ない! 旦那だって! ロワンに服はくれなかった!」
「……」
「でも……旦那は貴族じゃないから、お屋敷は持ってないから道化師を雇わないだけだ。旦那はバルレラ様以外ではロワンに優しくしてくれるただ一人の人だ」
「……うるせえ」
「御願いだ、旦那、その服はバルレラ様がロワンにって下さった服なんだろう? どうかそれだけは、それだけはロワンに下さい、御願いします、ロワンはもう金貨や銀貨を隠しません、全部旦那に渡します、だからその服だけは、どうかそのまま、ロワンに下さい」
ロワンはそう言って平伏し……額を地面に擦りつけた。
私はふと、エステルの方をちらりと見る。彼女は私をじっと見ていた。
今すぐ剣を抜いて飛び出したいとか、そういうつもりではなさそうだ。
「おおい、あんまり酷い事すんなー」
どこかで誰かが叫ぶ……少し離れた所に居る、酔っ払いか……だけど間違いなく、ボボネに向かって言っているようだ。
私はポケットを探る……銀貨が確か……3枚、ああ、ボボネがそわそわし出した、時間が無い、ごめんエステル!
「これ!」
最低なフレデリク君はエステルの手首を掴み、いきなり銀貨3枚を掴ませる。
「何とかしてロワンを足止めしておいてくれ、僕はボボネを追わないと! 後で戻るから!」
「えっ……!」
「待って! ボボネの旦那!」
「うるさい! お前とは絶交だ、二度と話し掛けるな!」
ボボネはそう言って、包みを抱えて駆け出す。ロワンは必死に手を伸ばすが……届くはずもなく。
エステルは大丈夫かな、あんな男を足止めしろって言われても、私なら困る。
ボボネを追って走り出しながら、私は一瞬だけ振り返る。ぶち君とエステルが顔を見合わせている……色んな意味でありがとうぶち君、君って一体何なのだろう。
ボボネはそのまま走り続ける……ロワンを振り払うだけならそんなに一生懸命走る必要は無い。つまり……奴は今何かの覚悟を固めて走っている。
それが何か、フォルコン号に仇なそうという物だとしたら、断固止めないといけない。
その動機になるのが、ゲスピノッサか……あの男はこの港の出身だとエステルが言ってたな。もしかするとサフィーラにはあの男のスポンサーが居たのかもしれない。それがあのバルレラという奴なのか。
ゲスピノッサが死んでいたら話は単純だったのかもしれないが。ゲスピノッサは私の父の手でノックアウトされ、無事捕縛されている。あれは鮮やかだった……父が自分をヒーローというのも、あながち嘘ではないのではないか。
いやこの非常時に何を考えてるんだ。私の父親慕情は不治の病だな。
包みを抱えたまま、ボボネは走る……材木屋通りを……やっぱりフォルコン号をどうにかしようとしてるのかなあ。
鍛冶屋通りは町の性格上、防火用水も多い。勝負を掛けるならここか。
私はシンプルに。ボボネを走って追い越し、立ち塞がって剣を抜く。
「その爆弾で何をするつもりだ! それを手放せ!」
「……ひっ!?」
「全部知ってるんだ! そのコートの形をした爆弾で船を襲うつもりか! 港湾役人の君が!」
私はそう一気に畳み掛けて、観念させようとしたのだが……やはりアイマスクなんかしたってマリーはマリー、迫力不足なんだろうな。
ボボネは真っ青な顔をして、包みを左腕に抱えたまま、腰の短剣を抜いた。
剣を抜いた時の、いつものテーマだ。
私にはこの刃で人を傷つける覚悟があるのか。
「どけェ!」
短剣の扱いについて、ボボネには多少の心得はあるようだった。身長も私より10cm以上高い。しかし、走りづめで足に来て居たのか、私でも見切れるくらい、その出足は不格好で丸見えだった。
「ヒッ……!」
交差気味にステップを踏んだ私のレイピアの切っ先が、ボボネの右肘近くを浅く捉えた。シャツの袖が裂け、微かな血飛沫が舞う。そして次の瞬間には私はレイピアの腹でボボネの右手甲を打ちすえていた。
短剣が、地面に落ちる。
ボボネが包みを抱えたまま、左手で右肘を押さえ、震えながら後ずさる。
不謹慎な私は、今起きた事に密かに感動していた。ここは陸の上なのに、今の私、剣士みたいじゃなかった? 毎日の訓練の成果が出た?
「その包みを地面に置け。それだけでいい」
私はレイピアを構えたままで言った。
遠巻きに見ていた周囲の人々も、少しずつ近づいて来る……衛兵は居ないかな。
エステルはどうしただろう。私、あの子にもう一度会って、ちゃんと話をしようと思って出て来たんだっけ。私ったらいつもこうだ。いつも動機と手段を取り間違える……
「うう……ああああ!」
ひっ……ボボネが錯乱して近くの篝火から赤く光る木切れを一つ、包みの中に投げ込んで抱えた!
「爆発する、離れろ!!」
私は周囲の野次馬に叫び、ボボネに突進する。
「ああああ! 来るなああああ!」
「この……!」
手加減とか考えてる暇は無い……! 私は全力でレイピアの柄をボボネのこめかみに叩きつける。そして緩んだボボネの腕から、中に火の入った包みを巻き込むようにもぎ取る……
全てがゆっくりに見える……
……防火用水……どこ……雨水を貯めた桶、どれ!?
あ……勇気ある近所のおじさんが……何かの木の蓋を持ち上げ、下を指差す……
私はレイピアを離して走る……10m……5m……遠い……
それ防火用水……? ああ、鍛冶屋の商売道具ね……打った鋼を冷やすやつ……
間に合って、間に合って……
私、包み投げ込む……
おじさん、蓋閉める。
そして逃げる……
私とおじさんは同方向に走ってしまう。3m……5m……
私、耳塞いで伏せる。おじさん耳塞いで伏せる。
……
良かった。爆発しなかった。
―― ドカァァァァァァァン!!!!!