「嫌い」な人
昨日のお前の言ってることで気になったから書いておこう。
お前もしかり、結構な人間に、「嫌い」なやつがいるもんだ。俺なんてメッチャ嫌われてる。ヤバいくらい嫌われてる。親の敵みたいに。
なんで人を嫌いになるんだろうな?
別段そいつが特別悪い奴でもないのに、「コイツは嫌いだ」となってしまうのは何でなんだろうか。
感情の事だから、少し受け入れがたい物もあるかもしれないが、聞いて(読んで?)ほしいかな。
俺のことを嫌いになってる奴や、「あいつホントに嫌い、無理」とか言ってる奴を余さず見てきて、ついでに自分の経験もぶち込んで結論付けよう。いいか、ハッキリ言ってやる。
「嫌いな奴の人数、度合いは、心の未熟度のバロメーター」だ。
人を嫌いになる理由はそこそこある。だが、根底にあるのは数個の理由だけで、しかも、それは全部「そいつが未熟」の一言が根源だ。
例を出そうか、「アイツの人に気を配らない性格が嫌いだ」といってる奴は二通りいる。妙に、明らかに人に気を遣ってるのがわかる奴と、逆にそいつ自身が全然人に気を遣ってないのに、それを自分では気付いてないやつの二通りだ。
つまり、自分はそれができないのにアイツはそれを平気でやってやがるという「羨ましさの腹立たしさソテー、季節の未知への恐怖と困惑を添えて」と、自分と同じであるが故に、自分のことを妙に意識させられて、それに気がつかない故に起こる「同族嫌悪と低知能のミルフィーユ、無意識の自意識ソース」が原因で、この二つが人を「嫌い」になるほとんど全ての理由と言っていい。わあ、なんて単純。
さて、この二つは、どちらも「自分について考えて、自分をメタ認知する」ことで一発で解決する。
上記の二つ、いやもしそれ以外にあったとしても、全部が「ああ、自分はこう考えていたんだな」と「自分で」気付いてしまうと、「嫌い」という感情は雲散霧消する。
詳しいことは後で書こう。これ自体は、少しこのテーマで語るには逸脱が過ぎる。
とにかく、自分で気付いてしまうと、もう人を嫌う、ということがなくなるんだよ。
さて、だ。「嫌い」についてはここらでいいだろう。
お前に言っておくべきなのがもう一つある。
唐突だが、自分語りを許してほしい。
俺は、「嫌い」な人がいなくなったのは中学三年の冬だ。
それまで、俺はどうしても嫌いなやつが二人いた。一人は、同族嫌悪してただけだとすぐに気付いて嫌いではなくなって、逆に「ああ、つまりコイツが他人から見た俺だったか」と笑えるようになった。
ただもう一人、そいつだけはどうにも無理だった。俺を「変だから」と囲んで罵り、複数人でイジメをして、何かと俺を馬鹿にしたヤツ。
完全にそれが原因で「嫌い」が抜けないんだとわかってたんだが、ある日ふと気付いてな。
「嗚呼、これ『嫌い』じゃねえわ」って。
それが、お前が昨日、「母さんが父さん並みに嫌いになりそうだ」と言って泣いた時の、お前の感情。
実害がないのに精神的ストレスになる「嫌い」とは違って、完全に実害を伴っている精神的ストレスの、お前が、もちろん俺も、父親にも、母親にも抱いてる感情。
いいか、日本語は優秀だ。その感情を的確に表現できる正しい言葉がある。
それはな、「嫌い」って言うんじゃない。
「恨み」って言うんだよ。
まず「嫌いになりそう」ってお前はよく言うが、「嫌い」とは「無自覚的になる、なっている」物であって、「なりそう」と自覚できる段階でそれは「嫌い」じゃないんだ。気付け。それは「恨み」だ。
これはすごい厄介でな。「嫌い」は自覚すりゃ自分次第で無くせるが、「恨み」は自覚したところで向こうが贖罪してくれないと無くなりはしないんだよ。けどあの両親だ、無理に決まってる。
……もう、手遅れなんだろうな。
早く、お前を家から連れ出してやりたいよ。
もう少し待っててくれ。兄ちゃん頑張るからな。