何で死んだら悲しいの?
これは俺が高一の時にまともに考えた、考えてみりゃ当たり前のテーマだ。
人を含む生物ってのは、皆死ぬようにできてる。これは当たり前だ。
世の中にはそれを覆そうと躍起になってる奴もいるが、まあ覆そうとするのはいいとしても、それでホントに覆してしまったら、それは自然の摂理に反してるような気がして、凄く気持ち悪いが。
とにかく、現時点では、生物は死ぬんだ。
辛いよな、お前も飼ってた犬や猫が死んだとき、キツかったろ。
さて、でも、それって何でだ?
何で生物が死ぬかは、研究職の方々に任せるとして、何で死んだら悲しい?
これを考えるには、まず「死」や「悲しみ」について考える必要があるんだが、それはまた別の機会にしようか。
まず、お前は、ニュースで毎日のようにやってる殺人事件を聞いて、「悲しい」と思うか?
多分思わないと思う。逆に思うんだったら、お前の共感性能は化物の類だ。誇っていい。
でも、クラスメイトが、仲の良い友人が、そして俺が、と、少しずつ接点が増えていくほど、悲しみは大きくなる。
実はこれ、どんなに悪い奴でも変わらなかったりする。
いるだろ、いやいただろ、かな、お前が嫌いなあの「い」から始まる男子。
あれでも、死んだらやっぱり少しの寂しさみたいな物はあるもんだよ。まあ、悲しみ、とは少し違う感じはするがね。
とにかく、まず、接点の多さ、自分の心の中でその人が占めていた割合が大きければ大きいほど、虚無感や寂寥感や悲しみは強くなる。
そこに「親」とか「ペット」とかの属性がスパイスになるかな、という感じかね。
じゃあ、なんでその感情を覚えるか、だが。
例えば俺が死んだ後。俺の脳を切り取って、なんかの機械にでも繋いで、意思疎通は死んだ後も可能だとしたら。お前はどう思う?
俺はもうこれだけでその人の死への悲しみはなくなってしまう。
俺は人とコミュニケーションを求めるから、意思疎通可能なら別に悲しくはならない。肉体の死は「死」ではないんだよ。
ペットだと、ちょっと違うな。犬や猫は、それらに求められてる物がコミュニケーションよりも、他の物、例えば温かな体温や毛並みを触ったときの安心感、とか、時々寄こしてくるキョトンとした顔を見たときの微笑ましさとか、そんな物を求められるから、また条件は変わる。
だけどだ。
これでもうわかると思うけど、俺達は別にその生物の「死」自体を悲しんじゃいないんだよ。
人間って、俺を含め愚かで、醜くて、矮小で、自分勝手で浅ましくてクズで気色悪いといつも俺は言ってるが、全くその通りでさ。
俺達が悲しんでるのは、その人の「死」じゃなく、「その生物と触れあえたり話したりできない自分」を悲しんでるんだよ。
だから俺は必死にこの駄文を遺してる訳だが、こんな物でも、多分お前の、俺が死んだときの悲しみは、少しばかり薄れるんだろうさ。薄れてくれると有難いよ。
これが答え。あとは、ちょっとした付け足しかな。
その人や生物の「死」を実感するのは、「こういうときだったらこの人やこいつがこうこうしてくれたのに」というのが無かったときの「いつもある物がない、そしてそれが永遠に続くんだ」と認識した時だ。
そうなったが最後、その生物が心を占めていた割合を、他の物で埋めるまでは、悲しみは続く。
よく男のナンパで、「傷心中の女を狙え」というのは、この空いた穴を埋める所に滑り込む事ができるからだな。気を付けとけ。
最後に、俺が死んでも、支えてくれる人はきっと現れる、いつか、必ず。
その時まで、頑張って生きて欲しい。
まあ死んだ人間が言うことじゃないがな。
俺だってさっさと死にたいわけじゃないしさ。