言葉の重さ
俺達は主に日本語を使うが、別に日本語に限った話ではないんだ。言語には全て言えるだろうことだな。
なあ妹よ、お前は、言葉がどれだけ薄っぺらく思われてるか知ってるか?
人って言うのは、そのほとんどが言葉をお飾りみたいに使う。
そんなクズばかりだ。
俺からすると、もう本当に耐えられない。
まあだから、今回のテーマは、「お前はこんなことになるんじゃねえぞ、こうなってくれよ」みたいな感覚で書いてる。
まず、俺達の使う言葉っていうのは、俺が小説なんか書いてるとおり、色々と架空の物が作れたりする。当然だな。
このせいで、人は嘘八百やおべんちゃらや思ってもいないことや(だいたい全部同じ)ら言えるわけだ。
でもだ。裁判とかだと、「言ったこと」も重要な証拠になり得る。
つまり世間や公的な物では、言葉は重い物と認められてる訳だ。
いいか。
そも、言葉っていうのは、意思伝達の手段なんだよ。
つまり、「私はこう思っていますよ」というのを伝えるツール、これが言葉だ。
だから、話し合いや会話で、「言っていることが認められない」はあっても、「言っていることがわからない」はあっちゃいけないんだ。
言ってることがわからないなら、それは言葉が言葉としての意味を失って、ただの特定の音の羅列にしかなってないってことだ。
もちろん、言ってる側だけでなく、言われてる側の頭の方が問題なことも多々ある。
が、だ。どんなに頭が悪いヤツにでも、自分の言いたいことがちゃんと伝えられるというのがやっぱり言葉としてのあるべき姿なわけだよ。
まあ、もちろん言葉の限界という物はあるけどな。
さて、そんな言葉だけど。この言葉を使うに当たって、基本的には守るべきなマナーがいくつかあるわけだ。
1,誹謗中傷をむやみやたらに使わない
当然だわな。言葉は意思を伝える。つまり「馬鹿」って言ったら「私はあなたを馬鹿と認識しています」だ。むやみやたらに言っていい言葉ではない。
2,矛盾を孕んではいけない
言ってることがさっき言ってるのと照らし合わせると成立しない、なんてことがあってはいけない。そうなったらちゃんと「なぜ矛盾していないか」をしっかり説明するか、即座に矛盾について謝って、どっちが正しいのかを言い直す。これをしないと吐いた言葉の価値がドンドン下がって、最終的には話を聞いてもらえなくなる。俺達の両親がその典型例だろ?
3,言葉の本質を理解してから使う
何でもかんでも「ありがとう」というやつがいるが。
ありがとうとは「有難う」であり、「めったにない」という意味でしかない。決して「私はあなたに感謝しています」という意味にはならないんだよ。ならちゃんと感謝を伝えられる言葉にしないといけない。俺はめったにないことには「有難う」を使うが、基本的には「サンキュ」を使うだろ。英語でのThank youは直訳で「あなたに感謝する」だ。ありがとうじゃ気持ち悪いんだよな。
細かいかもしれないが、俺みたいな奴は絶対にいる。普段からやってることにたいして「ありがとう」と言われたらイラッとくる俺みたいなのは絶対にいるから、やっぱり言葉の意味は考えた方が良い。
4,なにがなんでも「理解」はさせる
いいか、こっちから相手へ言葉を投げかけて、それが伝わらない時には二つのパターンがある。
一つは「言ってることはわかるが認められない、受け入れられない」パターン。これは単純に「そういうこともあるんだ」と思えない頭が足りないだけのやつだからほっとく。
問題はもう一つ、「ほんとに言ってることの意味がわからない」というパターンだ。
いいか、こっちが相手に言ってんだから、少なくともこっちでは成立してんだ。なのに相手にはそれが成立しないって事は、単純にこっちの言葉が足りないんだ。単純に量なのか、もうちょっと詳しい質なのかはわからんがね。
そうなったらいいか、しっかりと相手がわかるまで言葉を尽くせ。それが言葉なんだから。
その為にもボキャブラリーは豊富にしておいた方が良いぞ。
特に四字熟語とか諺とか慣用句は、知ってるだけですごいスムーズに意思伝達が可能になる。
これらが守れれば、多分言葉を使うということにおいては不自由なく生きていけると思う。
え? もしも言いたくないお世辞を言わなきゃいけないときどうすれば良いかって?
一つは「言わない」。逃げるわけだ。もう一つは「褒めはするけど何に褒めてるかは明文化しない」。「やっぱこれこれができる人ってカッコいいですよねー(でもお前はできてねえよな)」みたいな感じだな。これなら矛盾なんてない。基本的にお世辞言われたい奴って自己承認欲求高くて自己中心的でプライド高くてのわりに自信がねえ奴だから、「それ俺に対して言ってる?」とは訊いてこないだろ。大抵馬鹿だから自分のことだと勘違いして勝手に悦に入る。
まあ、お前はお世辞言わなきゃいけないときが多そうだからな。
載っけといた。




