「普通」って、一体なんだろね
普通。
これほど俺やお前にとって、今までに苦い思いをさせられた言葉はないだろう。
とりあえず今回は、「普通って何」について書こうと思うよ。
まあ、「普通って何」と考える時点で普通ではないから、辛いし、この発言が出てくるわけだがね。
......口調変わってるって? 気分によって変わるんだよ。
普通、とは、「ある一つの命題を与えられたとき、それに思考を重ねるなり直感的にするなりして選んだ選択のうち、その命題を与えられた対象の中の一番多くを占める選択のこと」だと思う。
常識とか一般的とかもこの定義に当てはまると思うよ。
ただ、あくまでこれは客観的っぽい定義で、主観的な物じゃないから、主観的な物は少し意味が変わるけどね。
主観的な意味での普通はつまり、「その人が選びそうな選択の内一番ありそうだとその人が思ってる選択」、かね。
例を挙げようか。
前者の例なら、まず百人に「カレーは何口が一番美味しい?」と質問したときに、一番多い答えが中辛なら、中辛が「普通」だ。
俺みたいに「甘口じゃなきゃヤダ」みたいなのは普通じゃない、ということになる。
ただ、これが子供達への質問なら、多分甘口が「普通」になる。そういうことだね。
これを逆手にとると、「子供達だけに尋ねた」という部分を抜き取って、さも無作為に選ばれた対象の質問の答えが「甘口」が一番多かったから甘口が普通、と見せかける手口が使える。
言わなきゃ嘘じゃないしね。詐欺の常套句だよ。気を付けておいて。
後者の例を挙げよう。
自分の上げた足を下ろす先に、小さな蜘蛛がいると気付いたとしよう。
これが「小さな蜘蛛」というだけなら、俺なら「足を少しずらして踏まないようにする」が普通だ。一番取り得る行動だからね。
が、これが「小さな『毒』蜘蛛」となると話が少し変わってくる。この場合の普通は、俺なら「立ち止まって興味津々でその蜘蛛を眺め始める」だ。
だけど、人によっては「毒蜘蛛だろうと何だろうと足をずらす」とか、「毒蜘蛛なら踏み潰す」とかが普通の人もいるだろう。
人によって変わる普通。これが主観的な普通だ。
お前がこの世を生きていく中で気を付けて欲しいのは、年齢に関わらず、愚かな人というのは、この「主観的な普通」を「客観的な普通」と勘違いする、ということだ。
それが仲の良い友達なら、「いやいやそれが普通なのお前だけだよ」と言えるかもしれない。
......仲が良くても言えないって? それを「仲が良い」とは言わないと思うんだがね。
まあとにかく、これが先輩、先生、特に上司とかになってくると、もうただの老害だ。
気を付けておくといい。
追記
普通の定義だが、ふと考えてみると、主観と客観の境をしっかり定められていないように感じたんだ。
一人なら、大人数なら、上の定義はちゃんと成り立つ。
じゃあ、二人なら? 三人なら? 十人なら?
「主観」がギリギリ通用しそうな大人数の時についてをしっかり書いてないんじゃないか? と思ったわけだ。
まず、三人以上なら、多数決の論理で多い方が「普通」となる。
まあこれは予想しやすいな。
じゃあ、二人はどうなのか?
意見のぶつかり合いになったときに、「多数決」にならなかったら、何が普通なのか?
こういうとき人は、スマホで調べるなりなんなりして、「自分が多数です」というお墨付きをもらおうとするのよ。
じゃあ、それができなかったら? この場合が説明不足だった。
もし、三人以上いない、二人の時に、お互いの主観の「普通」がぶつかったとしたら、何が普通なのか。
いいかい、その時は「二人の中ではその事において『普通』というのは存在しなくなる」が答えだ。
ことこの場合においてのみ、「普通」という概念は消え去ることになる。
ある一種偏見がなくなる瞬間。「皆そうだから」という隠れ蓑がなくなる瞬間。
これこそ成長のチャンスだよ、もし出会ったら相手の話をしっかり聞いて受けとめな。
決して頭ごなしに否定するんじゃないよ。この世で否定して良いのはあくまで自分自身のことについてだけなんだから。