相対論の生き物
最近、少々思考が深化しなくなる現象に遭遇しております。
短くなったりすると思います。
ご了承くだされ。
人生で、良いこと悪いことが起こることを、諺では色々と表現がある。
禍福は糾える縄のごとし とか、
人生万事塞翁が馬 とか。
しかし、俺はこれらよりも、もっと的確に表した素晴らしい言葉があると思っている。
「人生山あり谷あり」だ。
これ程うまい言い方はないと思うんだよ。
さて、なぜそう思うのか、というのが、今回のテーマだ。
人間というのは、絶対論では生きていない。
人生で起こったことの幸福度や不幸度を数値化したりとか、そんなことをしないとしっかりとした客観的評価はくだせない。
それすらも、作る人によって基準は大きく変動する。
ガチャで、五十連引いて一個も最高レアが出なかった後に十連で二個出たときと、十連ですでに五個くらい出した後の十連中二個だったら、前者なら安心するし、後者ならちょっぴり残念に思うはずだ。
これと同じ事が、人生のあらゆる場面で起こってるわけだ。
特に「運」とか「幸せ」とか、そういった曖昧な物ほどこの傾向が強い。
で、その結果一喜一憂する事態に陥るわけだ。
さて、お前にこのテーマを話す理由は、他でもない、お前が度々家のことで辛くなるからだ。
「どんなに辛くて嫌なことがあっても、その後には絶対良いことが待ってる」
この言葉の真実は、「悪いことが起きすぎて『良いこと』の基準が下がってるから、他の人にとっては普通でも君からすれば良いことのように思えるようになる」なわけだ。
これを幸せととるか不幸せととるかによってまた議論が白熱するんだが、まあいい。今は置いておこうか。
お前が辛くなったとき、対処法として、二つ教えておく。
一つは、比較的に楽な方。やりやすい方法。
それは、「もっとヤバかったときの想像、想定をする」
要はもっと辛かったときの事に対して思いをはせるわけだ。
もっと辛い境遇のアフリカの貧しい子供を想像しろとか人はよく言うが、正直無理だと思う。
経験したことないじゃん。想像できても実感できる訳ないじゃん。
だから、「自分がこれまでに経験した一番辛いこと」との比較が良いと思う。もし一番辛いことが塗り替えられてしまったなら、「もっと酷かった場合」を思ってイメージすると、「これよりはマシだな」という意識が働くわけだな。
そして二つ目。
こっちはかなりやりにくいし、できるようになるのは二十か三十過ぎてからで良いと思う。俺みたいに若いときからできても不幸せだ。
それは、「一時的に思考をニヒリズムに傾ける」
俺はかなりの厭世主義だが、それでもまだニヒリストではない。
ニヒリズムって、全てを否定する恐ろしい力なんだよ。
辛い事があったら、それでめそめそしてる自分を客観視して(これが結構難しいんだ。鏡で自分の惨状を確認するのが一番手っ取り早いかね)、そうすると「なんでこんなことしてんだろう」みたいな気持ちになる。
それを少し発展させて、「どうせ自分が今めそめそしてるのも、自分をこんなにした事態も、全てに意味はないんだ」と思ってしまうんだよ。
実際ニヒリズムは無気力だから、この思考法は「自殺も意味がない」とダラダラ生きても死にはしなくなるんだよ。
ん? 「生きてる意味がない」って死なないのかって?
あのな、「生きる意味なんてない」は事実だけどよ、「死ぬ意味なんてない」は実は違うんだ。意味があるんだよ。
ニヒリズムってのは、意味があることに対しても「意味がない」とする。意味があることないことを区別できるようになったら、晴れてニヒリストから厭世主義者にランクアップだ。
で、ニヒリズムに至ると、実は人は「楽」に流れようとするんだ。
死ぬより、ダラダラ生きてる方が、一時的な無駄なエネルギーを使わないで済むだろ? だから案外生きてるんだよ。
刹那主義と被ってそうで被ってないから、間違えんなよ?
とりあえず、これができるようになると、即座に心は悲しみや辛さから解放される。
その代わりに大いなる虚無が押し寄せるんだけど、それは手元にゲームとかピアノとかあればなんとか克服はできる。
逆に、その虚無にだけは取り憑かれるなよ。
そうなったら終わりだから。
ま、二つ目はテーマからちょっと外れてるが。
でも、「人生山あり谷あり」の考え方は常においておいてくれ。
それが念頭にあれば、「いちいち悲しんだり喜んだり」ということが少なくなる。圧倒的に。
お前は、今はそれを身に付けておいた方が良いと思うんだ。
喜びも減ってしまうが、大丈夫。
そうなると、今度は「許容量を超える喜び」が、本当に喜ばしくなるから。
貴重になればなるほど、その価値は上がる。当たり前だな。
お前はその「許容量を超える喜び」を楽しみに生きればいいのさ。俺もそうしてる。
《追記》
この前に、「死ぬことにも意味はない」というような書き込みをしてる。このままだと矛盾が生じるから、ちゃんと書いておくな。
死ぬことに意味がない場合は、「客観的な意味」だ。
死ぬことに意味がある場合は、「主観的な意味」だ。
ニヒリズムとかの「~ズム」みたいなのはあくまで個人個人の思いの傾向だから、主観的な意味になる。
この「主観的か客観的か」を省いて書くから矛盾するわけだ。
……これからはなるべく書くようにするよ。




