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妹へ送る遺書には載せられない駄文  作者: 兄馬鹿こじらせたアスペ野郎
14/30

「観念」の恐怖

昨日のことです。夜十時半くらいでしたでしょうか。

妹と仲良く話していたら、きゃつめが、この駄文のことを、皮肉交じりに、それにつり合いをとるように愛らしい笑顔でなじってきました。

薄闇の雲に覆われ、光のない世界に奇跡が起こりました。

一筋の光が無明を切り裂き、私の心を暖かく照らしだしました。

嗚呼、妹に、大いなる初音ミク様に、多大なる感謝と栄光を。私は、生きていて、幸せです。

この世には、性善説と、性悪説って物がある。

生まれつき人には善、つまり他の人を思いやる心があって、それが成長する間に濁ってしまうから悪い人が出るんだ、みたいな説と、

生まれつき人には悪、つまり他の人を蹴落とし自分だけが良くなろうとする心があって、成長する間にそれを抑えて他人を考えることを学んでいい人になるんだ、という説。

まあもちろん俺は性悪説支持者だ。

明らかに赤ちゃんが泣くのって食「欲」とかお尻むずむずの不「快」が原因だし。

逆に世界で死にゆく子供達の事を思って泣いてる赤ちゃんとか、お母さんの苦労を思ってそれについて泣くような赤ちゃんとかが一人でもいたなら、俺は即座に性悪説支持を撤廃する。いたら、だが。

まあ、だから俺は性善説については「考えるのも馬鹿らしい」で切り捨ててしまってる。良くないことではあるがな。だが、正直無理だ。

性善説の根拠は、井戸に落っこちそうな赤ちゃんがいたら、誰でも無意識に「あっ、危ない!」となって心配とかするだろ、ほらみろやっぱ性善説というような感じなんだが、だが井戸に落っこちそうな赤ちゃんを見て「あっ、危ない!」となる「赤ちゃん」はいないから、やっぱり「生まれつきの善の心」ではないのよな。

もしもお前が性善説を支持して、俺を論破できたなら、俺は素直に性善説支持にシフトする。全力で性善説に謝りながら。できるなら、やってみてくれ。

さて、ということで、人というのは、生まれつきの赤ん坊の頃から自分の欲や快楽を追求するのが基本で、それが当たり前だという前提で話を進めるぞ。


自分の欲や快楽を追求するのが悪い、と思う人はいないんだ。多分な。だって自分だってそうなんだから。だが、それが法律とかモラルとかそういうのに引っかかり始めると、途端に嫌悪感を抱く奴らが出始める。さて、なぜだ?

人として当たり前の追求をして、なんでダメなの、わけわかんない、となるのがまあ俺の「当たり前」だ。つまり犯罪者予備軍宣言なわけだが。

法律は、まだわかる。「やるならやられる覚悟を持って」がモットーの俺みたいなヤツには法律はあんまり本質的な意味をなさないが、「自分はやりたいけどやられるのは嫌」みたいなクズをしばいたり、「やられるのは嫌だけど、だからといってやられてやり返せる自信なんてない」という人を守るために法律はある。ならあるべきだ。

だがモラルはどうだ?

別に人に多大なる迷惑をかけるわけじゃない。「誰でもやる頻度が高い迷惑」は法律では絶対に縛れないし裁けない。それこそ上の「やり返す自信がない」人達ですらやるような迷惑だ。それを「ダメだよねー」と暗黙のルールとするのがモラルだ。これ程気持ち悪い物はないんだよ。

かけて当然の迷惑をかけないようにする。これは、無人島で一人で自給自足でも送らない限り絶対に叶わない。なのにモラルというのは存在して、人を縛るわけだ。

このモラル含む「観念」というのは、非常に厄介かつ気色悪い。

ここでやっとテーマに切り込めるわけだ。

かなり書いたから結論からいこうか。

「観念とは施された教育の結末である」

もうこれに尽きると思う。

例えば、皆大嫌い茶色のG。

これを、何の事前情報もなしに無垢な子供の前にポイと放ると、興味津々で遊んだり観察したりし始める。ソースは俺。今でもGには嫌悪感より面白さとかの方が勝る。

だが、ここに「親の悲鳴」とか「親の嫌悪感やそれに満ちた言動」とか「親からの気持ち悪いという事前情報」とかの教育が入ると、途端にGは「気持ち悪い物」となる。これが観念だ。

要は、俺達の観念というのは、教育による物がデカいわけだ。

だから教育は恐ろしいんだよ。特に道徳。

俺のように、常識から外れきった上、教育が観念を作ると悟った人間からすると、道徳というのは恐怖の代名詞だ。

観念って、感情に直結する。「理由もなしに」が観念だからだ。嫌悪感も、喜びも、観念に入る。ということは教育の仕方でいじれる。

戦争が正しい、喜ばしいことだと教えれば、人を殺すのに喜びを見いだす観念を持った子供が出来上がる。これは日本には流石にないな。

だが、「皆と同じだとほめられる」という観念で、同じになることに喜びを見いだす子供は、この日本で量産されている。

結局道徳や親の「教育と思わない教育」は、子供の「なんで?」をむしり取って「そうなんだ、それが当たり前なんだ」に変えてしまう。

そうなったらそれを治すのは死ぬほど大変だ。

半分近くの人間は多分死ぬまで治らない。

だから、妹よ。

観念を疑え。教育を疑え。周りの反応を、感情を疑え。そして「なんで?」と問い続けろ。

自分で納得した答えがない限り、信じようとはするんじゃないぞ。

辛いとは思う。馬鹿とは幸福だ。知らないでいられるのは幸せだ。それでも、それはやはり愚かだ。この世界で人の上に立ったり、この世界を「わかっている」人間に、愚かな人間は、やはりいないよ。

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