チェンナイの老人
インド南部の海沿いの街、チェンナイのスラム街。
私は二つの寺院が向い合せに位置しているエリアの路地裏にある定食屋で、遅い昼食を摂っていた。
乾季と雨季しかないこの国では3月と言えど気温は30度にもなり、厨房脇の食材にはぶんぶんとハエがたかっていた。開け放たれているドアや窓からは、路地に散乱するゴミや糞尿の悪臭が絶えず入り込んでくる。
いただきます、と仕草をして木の葉のようなものが浮かんだカレーをチャパティーにつけて食べる。ここインドではキリスト教徒以外が食事前に祈りをささげている文化は見たことが無いが、日本人としての癖が出てしまう。
自分が何をしたいのか、興味の失せた仕事を続けて日々襲いくるストレスに耐える生活の中で、生きる意味を探し求めた。そして気付いたら仕事を辞め、世界各地を放浪していた。
半ば日本を捨てるように旅立ったが、今まで繰り返してきた習慣というのはそう簡単に変わらなかった。それと同じように “生きる意味” などというたいそうなものも見つからないまま、3か月が過ぎていた。
カレーに入っている葉っぱを噛んでみると、すっきりとした意外な味がした。いったい何の葉なのだろうかと不思議に思っていると、不意に老人が声をかけてきた。タンクトップの下着のようなシャツに短パン、ボロボロのサンダル、深くシワの入った顔は痩せこけているという、いかにも物乞いのような風貌に、思わず眉をひそめる。
「あんたの国ではそうやって、食べ物に祈りをささげるのか?」
かなり訛りが強いが、その男は英語を話した。恐らくは一定の教育を受けた人間なのだろう。危害を加える気はないようなので、しばらく会話をしてみることにした。
「そうですね。これが習慣になっているからつい出てしまうんです」
するとその男はニカッと笑って「そうか! 食べ物を大事にする奴に悪い奴はいない!」と嬉しそうに言うのだった。
「この葉っぱは何という名前なんですか?」
先ほどのカレーの葉について聞いてみると「それは*****だ」という。頑張って発音してみようとするも、唸るようにしかならなかった。
「お前さんはどこから来たんだ」
「……日本です」
金をたかられるかとも思ったが、素直に答えることにした。いかがわしい人間と会う時には、基本的に日本や東京ではなく伊豆と答えることにしている。こう答えると “聞いたことのない小国から来た青年” とみなされ、押し売りや客引きに遭いにくくなるのだ。伊豆には縁もゆかりもないが、自己防衛のために役立ってもらっている。
それを聞いた老人は「ああ、そうか。日本か……」と呟くと、しばらく黙ってしまった。
すると、その老人はこんなことを言い出した。
「先進国はみな夜遅くまで起きて、自然に反しようとする。インドではな、夜の9時に寝て、朝の3時に起きるんだ。そして朝起きたら一時間ヨガをする。これが良いんだ。ザ・ウェイ・オブ・ライフだ」
そう言うと老人は立ち上がり、手をひらひらさせながら、おいでとジェスチャーして店から出て行った。慌てて会計を済ませて後を追う。しかし路地にはすでに老人の姿はなかった。
辺りをキョロキョロと見回していると、少し離れたところにある朽ちた集合住宅から「カム、カム」と声がする。恐る恐る薄暗い建物に入ると、その老人が待っていた。
「離れないようにな」
そう言って4階まで上がると、403と書かれた扉を開けた。廊下と同じ、薄暗い部屋。換気扇の音だろうか、ブーという鈍い音がしている。
殺風景なリビングを抜け、キッチン奥の扉を開けると、また階段が現れた。いったいどこに連れて行かれるのだろうか。やはりこの老人は何か企んでいるのではないかと考え始めてしまう。
踊り場の裸電球は弱々しく光り、階段全体を照らすには心もとない。何度か転びそうになりつつ進み続けると、目の前に木の扉が現れた。老人が扉に力を込めると、ギギイという音を響かせながら扉が開いた。
雲一つない、濃紺の空が視界いっぱいに広がった。
古びた雑居ビルのような建物たちは海岸線に沿ってどこまでも続き、遠くに中心街の高層ビルが見える。反対を向くと幹線道路が荒野を貫き、地平線の果てまで伸びていた。
「わしの特等席だ」
老人はそう言うと、そばにある椅子に腰かけ、シュボっとタバコに火を点け燻らせる。私も転がっていたバケツを裏返して腰かけ、老人と一緒にチェンナイの空を眺める。
一言も言葉を交わさなくなったが、その沈黙が心地よかった。
「ここから見えるだけで何十万という人間が住んでいる」
老人はポツリとそんなことを言うとまた黙ってしまった。私にはその言葉が、先進国から来た私への非難のようにとれてならなかった。さっきまでの清涼感が消え去り、どろどろとしたものが心から流れ出る。ここにいる人間よりもはるかに多くのチャンスがあったはずだ、なぜ君はこんなところにいるのか? と。
鋭い日光が容赦なく首すじを貫いてゆく。
言い訳も後悔も言葉にできない私は、ただ黙っているしかなかった。
「明日の朝、日の出の時間に建物の下へ来てくれ。見せたいものがある」
帰り際、暗い階段を下りながら老人は言った。私は「分かった」と答えるも、あまり気分が乗らなかった。
そんな様子を見た老人は「必ず来てくれ、約束だ」といって手を差し伸べてくる。私はその手を握って渋々「来ます、必ず」と答えた。老人は握手している手を強く握り返すと、建物の中に戻って行った。
スラムの外側に位置する宿に戻った私は、近所の屋台で早めの夕食を済ませると、水シャワーを浴びて早々に寝床に戻った。しかし横になっても眠気は訪れず、昼間の老人の言葉が頭の中で渦巻いていた。確かにチャンスは日本の方が格段に多いだろう。とはいえ、一度レールを外れた私にとって、皆が “普通” であることが美徳とされる日本は、このスラム街と同じかそれ以下の環境に思えてならなかった。
朝から晩まで奴隷のごとく働かされる日本より、こちらの生活の方がマシではないかとさえ思えた。
気が付くと辺りは薄暗かった。
腕時計を見ると朝の5時半だった。日の出にはまだ1時間近くあるが、二度寝する気分にもなれない。恐らくあの老人はもう起きていると見て、スラムへと向かうことにした。
昼間と比べて車の数こそ少ないものの、まだ涼しい大通りを多くの人が行き交っていた。そんな通りを抜けスラム街へ向かうと、家々から煮炊きの煙が上がっていた。ここで産まれ、ここで生きる者たちがこんなにもたくさんいるのかと、現実味を持ってぶつかってくる。まるで昨日の問いが、そのまま自分に突き付けられているような気分になる。
重い足取りで定食屋の角を曲がり、昨日の建物に入る。日がまだ昇りきっていないからか、昨日よりも薄暗い階段を注意して上り、403と書かれた扉をノックする。さすがに早すぎたかと思っていると、昨日の老人が現れた。
「よし、来たな。今からヨガをやるんだ。見ていくか?」
私は、そんなことのために呼び出したのか? と思いつつも「ぜひ見たいです」と答えた。まあ本場のヨガを見ることができる機会はあまりないだろう。そう思いつつ昨日の屋上へと上がった。
屋上は涼しい風が吹いていた。東の空は赤く燃え上がり、まだ夜の色を残した海をギラギラと輝かせていた。荒れた山のてっぺんにかかっている雲たちがぼんやりと光り、まだ星が見える夜空を淡く照らしている。この世のものとは思えない光景に思わず息をのむ。
老人はマットを敷くとあぐらを組んで座り、瞑想を始めた。しばらくすると、ふっと目を開け、立ち上がった。
次に老人は立った姿勢から様々なポーズを見せてくれた。最初のうちは自分でも真似できそうな格好だったが、だんだんと複雑になり、関節の存在を疑うほど奇妙なポーズになった。
「奥義を見せてやる」
そう言った老人は両手で体を支えつつ、両足を肩の上から前へ突き出した。
「これは1年で数回しかやらないんだ、体への負担が大きいからな。ほら、動画を撮りなさい」
そう言われた私はジーンズのポケットからスマホを取り出し、撮影を始める。すると老人は “奥義” を最初からもう一度やって見せた。
ヨガを終えた老人は「これで今日も一日元気に過ごせる」と満足そうに笑った。私が「とても貴重なものを見ることができました。ありがとう」と言うと、老人は「実は君に渡したいものがあるんだ。部屋についてきてくれ」と言い、マットを丸めてヒョイと肩に担ぎ、階段を下りていった。
部屋に戻ると老人はノートパソコンを立ち上げた。
「ペンドライブは持っているかね?」
「ペンドライブ? すみません、どんな物か分かりません。聞いたことがないので」
そう答えると老人は怪訝な顔をして「ペンドライブを知らない? そんなはずはない。たぶんこっちとは呼び名が違うんだろう」と言いながら、部屋の奥にあるリュックの中を探し始めた。
「これだよ。これがペンドライブだ」
そう言って見せたものはUSBメモリだった。私は「持っています」と答え、自分のリュックからUSBメモリを取り出した。重要なデータは入っていないから大丈夫だとは思うが、何をするのだろうか。
そんな様子に気付いたのか、老人は「こんな堂々とウィルスを仕込む人間はいないだろう」と笑うのだった。
USBを受け取った老人はノートパソコンでカタカタと操作をしていった。見たことのないデスクトップのレイアウトだなと思っていると、作業が終わったのかUSBを外して返した。
「この中にはUbuntuをベースに私が改造したOSが入っている。コンピュータは誰にでも、真に平等にチャンスを与えてくれるものだ。うまく使ってくれ」
「自作のOS? ……いったいあなたは何者なんですか?」
「昔少しだけコンピュータ技術に関わっていただけだ。ラオと呼んでくれ」
そう言って老人は昨日と同じように手を差し伸べてきた。
「隆一です。リュウと呼んでください」
そう言ってラオの手を握り返す。
「リュウ、人は一人一人自分の道がある、幸せがある。ここの人間たちも不幸ばかりではない。もちろん君もだ。どれだけ自分と向き合うか、だ。大いに迷いなさい」
ラオはそう言うと手に力を込めた。私もそれに合わせて力を込める。ラオは満足そうに笑うと「さあ、もう時間だ。外まで送ろう」と言って、私たちは部屋を後にした。
建物の入り口まで降りると、街はすでに朝の空気に包まれていた。
「本当にありがとうございました」
私がそう伝えると、ラオは思い出したようにこう言った。
「日本に戻ったら、中古の安い物でいいからパソコンを買って、渡したOSをインストールしなさい。それじゃあ、人生を楽しんで」
ラオはそう言うと、建物の中へと消えていった。
朝の活気が街に響き始めていた。
読んでいただきありがとうございます。
これは私がインドに居たときの体験をもとに作ったお話です。
今後もときどき短編を投稿できたらと思います。
それでは、またいつか。