解明、そして追跡
初めてユリウス殿下にお会いした時、私は新しい宝石をいただいた気分でございました。
まるでお母様の指輪にあったイエローダイヤモンドのように、乙女も顔負けの透き通ったお肌で、煌めく金髪が麗しく、数多のご令嬢がひっきりなしに婚約を願い出るのも、当然のことと思われました。
その中で私が選ばれた理由は、単純に侯爵家の身分、そして偶然年が同じであったこと、一定以上の淑女としての能力を有し、健康で、殿下の隣に立ってもまあ問題のない容姿であったことが挙げられます。
まったく自慢ではございませんわ。
私は否応なくそうなるように、生まれた時から躾けられてきただけのこと。また容姿に関しては努力で得たものではございません。
まだ運命に出会っていなかった殿下が、あっさり私をお認めになり、ひっきりなしの縁談にひとまず終止符を打たれたわけです。
美しい婚約者を得られたことに、私がほんの少しも浮かれなかったと申せば、偽りとなりましょう。
私は確かに誇らしい気分でございました。選ばれた優越感もありました。
けれど。
その頃の私は、着実に家出計画を進めている最中だったのです。
すでに少しずつ身の回りの宝飾品などをお父様に隠れて換金し、街の歩き方を覚えるために頻繁にお忍びで出かけ、小さな冒険を繰り返しておりました。
ゆえに。
貴族らしい虚栄心の裏で、私は大いなる恐怖を感じておりました。
この美しい宝石のような方の、私に向けられる冷静な眼差しが、そのままの冷たさを持つ鉄鎖となって、我が身を永遠に拘束するものに思えたのです。
実際、かのお人の婚約者であっては計画を実行できませんでした。王太子の婚約者が失踪すれば、国を挙げて捜索されてしまいます。
よって、なんとしても婚約を破棄していただかねばなりませんでした。
殿下に嫌われる態度を心がけ、日々堅実にヘイトを集めつつも、なかなか決定打に欠けていた折、彗星のごとく現れたルアナ・キャトリー伯爵令嬢は、殿下にとっても私にとっても、まさに救世主となり得たのです。
*
「・・・なんなのだ、それは」
卒業式から二日後のこと。
殿下は私からの報告を聞き、執務室でうなだれておられた。
「なあルドルフ、つまりこの結末は、ラティーシャが自ら望んで引き起こしたものだったということなのか?」
「・・・断言はできかねますが、おそらくは」
せっかく愛しい人と結ばれたというのに、あの日、忽然と姿を消してしまったラティーシャ・アシュトンのせいで殿下のお顔は曇ったままである。
元王太子婚約者にして、元侯爵令嬢。彼女の肩書きはたった一日で過去のものとなり、現在の行方は依然として知れない。
侯爵家は迷うことなく娘を除籍し、国王陛下へ当主が平に詫びて騒動の終結となった。
それ以上の咎めはなく、侯爵家は無事にその地位を保たれたのである。もっとも、さすがに世間体は無傷では済まされず、王宮での発言力が弱まることは食い止められないであろうが。
侯爵家の行く末など私には限りなくどうでも良い。
究明せねばならない問題はただ一点、ラティーシャの目的に限る。
学園で彼女とも交流のあった私が調査を担当し、ルアナ殿――近く、王太子妃と呼び名を変えねばならない――に託された懺悔の手紙の裏を取ったのであるが、調べれば調べるほど、元令嬢の心境は実に不可解なものであった。
――いや。学園で過ごした三年間、常に彼女は不可解であり続けた。少なくとも、私にとっては。
はじめて殿下がラティーシャと対面された時、私もその場にいた。
他の婚約者候補たちとの見合いにも同じく従者として控えていたことがあったが、どうも女とは魅力的な異性を前にすると声が高くなるらしい。
見合い相手は一様に殿下の美貌に心を打ち抜かれ、頬を染めては、甲高い声で中身のない話を繰り返す。浮かれて自分が何を口走っているのかわからなくなるのだろう。
男とてそのようなことはよくあり得るし、まして世にも稀なお方の前で少しもはしゃぐなというのは無体な要求だ。
しかし、一方的に昂った気持ちをぶつけられるままの当の殿下は、ひどく辟易しておられた。それもまた無理からぬ話である。
だがラティーシャは違った。
私がはじめに彼女に抱いた印象は、『理性的な令嬢』だ。
碧い瞳がなおさらそう思わせたのかもしれない。
彼女の白い頬は結局最後まで染まらず、おどおどと目を逸らすようなことも一度もなかった。
己の魅力を積極的に語ることはなく、むしろ殿下のお話をよく聞きたがり、ご様子を注意深く観察していた。
悪く取れば、まるで品定めをしているかのようだった。
良く取るならば、殿下のお人柄を真摯に知ろうとしているかのようだった。
いずれにせよ、殿下に群がる令嬢のうちの誰にも共通しない眼差しであり、そのためひどく印象的だった。終始、好悪の感情を排した理知的な会話には安らぎすら覚えたものだ。
私も殿下同様、女の醜い部分ばかりを見せつけられ、疲労が蓄積していたせいもあるのだろうが・・・その時は、なぜか彼女がとても貴重な存在に思えたのだ。
身分に関係なく、最大限の敬意をもって接しなければならない相手であると。
たった一目、見ただけで思わされた。
――そして殿下が後日、婚約者をラティーシャに決定された瞬間に、理解した。
あの日抱いた不可思議な印象の正体が、恋であったのだと。
あまりに唐突なことで、どうすべきか悩む以前に、すでにどうしようもない状況となっていた。
主の婚約者を奪えるはずがない。恋情の欠片を見せることさえ許されないのだ。
たとえ殿下が、ラティーシャを愛しているようではなくとも。婚約者として適当な人材であると評価しただけで、この半年後に学園へ入学するまで、一度も顔を合わせようとしなくとも。
ラティーシャのほうも殿下に会いたがらなかったことだけが、私にとってはほんのわずかに救いであった。
しかし――
半年後、学園で再会したラティーシャは、どういうわけか別人になり果てていた。
碧い瞳に確かにあった理知の輝きが失せ、他にいくらでも群がってきた女どもとまるきり同じ、淀んだ目つきで媚を売り、妖しい手つきで殿下にまとわりつく。婚約者といえど馴れ馴れし過ぎると諫めても、まるで聞こえぬふうだった。
あれほど聞き上手であった者が、殿下のお言葉を遮ってまで下等な自慢話ばかりを繰り返す。
先のまともな印象があった分、豹変したラティーシャは、他のどんな女よりも遥かにおぞましかった。
殿下は騙されたと憤られた。
一方の私は、絶望した。
ラティーシャのような令嬢すら、権力の前では獣となってしまうことへの失望だけではない。
何よりも・・・恋しい人が、はしたなく他の男の愛を求める姿。それを直視し続けなければならない、耐え難き責め苦。
彼女が殿下にすり寄るたび、彼女を殺してやりたかった。
同時に、己のことも殺したかった。
そうすれば、彼女がこれ以上浅ましい姿を晒すことはなく、私がそれを見ることもなくなるのだ。
幾度も握りしめた手のひらからは、爪の痕が消えなくなってしまった。
そうして二年を耐え、殿下もまた耐え――不愉快だから婚約破棄とは言えないために――最終年、ルアナ殿が現れてからは事態が一変した。
殿下はルアナ殿を一目ご覧になられた時から、特別気にかけておられたと思う。
物怖じを知らない彼女の赤い瞳は殿下を必ず正面に捉え、洗練された会話はできなくとも、相手を気遣う優しい心根が言葉の端々に滲んでいた。
向かい合い、他愛ない話をするだけで殿下は癒されるそうだ。
どことなく、ルアナ殿は初めて会った時のラティーシャに似ていた。
容貌も所作もまったく似ても似つかなかったが、相手のことを理解しようと、真摯に耳を傾ける姿勢が記憶と重なった。
しかし、やはり全体を見れば二人の魅力は別物だ。
ラティーシャに心奪われなかった殿下がルアナ殿を愛し、ラティーシャに恋した私は、ルアナ殿には心惹かれなかったのだから。
そして、間もなくラティーシャによるルアナ殿へのいじめが始まった。
手段は多彩で、影に日向にあらゆる場所で繰り広げられ、私も何度助けに入ったことかわからない。
ルアナ殿が妙にタフであったことも、ある意味では問題だ。
この令嬢は華奢で儚げな見た目とは裏腹に、嘲りに果敢に喰ってかかる。さらに、そればかりでは乗り切れないことがわかると、誰にも文句を付けられない己を作ることに心血を注ぎ始めた。
殿下もしょっちゅう特訓に付き合われ、結果としてお二人は現在のような睦まじい関係となったわけである。
私は婚約破棄をご決意された殿下に命ぜられ、いじめの証拠を集めた。
その時はまだ愚かにも、これがラティーシャを陥れようとした何者かの陰謀でありはしないかとの幻想を抱いていたのだが・・・
結局、逃げも隠れもしなかった黒幕はラティーシャ。殿下が証拠を突き付ける前に自ら衆人の前で罪を告白し、断罪し、消えた。
その迷いなき逃亡ぶりは、どう考えても、以前から計画していたとしか思えない。
このあっけない結末を踏まえ、改めてラティーシャの行動を考え直してみれば、どうだろうか。
特に、ルアナ殿が来てからのことだ。
ラティーシャが行ったいじめは実に陰湿だった。しかし、いつも必ず彼女の取り巻き(ラティーシャはオトモダチと呼んでいた)に属さない目撃者がおり、途中で殿下や私、ないしは我々の仲間が助けに入れる場所で犯行は重ねられていた。
仮にラティーシャが手を出さなかったとしても、ルアナ殿はその出自のために、いじめを受けていた可能性は高かったろう。
では結果として、ラティーシャがそれらを燻り出し、コントロールしていたとは言えないだろうか?
懺悔の手紙には多くの貴族の子女の名が記されていた。
黒幕であるラティーシャからの告発だ、名を挙げられた者は逃れられず、命乞いさながらに弁明する。
ラティーシャに逆らえなかっただけなのだと。
いじめを行ったラティーシャが身分を失ったことに、彼らは大いに恐怖していた。
それを許してやれば、借りができる。そして彼らの親は、多くが殿下とルアナ殿とのご婚約を強く反対できなくなる。
さらに勘繰れば、ラティーシャがルアナ殿に浴びせた暴言の数々も、平民の感覚が抜けきらない彼女の目を覚まさせ、負けん気を刺激して奮起させたとは捉えられないだろうか。
思い返せば、茶会のマナー違反を咎めた時のラティーシャは正しかった。
ルアナ殿が礼儀作法を完璧に身につけてからは、やっかみでしかなくなったため、最初の頃の親切な忠告も、理不尽な罵倒であったように印象付けられてしまっただけではないのか。
ルアナ殿がラティーシャを憎みきれずにいるのは、彼女の性根の優しさのためばかりでなく、実は彼女自身もラティーシャにわずかながら感謝を抱いているためなのではないのか。
そして一連の嫌がらせの中で、最も不可解であるのは、彼女が身分を捨てる大きな理由とした襲撃事件だ。
さすがに人の命を奪おうとしたとあれば、いかな侯爵令嬢と言えどもただでは済まされない。
しかし、あの場に居合わせた私からすれば、あんなものは少々タチの悪い脅かしに過ぎなかった。
襲撃者は一人で、妙に華奢だった。追い付けなかったため後ろ姿しか見ていないものの、あれは女ではなかったろうか。
ルアナ殿も少年か女のような印象を持ったという。しかも犯人が逃げる際に投げつけてきた武器は、殴り殺すほどの強度もなさそうな細い角材だった。
事実、投げつけられた時にそれは地面に当たって折れたのだ。
本気の殺意があったとは到底思えない。
他にも不可解なことを挙げ始めればきりがない。
ルアナ殿が現れてからラティーシャの殿下に対する付きまといがまったくなくなったこと、卒業式の日、弁解の一言もなく罪を自ら告白した理由、あらかじめ用意されていた懺悔の手紙、教室に脱ぎ捨てられていたドレス、その下に彼女が粗末なワンピースを着ていたというメイドの証言。
婚約破棄を言い渡された時の、心底嬉しそうな、あの笑顔。
己で己を断罪しながら、会場を去る足取りは、まるで恩赦を受けた罪人のように軽やかだった。
あの晴れやかな笑顔が偽りなき本心であったのならば、つまり、彼女は――
「ラティーシャはずっと、私との婚約を反故にしたがっていたのか」
ふぅ、と殿下は疲れたように息を吐かれた。
「嫌なら嫌と言えば良かったものを・・・」
・・・そう、そうだ。
どんな事情があったのかは知れないが、彼女はまず殿下にご相談すべきだったのだ。
このお人は多少冷めたところはあるが、人の話を聞かない方ではない。また助けを求める手を無下に払う方でもない。
たとえ、婚約破棄を申し出ることなどできない立場であったとしても。
いきなり公の場で懇願するのではなく、学園で殿下と個人的にお話しされている時にでも、打ち明ければ良かったのだ。
少なくとも、わざと嫌われるよう振る舞うより建設的であっただろう。
あるいはもし、殿下に告げるのが畏れ多かったのだとすれば―――私に話せば良かったのだ。
殿下を説得するにせよ、周囲を説き伏せるにせよ、穏便に婚約を破棄するためなら、いくらでも役に立てた。
それは私自身の念願でもあったのだから。
―――なのに、なぜ彼女は一人破滅する道を選んだ?
殿下の御前であるにもかかわらず、壁を殴り付けたい衝動に駆られる。
わかっている、わかっているさ。
孤独に計画を遂行したラティーシャは、つまるところ誰のことも信用していなかったのだ。
己の家族も、殿下のことも。ならば当然、私のことも。
私は彼女と二言以上の会話を交わしたことがない。
彼女に触れたのも、卒業式の日、殿下のかわりにエスコートを務めた時だけだ。
私が彼女を破滅の舞台へ導いたのだ。彼女に騙され、絶望し、それでも執念深く想いながら、しかしあの場で連れ去る勇気も持てずに。
そんな男を、なぜ誰よりも信頼し、秘密を話す気になれる?
話すわけがないだろうっ!!
胸の内に煮えたぎるのは、薄情な彼女への想いと、何一つ行動できなかった己への、怒りだ。
このまま終わらせる気は、毛頭ない。
「・・・殿下、ラティーシャを捜しましょう」
己で思っていたよりも、格段に低い声が出た。
「彼女はまだ一切を自供してはおりません。偽りのない真実を殿下の御前で吐かせ、それから断罪すべきなのです」
私刑など認めない。
何もかもを明らかにせぬまま、消えることなど断じて許さない。
その場に跪き、主へ懇願した。
「どうか私にお命じください。必ずや、彼女を捕えて参ります」