逃亡の前日
夕陽が西の空に輝く、とても素敵な時間帯のことです。
蕾がほころび始めた薔薇の迷路で、若い男女が真剣な顔で向き合っていました。男性の頭は金、女性は銀、日が反射して眩しいです。
月明かりのもとだったなら、もっと楽に覗き見できましたのに。それにそちらのほうが、ロマンチックじゃありませんこと?
あぁでもそれは、無理なお話ですわね。ここは貴族の子女たちが集う厳格な名門校ですもの、夜間の外出は言語道断です。ましてや逢瀬など、身分がどうであれ退学処分は免れません。
明日は卒業式だという時に退学だなんて、ちゃんちゃらおかしいというものです。
「・・・はじめて出会った時からずっと、君のことが気になっていた」
あらかじめ逃げられないように、女性の手を握ったまま、男性が思いつめた表情で話しています。
美しくカットされたダイヤモンドのように完璧な彼には似つかわしくない、荒々しい熱を宿した眼差し。女として、とってもそそられます。
なんて、下品なことを考えてしまいましたわ。お恥ずかしい。
もっとも、茂みに隠れて覗き見している時点で、下品極まりない私ですけれど。でも私には、この二人の行く先を確認する義務がありますの。神様にはお見逃しいただきましょう。
「春の茶会の時には、あまりに礼儀作法を知らないものだから、はしたない娘としか思っていなかった。いつカップを割るかと冷や冷やしながら見ていたものだが」
「・・・それは、申し訳ございませんでしたね」
呆気に取られるばかりだった女性は、男性の悪口で我に返ったようです。申し訳ないと言いつつ、大きなルビーのような瞳を半眼にして、反抗の意を示しています。
なんだ喧嘩を売る気か、受けて立つぞこの野郎、といった様子でしょうか。
私も、何度もこの目を向けられたことがございます。
まったく品のないことですが、不思議と、この目をしている時の彼女は非常に魅力的なのです。何か、彼女の内にある強い輝きが、瞳の奥からまっすぐに放たれているようで。
存外に私はこの目を気に入っておりました。
それはおそらく、男性のほうもそう。
彼は睨まれているのに、愛おし気に彼女の銀糸の髪へ指を絡ませるのです。威勢を取り戻したはずの彼女はまたしても、最初に手を握られた時のように虚を突かれ、固まってしまいました。
「茶会の後で、君の事情を知った。それでもその時はまだ、わずかに同情を寄せる程度のものだったんだ。妾腹が貴族の家に迎えられる話を聞いたことがないわけじゃない。大変だろうが、私には所詮関りのないことだと、思っていたのだがな・・・それがいつから、変わってしまったのか――」
ここから彼は滔々と、彼女を深く想うようになった経緯を語り続けました。
いっそ、クドいくらいに。
私のオトモダチが貸してくださる、ロマンス小説を読んでいても時々思うのですが、なぜヒーローは過去を振り返り、あの時の自分は実はこう思っていて、あなたのこういう行動に胸打たれて、と、何やら言い訳がましく聞かれてもいないことを語り出すのでしょう。
すべての経緯を知っていて、なおかつ過去と現在の二人の心が手に取るようにわかっている身にはまどろっこしいですし、せっかくの興奮が冷めてしまいます。
シンプルに、あなたが好きです、がば、ぶちゅー、じゃだめなのでしょうか。それなら二秒で話が済みますけれど。だめですか? そうですか。
当事者たちからすれば、一からゆっくり語らいたいところなのでしょうか。わからなくはありません。この、貴族の教養や社交術を身につける学園に通う間は、本当に様々なことがありましたから。
特に、純血の貴族ではない上、途中編入してきた彼女には、辛い試練の日々であったことでしょう。
彼女はつまり、妾の子。愛のない結婚をした伯爵家の当主が外で平民の女に生ませ、正妻が病死したのを好機とし、母子を館に迎え入れたのです。
外聞の悪さは必至。伯爵は娼婦に誑かされた愚か者、そんな二人の娘は、さぞかし卑しく惨めな者であろうと、誰もが侮り罵るのは無理からぬことでした。
ええ、そう。
彼女自身の人間性に注目する者などおりませんでした。最初は、誰も。
十六歳で初めて貴族社会の仲間入りをした彼女は、慣れない場所での立ち居振る舞いがわからず、たくさんのしくじりを犯しました。
お辞儀やダンスのステップを知らなかっただけではありません。逆らってはいけない相手に逆らったり、気安くしてはいけない相手に親しげに接したり、身分社会に生きる者ならば絶対に踏み越えてはいけない一線を、スキップで軽々飛び越えてしまうようなところがありました。
ですが、それは無知であったが故のこと。
彼女はもともと頭が良く、加えて、並みならぬ胆力の持ち主でした。
周囲の状況、自身の能力、それらを正しく把握できた時、彼女は自らを実にストイックに鍛え始めたのです。
「どんなに侮られ、罵倒されても、それを真摯に受けとめ、さらに努力していく姿は、表面を着飾るだけの令嬢たちよりもずっと、美しいものだった」
彼の熱の入りっぷりに、私もつられて拳に力が入ります。
まったくその通り。
連日連夜、彼女の実際に血の滲むレディ修行は、長編小説として書き上げたら涙に次ぐ涙を誘う大ヒット作になるのではないかと思うくらいでした。
その努力が実り、十七歳になった彼女の立ち姿はもはや、生粋の貴族令嬢と並んでもなんら遜色なく、つま先から頭頂に至るまで優雅に操れるようになっていたのです。
陳腐なたとえではありますが、まさしく、芋虫が蝶に変貌を遂げたというわけです。
そして、日々麗しく変化していく彼女に心奪われ、この一年、最も近くで彼女を見守り、支え、愛したのが、彼ということなのです。
「――君はもう立派な貴族令嬢となったが、それでもこの目は、未だ私を私として見てくれている。王子ではない、ユリウスという名のただの男として。そんな君が、私は・・・狂おしいほどに愛しくて、どうしようもないのだ」
彼は昂る感情のまま、彼女を抱きしめました。華奢な体は胸の中にすっぽり収まってしまいます。さらに彼は彼女の首元に顔を埋め、悩ましい吐息をかけます。
彼女の体は敏感に跳ね、白い肌が指先まで真っ赤に染まってゆきました。確実に夕陽のせいではありません。
「どうか私と、結婚してほしい」
プロポーズいただきましたー!!
勢い手を叩きそうになり、なんとか堪えました。だめです、だめです。ここで見つかってしまったら、今までの苦労が台無しです。
それにしても、がっちりホールドしてからの求婚とは、この方、本気の本気です。逃がす気ゼロといった様子です。こんなに情熱的な方だったとは意外でしたわ。
いえ、運命の相手に出会えれば、人は誰しも情熱を発さずにはいられないものなのかもしれません。
私も例外ではなく。
「そんな・・・だって私では身分が、それに、それに」
珍しく震えた声で、彼女が言葉を紡ぎます。
嬉しさのためか、困惑のためか、瞳に真珠のような涙を溜めて。
「殿下には婚約者が、ラティーシャ様が、いらっしゃるじゃありませんか・・・」
そう。彼女は正しい。そして彼は間違っています。
そのプロポーズは本来、彼の婚約者である侯爵令嬢ラティーシャ・アシュトンにされなければならないもの。
つまり、私が受けねばならないものでした。
「・・・大丈夫。最後くらいは、私にすべてまかせてくれ。必ず決着をつける」
彼、フレイア王国太子ユリウス・ヴァン・フレイアの薄暗い言葉まで聞けたら、私は満足して膝に付いた草を払いました。
彼らはまだここで話し合いや乳繰り合いを続けるのでしょうけれど、最後まで覗く必要はないでしょう。それこそ野暮というものです。
さあ、明日はいよいよ卒業式。
寮に帰る道すがら、私は浮かぶ笑みを止めることができませんでした。
すべて、計画通り。
自室の鏡に映った金髪碧眼の淑女の顔は、まさに悪役令嬢そのものなのでした。