【8】
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仕事帰りの社会人が飲み屋に立ち寄る時間になり、楽しそうな笑い声や今日誕生日の人のお祝いをしている声が聞こえてくる。賑やかな声と楽しそうな雰囲気とで知らず知らずのうちに声が大きくなってしまう。
飲み始めてからしばらくして、飲み放題のドリンクバーを選択していたので私と彼女以外のみんなが飲み物をとりに出かけて行った。そんなに時間がかからないだろうと思っていたのに、どこまで取りに行っているのだろう?と首をかしげるほどに戻ってこない。結果、私と彼女の2人になってしまった。
「みんな、遅いね」
「そうね」
みんなでつまもうと頼んでいたポテトをつまみながら、カクテルを口にする。
ほろ酔いになってくると、アルコールを飲んでいない時よりも感覚が敏感になる。普段よりも物を持っている感覚も、味覚も、視覚でさえ違って見えしまい戸惑った。特に私にとっては視覚が違って見えてくるのが嫌だ。物を見る仕組みも変わっていないというのに、なぜいつもよりも彼女の事が輝いてズームで見えて他の風景がぼやけて見えてしまうのだろう。そんなだから、手を伸ばせば簡単に髪に手の届く近距離だと、より近くに感じて簡単に触れそうになる。
「ね、人魚姫シンドロームっていう言葉、知っている?」
唐突にそう質問されて私は、思わずむせてしまった。
「何いきなり?」
「私ね、あの言葉の意味って違うように思う」
彼女はくるくるとコップを回して、中に入っている飲み物が揺れるのを楽しむように眺める。コップを回すのをやめてテーブルに置くと、カランという涼しく寂しげな音を立て、つみあがっていた氷は崩れてコップの底に落ちた。
「精神的な意味での『大人』って『どこからが大人』? なんていうのかな、大人だといって決断している事が、本当は逃げの理由になるのは私は好きじゃない。かといって、わがままっていうのでもなくて…あぁー、もう上手く言えないけど、分かる!?」
「な、なんとなく…?」
ダン!と机をたたき前のめりになって力説する彼女から、少しだけ後ろに身体をひいて答えた。
「うぅー…」
唸っている彼女をよく見ると、まだ乾杯の一杯目だというのに顔が真っ赤で目が少し潤んでいて、おまけに呂律すら非常に危うい状態の発音になってきている。
「そりゃあね、家族みたいな暖かくて穏やかな愛もあると思う。気持ちを伝えないままでいるのも、一つの愛の形だと思う。たぶん、恋愛の先にあるのは、そういう愛だと思う。人魚姫に出てくる王子が、いつか、その事を知ったら…きっと、悲しくて寂しい…」
彼女はそう言いながら、今度はうとうとし始めてしまっている。
「…ん、そうだね」
物語の中の人魚姫は、どうしようもないくらいに王子の事を愛してしまっていたのだろう。それは美しいけれど、王子の気持ちは考えた事すらなかった。
物語には描かれていなかったけれど、きっといつか王子は真実を知っただろう。
嘘を完全に突き通す事など不可能ではないだろうか。自分を助けてくれた人に自分の気持ちを伝える事もなくて、伝える方法すらなくなってしまったのを知った王子は、どうしてもっと早くに知る事ができなかったのだろうと後悔して、悔やんでも悔やみきれない気持ちになってしまったのではないか?
「勝手に気めつけんなぁ、バカヤロー…」
無意識にのばしていた手をとめる。
指先にかすかな柔らかい髪の感触がした。
「さて、どうするのかな?」
振り返ると飲み物グラス片手にニヤニヤとした笑みを浮かべているルカが立っていた。意地の悪い目つきのまま、目を細めた。
「その言葉そのままそっくり返すわよ」




