#01 好き嫌いはいけません
空を見上げると、そこにあるのは同じようなビルばかり。
高卒で冷凍食品会社に就職して2年――毎日営業の日々。今日も炎天下の中、Yシャツの襟元に汗染みを作りながら、日常というものを嘆く。
言うだけならタダとはよく言ったもの。
ただし今は汗を掻いて、脱水症状になりかけてカラカラの喉から出るのは「ああ……」との絶命間近のゾンビのようなうめき声だけ。
俺は2年前の自分をコールドスリープさせて果てしない未来に飛ばすか、氷の角で頭を殴って冷凍保存してやりたい。
北海道出身で寒いことには得意だった俺は就職活動の面接の席で「寒いことは任せてください!」と面接官全員から失笑を買いつつも、採用通知を受け取った時はインパクトを残せた俺こそが勝ち組だと確信していた。
しかし、現実は地元の北海道を離れて、照り返しの激しいコンクリートジャングルの東京でスーツを着て営業周り。
就職先なんてノリで決めるもんじゃない、これ豆知識な。
「ああ、死ぬ……」
北海道民がいきなり沖縄に行くのは太陽を抱きしめるようなものだというのは、昔ばあちゃんが老人会で沖縄に行って帰ってきたら「背が縮んだ!」と言っていたので間違いない。
しかしそれは今の東京も同じようだ。
働けば金はもらえるが、子供の頃、将来お仕事をしてお金をたくさん貯めたら、絶対に買うんだ! と目を輝かせていたものは、ここにいては絶対に手に入らない。
冷房の効いたコンビニに入って、アイスとジュースを買うついでに無料の求人情報誌を手にする。
レジに持っていけば、ピアスの穴がたくさん耳に開いた男が迷うことなくすべて同じ袋に突っ込んで、求人情報誌の表紙が濡れてよれてしまった。
別にいいけどさ。
公園に移動して、日陰のベンチで少し融けかけているアイスを頬張りつつ、いい求人がないかを探す。
俺には夢がある。
北海道でなくても大きな庭付きの家を買って、幼馴染と結婚をするんだ。
うふふ。
一瞬、気味の悪い俺が出たが、それは東京の夏という魔物のせいだ、許せ。
その幼馴染のハヅキはというと、
「実家の八百屋があるから、ここを離れられないんだ」
俺以上にイケメンみたいな理由で北海道に残った。いいよな、実家が商売してるって。
「だから新居を買ったら迎えに来て。私は親を捨てて行くから!」
そういう一面は実に愛らしい。オヤジさんは泣いていたけど……。
俺とハヅキは幼い頃から、おままごとをして、将来どんな家に住みたいかとか話していた。
「白い壁に、灰色の瓦の屋根!」
「それと庭! 俺は絶対に庭は譲らない!」
俺の実家も田舎のせいか、例外なく庭が広いが、庭がない東京のアパートは肩身が狭い。
ぼけっ、と夏の熱気に脳天を焼かれながら、幼い頃の自分たちの可愛らしい思い出に浸っていると、手にしていたアイスが溶けて、ズボンに垂れて染みてしまった。
「ああ、もう……最悪だ」
なにもかも投げ出して、大型客船にでも乗って一攫千金の大勝負でもできないだろうか。
人生を変えるような一発逆転の出来事でも起きないか……。
求人情報誌の一番後ろのページに「在宅での仕事も1つの形」なんていうイラストがあった。
「それも1つの手だけど」
職場の先輩は高級外車を無理して買い、ローンのために仕事をがんばれると言い、実際に営業成績をあげて昇給した。
俺も人生の目的である家を買えば、こんな自分に合わない仕事にもやりがいを感じられるだろうか。
ローンって300年ぐらい組めるっけ? ってか庭付きの一軒家っていくらするの?
俺は仕事をサボって、都心を離れていい感じに寂れた商店街の中にあった不動産屋に入った。
なんで移動したか?
都会の不動産屋なんて、どうせ東京湾が一望できるとか、夜景が綺麗な都心のマンションとか、大学生の下宿のようなボロアパートの物件しか取り扱っているイメージがない。
俺が欲しいのは大きな家と、広い庭。
北海道じゃなくても、東京じゃなくても、どこでもいい。不動産屋ネットワークで他県の情報でも手に入れて、相場を知りたい。
「そういう物件ですか、1つだけありますよ」
「マジですか」
魔王軍の侵攻にでもあったかのように寂れて、シャッター通りと化した商店街の片隅にあった不動産屋にいたのは、恰幅のいいバーコード頭のおじさんではなく、目鼻立ちがいいのに、お胸が断崖絶壁の金髪の美女だった。
その美女が一冊のファイルを取り出してきた。
「こんな立派なお城のような家だって建てられますよ」
※写真はイメージです。って写真の下に思い切り書かれている……不動産屋が物件をイメージ写真で済ませていいのだろうか。
「ちょっと考えさせてください」
もしも現地に行ったら、建っているのは幽霊屋敷のようなボロ屋敷だったりするオチが待っているのかもしれない。
「他にも、『考えさせてくれ』って言うお客さんがいるので、明日まで残っているかわかりませんけどね」
買おうとして迷っている客相手なら商売上手だが、俺は相場の値段を知りに来ただけで今日いきなり物件を買うなんて衝動買いをするようなアホでは
「今ならこの物件無料です」
「買った!」
アホだったのは俺のようです。
「ちなみに場所は?」
「すごく遠くて、すごく近い場所ですかね」
「なぞなぞですか」
差し出された契約書を受け取り、契約事項に変な箇所がないかを穴が開くまで探す。
物件は0円だけど、維持費に月100万円かかりますとかじゃ話にならないし、実はミニチュアでした、とか言われたら俺はなにをしでかすかわからない。
「サイン前に現地に行きますか? 私はガイドを務めますので」
「そうですね、現物を見てからの方が俺も気持ちよくサインできます」
「そうですよね、私どうも説明下手で、お客さんに毎回怪しまれちゃうんですよ」
淑やかに笑う金髪の美女。
すらっとしていて、お人形さんみたいだが、肝心のお胸は、当たり前だが背中から見ても断崖絶壁。
それも個性だ。
「今、すごい悪意を背中越しに感じたのですが、気のせいですか?」
事務所の奥に一緒に来るようにと促されて、細身の背中を追っていけば、彼女が振り返った。
「気のせいでしょう」
どこにでもあるような、典型的な丸いドアノブのついたドアの前で彼女は立ち止まり、鍵穴に青い鍵をさす。
「私の名前はリュウカ。あなたは?」
「俺はナルキ」
「では、ナルキさん。これから起こることに驚かないでくださいね。面倒なので」
面倒という理由で人間が反応を示すことを許されなかったら、目の前で人が倒れていても、誰も助けない世の中になってしまうじゃないか。
俺は言葉にはせず、胸中で悪態を吐いて、リュウカさんの背中に続いて白い光の漏れるドアを潜った。
そこには――。
☆ ★ ☆ ★ ☆
今の今まで寂れた商店街の不動産屋にいたはずだが、光に眩んだ視界が開けた先にあったのは、ウエスタン映画とかで見たことがある、土ばかりの世界だった。
「東京って目に見えないところで、ここまで砂漠化が進んでいたんですね」
2年近く東京で暮らしていたが、衝撃の事実だ。
「ここは東京じゃない。ここはカッティングボードという異なる世界。つまり異世界」
「まな板ですね」
「今、私の一部分に悪意のある視線を感じたが気のせいか?」
「気のせいでしょう」
自意識過剰甚だしい。
ぺったんこどころか、もう壁としか形容できないじゃん、としか俺は考えていない。
「で、まな板がどうしたって言うんですか?」
「今度、まな板って言ったら、ナルキさん、ぶつ切りにしますよ?」
笑顔で脅された。目が真剣だったから、からかうのはよそう。
ほら、営業周りで初めの頃は先輩が一緒についてきて心得を教えてくれた。
「いいか、ナルキ。相手の役員が、
『うわ、これ絶対ヅラじゃん』
とか思っても、絶対にそこは見るな。気付かれるぞ」
そう教えてくれた直後に行った得意先の水産加工会社の社長は、明らかにズレていた。
「きゃああああ、助けてー」
どこからか女性の悲鳴。
「ちょうど、お誂え向きのイベントじゃないか」
「意味とこの状況がわからないんですが」
「ナルキくんは男なのに、女の子の悲鳴を聞いたら、マントを翻して助けに行かないのか?」
「別に行きませんね。同年代の子ってなんか怖いですし」
幼馴染や家族、地元のご近所さんは別だが、東京の人は怖い。ちょっと道を尋ねようとしただけで、「今急いでますから」と冷たい目を向けられる。
「しょうがない、私が助けに行くから、ついてこい」
リュウカさんは嬉々として走り出すので、俺は仕方なしに小走りで追う。
そういえば、さっきまでの暑さに比べると、ここは埃っぽいが、気温という面では心地いい適温だ。
「あそこだ」
リュウカさん、意外と足が速いが運動不足とはいえ、俺だって男として女の人に負けられないと思って全力疾走するのだが、体に違和感を覚える。
「なんか体が軽い」
月面に立った宇宙飛行士がはしゃぐように重力が軽いというわけではない。
ジャンプ力はいつも通りだ。
でも、いくら走っても息が上がらない。
運動はしていないので、体は怠ける一方のはずなのに、まるで毎日運動をしていた中学生か高校生の時のような体の軽さだ。
「なんだあれ」
リュウカさんが向かう先にあるのは粘土で作られたような白い箱――たぶん住居の壁。
それを背にして、1人の女性が、何者かに迫られている。
「俺の目が狂ってなきゃ、あれはニンジンに見えるんだけど」
オレンジ色の体。上が太くて、下が細い。
それに腕と足が生えていて、頭の緑の葉が長髪のようにも見えなくはない。
そのオレンジのニンジンが短い両手を広げて、怯える女性に襲いかかろうとしている。
「ニンジンを残した彼女の前に現れた亡霊かなにかか?」
よく小さい頃は、ばあちゃんが「食べ物を残すと化けて出るぞ」と言っていた。
きっと、あれはそれに違いない。
「あれは、このカッティングボードの迷宮に住まう野菜だ」
「野菜ですか。見ればわかりますよね」
「おかしい……本来野菜とや迷宮に住むものなんですが」
あれがニンジン以外には見えない。
襲われている女性は怯えているのに、なぜか相手がニンジンだと思うと緊迫感は一切ない。
なんででしょうね。
やっぱ田舎は広い庭で家庭菜園とか当たり前のようにしているから、野菜は得意なんだ。
「ちょっくら、あの人を助けてきますから、見ていてください」
そう言うとリュウカはどこからか大きな剣を出して、駆け寄った。
「食べられなさい、ニンジン!」
「おお!」
なんかカッコイイ!
しかし右手で剣を構えて、左手は猫の手。ちゃんとお母さんに教えてもらったんだね。
包丁を使う時、反対の手は猫の手。これを借りられれば、人手が足りずに困る人類は減るのだろうか――などと別の意味の猫の手のことを悠長に考えていると、リュウカさんとニンジンが戦闘に入った。
軽々と、それこそ一流の料理人が使い込んだ包丁を自分の手足と同じように使いこなすように、無駄のない動きでニンジンを3等分にぶつ切りにして見せた。
「うぎゃあああああああああ」
マンドラゴラを抜く時、人間を絶命させるような悲鳴を上げるというが、今まさにそんな気分。
見開き、充血した目が確かにこちらを見ていた。気味悪さが天井知らず。
「ナルキさん、ニンジンをゲットしましたよ」
「言っている意味がまったくわかりませんが、おめでとうございます」
3等分に解体されたニンジンは、手足も顔も消えているが、俺たちの世界では見たことのないサイズの塊だった。
もしかして学校の給食とか、大食堂とかではこういう遺伝子操作でもされた巨大な野菜でも使っていたりするのだろうか。
「大きいから大味ということはないですから安心してください」
「食べるつもりですか!?」
「ナルキさん、好き嫌いはいけませんよ」
「ニンジンは好きですよ。カレーとか煮物とかに絶対に入ってないと気がすまないぐらいには好きですよ!」
でも、俺の知るニンジンには手も足も生えてないし、顔もないし、絶命の悲鳴も上げない。
「そこのあなた、大丈夫ですか?」
リュウカさんが襲われていた女性に手を差し伸べるも、震える彼女は立てないようだ。
「ナルキ……?」
「ハヅキか?」
北海道にいるはずのハヅキが、なぜかニンジンに襲われていた。
しかも、どことなく俺が知るハヅキよりも幼く見える。アンチエイジング?
まるで中学生ぐらいしにか見えない。
「お前、まだニンジン嫌いなのか」
「そうじゃないでしょ!」
リュウカさんにツッコまれた。
「なんでこんなところにいるんだ?」
「ナルキと将来住む、庭付きの一軒家が、いくらぐらいするのかな~、300年ぐらいのローンって八百屋でも組めたっけ? と思って不動産屋さんを覗いたら、0円のお城の物件があったから、即座にサインを」
「あはは、バカだな」
「ナルキさん、私その話聞いたことあります」
偶然だな、俺も聞いたことがあるけど、都合のいい俺の脳みそはどこで聞いたか思い出せない。
「しかししかしリュウカさん」
「なんですか、ナルキさん」
「同じ物件を他の不動産屋も扱ってるってどういうことですか?」
「たぶん世界が同じで番地が違うんでしょうね。私もこの世界のことはよく知りません。地球人が月面を勝手に切り売りしているのと同じように、私はここを勝手に切り売りしているんで」
「最低ですね」
「でも、お金は取りませんよ。その代わり、一緒に食料調達の冒険をしましょう」
俺とハヅキに向かって差し出されるリュウカさんの白い手。
「お断りします」
これまた綺麗に俺とハヅキの声は重なった。さすが幼馴染だ。息ピッタリ。
「……ここでなら、好きな家にも住めるし、好きな物だって食べれるのに」
「好きな家に住める……!」
ハヅキが俺の方を見てくる。
欲しい物を前にした時の顔だ。
「ちょっとだけだぞ。こんなバカみたいなことに付き合うのは……って言うか、ここ本当に異世界なの?」
「はい、カッティングボード。世界はすべて調理をするためのまな板です。って誰の胸がまな板ですか!」
「自分で勝手に言ったんでしょーが! 思っても俺は言いませんよ」
「そうですよね……こんなに強くて美しい私の唯一の弱点が、こんなにまな板だなんて……私ね、ほら、あれですよ、あれ」
「どれですか」
「学生時代こう言われていたんですよ。
『こんなに可愛い女の子がいるわけがない』
つまり、私は男の娘だって……確かに胸はないですけど、正真正銘女ですよ、ははは」
後半は完全に死んだ魚のような目になっていた。
こうして俺たちの異世界での最初のイベントは終わるらしいが、こんなの後で思い返せば、チュートリアルにしか過ぎなかった。