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作者: 山麓鸚鵡

 耳を劈く目覚まし時計の音で目を覚ました月曜日。

 月曜日特有の憂鬱な気分を引きずって、のろのろと起き上がった。

 面倒だと思いながら、顔を洗う。

 ぼんやりと、両手に溜まる水を眺めていた時だった。

 右の手のひらに、黒く痣ができていた。

 いつのまにできたのだろう、と痣を見つめて昨日のことを思いだそうとしたが、なにも思い出せなかった。

 昨日の記憶が無いのだ。

 自分自身の名前も、物の名前もわかっているのに、肝心の記憶がどこにもなくて、心臓が不整脈を刻む。

 洗面台の脇にある、自分で買ったはずの歯ブラシの、買ったときの記憶が定かでないことに、ますます焦った。

 リビングから、母が僕を呼ぶ声がして、喉から乾いた声を絞りだす。

 手のひらの痣を見てから、その手でタオルをぎゅっとつかんだ。

 リビングに行けば、母がいつもと変わらない様子で、朝食をテーブルに運んでいた。

 いつもと変わらない様子であることはわかっているのに、どうしても、その「いつも」がどうであったのかを思い出せず、足下をおぼつかなくさせた。

 母に「遅刻するわよ」と急かされ、食卓テーブルに着いた。

 ベーコンエッグの味も、パンの味もわからずに牛乳で流し込む。

 そういえば、朝食はいつもパンだったろうか、と思いだそうとしたが、結局わからないまま食事を終えた。

 服を着替えて、学校に向かう間も、手のひらの痣とにらめっこを繰り返し、なにもわからないまま学校に着いた。

 クラスの人たちに変わった様子は無く、おかしいのが自分だけのような気がして、心細くなってくる。

 表情も満足に動かせず、ひきつったような笑い方をしてしまう。

 悪い夢かとも思ったが、一向に覚める気配がなく、だんだん絶望的な気持ちになっていった。




 寝不足の目をこすって、火曜日。

 窓の外は薄暗く、時計を見ればまだ寝付いて数刻と経たない時間だと知る。

 うとうとしながら、二度寝をした。

 つぎに目が覚めたのは、目覚まし時計がなる前だった。

 一瞬、記憶喪失や夢の類なのではないかと思った。だが、右手の痣がその可能性をあざ笑っているように見えて、息を詰まらせる。

 昨日よりも大きくなっている痣に、全身がふるえた。

 これはなにか大変なことが起こっている、と思ったが、これを認めるのが怖くて、火曜日は痣を隠して過ごした。




 だるい体を洗面所まで引きずる、水曜日。

 ぼんやりとした目で、洗面台の鏡を見て、喉の奥から胃液が迸った。

 そのまま洗面台に胃の中身をすべてぶちまけた。

 吐き出すものが無くなっても、胃がひくひくと蠕動する。

 汗が吹き出て、涙も止まらない。

 体液が滴る顔面を手のひらで覆って、頭がしびれるまで泣いた。

 顔が真っ黒になってしまったので、学校は休んだ。




 母の運転する車に乗せられて病院へ向かった木曜日。

 帽子をかぶってマスクをつけて、長袖のパーカーを着て、車の外を見る。

 流れていく風景は病院から家までの道をたどっている。

 うつろな意識で聞いた医者の言葉も、お母さんが涙ぐんで言った薄っぺらい励ましも、内容が何であったかもう思い出せない。

 全身に広がった痣と、忘れていく記憶に、絶望しかなかった。

 塞ぎ込む以外のことができず、車窓越しの学校に何の感慨も無かった。

 このまま痣に浸食され、記憶を無くして、果たしてその先に死があるのかもわからず、ただただ生きていることが絶望的でしかなかった。

 死にたい、と思った。




 すべてが煩わしかった。

 痣がどこまで広がっているのか、確かめることも煩わしく、様子を見に来る母親にも苛立って仕方ない。

 布団に包まれて、ただ時を待つだけだった。

 僕自身もそのつもりでいた。

 このまま餓死して、短い生涯を終えるつもりでいた。

 もうどれほどの時間が経ったのかわからず、ただひたすら死が訪れる時間を待つように、薄暗い部屋の中で座り込んでぼんやりと床を見つめる。

 泣きわめく気力もなく、散乱した部屋の中で無くした記憶のかけらを探そうとして、だがなにも思い出せなかった。

 しばらくして、床に黒い粉が散らばっていることに気付いた。

 なんだろうか、と粉を摘もうとして、指が砕けた。

 ひくりと喉が鳴った。

 息ができず、水に浸かったようにはくはくと喉が震えて、腰が抜けた。

 ぺたりとその場に座り込んで、指があった部分をなぞる。

 先端から灰のようにぱらぱらと崩れて、指は短くなっていった。

 そして、何かがぷつんと切れた。

 泣きわめいて、リビングにいるであろう母に縋りつこうと走りだした。

 足を踏み出す度につま先から粉になっていって、廊下の途中で足が砕けた。

 転んだ衝撃で、胴体が粉砕した。

 そして頭だけになって、ころころと廊下を転がって、リビングのドアにこつりとぶつかった。

 ぶつかって、頭が欠けた。

 廊下が静まり、やがてリビングから忙しない足音が近づいてくる。

 それはドアの前で一瞬立ち止まり、ドアが開いた。

 頭がゆっくり転がって、そして--




 最後に、母の足の裏が見えた。



完。

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