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テルノアーシュ・細胞呼吸不全症候群。
古来、生物にとって酸素は細胞を酸化させる猛毒であった。
しかし、進化を遂げる過程において、細胞内のミトコンドリアによって炭水化物を酸化させ、水と二酸化炭素として排出する事で細胞の酸化をコントロールし、結果大きな活動エネルギーを得た。
だが、ほんの二〇〇年前頃に、この酸化をコントロール出来ないミトコンドリアDNAを持つ新生児が発見された。
生まれ出た瞬間から水と二酸化炭素の排出が困難な体は過度な酸化を始め、やがて錆びて死んでいく。
遺伝子疾患である事から治療は困難を極め、回復の見込めない難病として認定された。
誕生確率は極めて低いので、一般的には知られておらず、医療関係者でも知らぬ者がいるほどの病だった。
その後、ある物質を粉末化したものを大気中に放出し、自然吸引させる事で、この症状を緩和させられる事が判明。
だが、飽く迄も延命処置であって、治療ではなかった。
「トゥ。」
「ん?」
「屋上へ出よう。確認すべき事がある。」
「うん。」
エインはトゥの返事を待って、病院の屋上へ向かった。エレベータは動いているが、老朽化しているので使うのは避けた。病院は七階建てで、どの階も院長室やナースステーションと同様、荒れ果てていた。
屋上へ出ると、街を見渡せた。
街は工業地域のように機械的で、真四角で、パイプが所狭しとうねり走っていた。発電施設であろう小型原子力発電所が何基か見える。建物は全て匣型で、塔がいくつも立っていた。煙が出ている塔はかなり離れているようだが、背が高いのでそれほど遠近感は感じなかった。
煙は、下で見た時と同じように、キラキラと輝いている。よくよく見ると、キラキラとした光の中に、星のような形が見えた。
「なぜ、煙が光ってるの? 星も見えるよ。」
トゥが指差した。
どうやら、トゥはテルノアーシュ症候群については教えられていないようだった。
「テルノアーシュ・細胞呼吸不全症候群。
一昔前に発見された、極低い確率で胎児に発症する難病だ。
酸素呼吸をする事が、直接死に繋がる。
治療法は未だ確立されておらず、患者は延命治療か、金がなければ死を選ぶほかない。」
「遺伝子治療であらゆる病を克服したって言われているのに?」
「ああ。一部の難病については、未だ遺伝子治療でも完治には至っていない。
この病院は、テルノアーシュ症候群の子供のための療養施設だ。
テルノアーシュ症候群の延命治療には、ある薬品を使う。
薬品を粉末にして、それを放出した空気を吸う事で、細胞の酸化を抑制し、延命する。
あの煙突は、その粉末を放出するためのものだろう。
この薬品は、大量の酸素に触れると非常に強く発光する性質を持っている。
そして、粒子の断面が星型なんだ。強烈に自己発光した粉末のせいで、ああやって光る星が煙突から出ているように見える。」
「そんな薬品があるの…?」
トゥが興味津々に問う。
「ああ。
人工生成した薬品で、自然界にはない。奇妙な断面なのもそのせいさ。
しかもこの薬品は、正常な人間の肺に大量に入ると、健康に異常を来たす。患者に対して抑制するのとは逆の効果、つまり酸化を助長させてしまう効果があった。
しかも患者に対しては、酸素ボンベや吸入機での摂取では巧くいかなかった。
だから、コロニー規模で専用の療養場所が必要だったのさ。」
そのための、コロニーだったのだろう。
難病に冒された子供が、ほんの少しだけ生き永らえる場所。
病室の窓から眺める夜の煙突からは、星が瞬く。
その光景は、さながら夢工場のようだった事だろう。
「だけど、酸化は抑制しているだけで、進行を止めている訳ではない。
やがて錆びていく体はあらゆる部位が機能しなくなる。
だから、この工場が必要だったのさ…。」
エインの言葉に、トゥの顔が強張った。
「『右心房』、『肝臓』、『膵臓』、『肺胞』…。
建物一つ一つが、子供たちの内臓の代わりだ。」
病院を訪れた子供は、錆びて行く内蔵を取り出すたび、体に管を通した事だろう。
その管はパイプの中を通り、各建物へと繋がれた。
小さな体内で当たり前のように行われていた処理は、外に出た途端、こんなに大きな建物でしか代行出来ない。
人間の体とは、合理的に出来ている…。
「そこまでして…。」
トゥが呟いた。
言いたい事は、その先を聞かずとも、エインにも解る。
そこまでして、生きたいか…。
生きる事に理由を持たぬ少年たちには解らない。
生に固着する、その意味が。
「ねえ、エイン。
何故、まだこの工場は動いてるのかな?」
「ボクもそれを考えていたところだ。」
生体反応はなかった。このコロニーは一五〇年前から完全に無人のはずだ。
仮に機能を停止させずに人が退去したのだとしても、なぜ今なお、工場は動いているのだろう。
生かすべき対象がいないのなら、停止してもいいはずだ。
「メインコントロールルームに戻ってみるか。」
「うん。」
◆ ◆
コントロールルームへ戻り、メインコンピュータでシステム仕様を大まかに調べてみる。が、当然の事ながら、外側からではどういった条件下で稼働を継続するのか、停止する判断はいつ行うのかと言う詳細については調べる事など出来なかった。メインコンピュータも、進入しない限りは、通常、データ解析結果を表示させるためだけのもののようで、院長室にもそれらしき資料は見当たらなかった。結果、内側へハッキングをする事になった。
そもそもの任務は、このコロニーの稼働を停止させる事である。
システムへのハッキングと同時に、稼働も停止させる事が出来れば、任務も完了する。
トゥがシャトルへ端末を取りに行っている間、エインは院長室を見回した。コントロールルームで携帯ライトを見つけたので、小さな灯りではあるが、簡単な探索は可能だった。
散乱した書類は、ナースステーションにあったようなカルテの他、顧客の個人情報であったり、医療雑誌であったり、書き掛けのレポートだった。踏み付けるのも躊躇われ、エインは器用に避けながら歩き回った。
ふとデスクに目をやった時、倒れているフォトフレームを見付けた。
埃が積もってしまっているので、指先でつまみながら起こしてみると、だいぶ色褪せてしまってはいるが、写真が挟まっていた。
アナログの写真など珍しい…。
そう思いながら写真をまじまじと見る。
少し老け始めた男性と、ほっそりとした女性。彼らは小さな赤ん坊を抱いていた。
院長本人と、その妻と言ったところだろう。赤ん坊は、院長夫婦の子供に違いない。
居住区域がほとんど見当たらない事から、このコロニーはただ治療施設のためだけに作られたのだと思われた。すると、ここで働く人間の多くは、他のコロニーに家を持っていたに違いない。隣接コロニーまではシャトルの通常運行で丸一日かかる距離らしかった。恐らくは、普段は長期この施設内に寝泊りをし、休日を取っては長旅をしながら家に帰っていたのだろう。
すると、院長も妻と子供とは別々に暮らしていたのかもしれない。
エインはフォトフレームを元に戻し、コントロールルームに戻るため振り返った。その表紙に、指先に何かが触れて落ちた。
拾い上げると、そこらに散乱しているカルテと同じ様式の書面だった。興味本位で数枚の書面を捲るが、三枚目でその手が止まった。
そこには、今し方安易に想像した事とは全く異なる事実が記載されていた。
「…そうか…。」
エインはそう呟くと、静かにカルテをデスクに戻し、コントロールルームへ戻った。
ちょうど、トゥも帰って来た。
端末でハッキング用の補助プログラムを立ち上げ、メインコンピュータと有線で繋ぐ。
トゥが流れるような手つきで軽やかに端末のキーを叩く。補助プログラムをメインコンピュータ用に組み換え、簡易的な、疑似アップデートプログラムを組み上げ、有線を経由してコピーすると、古いシステムである事も幸いし、メインコンピュータはすんなり疑似プログラムを受け入れた。
メインコンピュータのディスプレイに、アップデート中の進行バーが表示される。一パーセント進行するごとに、トゥの手元の端末に、膨大な行数のメインコンピュータの構文がコピーされる。
それを二人で素早く読んで行く。
五〇パーセント辺りまで進行した辺りで、構文もイフ文とループ命令が増えるようになった。
「基本命令はこの辺りまでなんだな…。」
「そうだね…。」
そう呟き、端末から目を離した二人だったが、気は重かった。
暫く無言で、プログラムの内容を反芻する。
「…。」
「……。」
お互い、話すのを躊躇っていた。
どう理解をしたものか、困っていたのだ。
やがて、トゥが近くにあった椅子の埃を払って、ばふと座った。
「停止する概念がない、とは、どういう意味なんだろう…。」
プログラムには、停止条件がなかった。
「ねえ、エイン。
死んだら延命処置は要らないじゃないか。」
トゥが哀しそうな顔で、首を傾げた。エインはまだコピーの続く端末を見つめながら、何も言わない。
「エイン…。」
再度呼び掛け、暫くして、エインが呟いた。
「…死なない、んだろう…。」
「死なない?」
「ああ。死なないんだよ。
死ぬ事は、有り得ないんだ。」
そう言って、エインはトゥを見た。
「七階に行こう。
そこに、答えはあると思う。」
◆ ◆
エインについて、七階へ階段を昇った。
南東方向へ伸びる廊下を、エインは躊躇いもなく歩いて行く。
トゥはただ、ついて行った。
エインは突き当たりの病室の前で立ち止まると、トゥを振り返った。
心の準備はいいか?
そんな表情をしていた。
トゥが頷くと、エインは静かに扉を開けた。
ギィと蝶番が泣き、埃っぽい空気が廊下に漏れた。
窓から入り込む工場の緑色の光が、病室を仄かに照らしている。
エインは病室に一歩入り、脇へ寄ってトゥが中に入れるよう道を開けた。
トゥも病室へ踏み込む。
そこには、ベッドが一脚と、そして、不自然にこんもりとした影が二つあった。
トゥがエインを見る。
エインは影を見つめながら、静かに言った。
「院長だよ。」
「え…?」
まさか。生体反応は…。
驚きながら、ゆっくりと影に近付く。
薄暗闇の中で、影を覗きこむ。
そこには、朽ち果てた襤褸切れのような白衣を着た白骨が、ベッド脇に座りにうつ伏せになっていた。
「…!」
慌ててベッドの上の影にも目をやると、やはり白骨が、丁寧にシーツをかけられ、横たわっていた。
ベッドの上の白骨は、白衣の白骨よりだいぶ小さく、すぐに子供だと理解出来た。
「院長の子供も、テルノアーシュ症候群だったらしい。
同じ難病の子供の治療をしながら、自分の子供の治療も行っていた。
院長は認める訳に行かなかったんだ。
自分の子供が”死ぬ”なんて…。」
”死なない”。
そう信じているから…、死なないのだから、停止条件など不要だったのだ。
「延命処置など、患者以外の親族や親しい人間のエゴでしかない。
こと、既に植物状態にある患者や、不治の病に冒されて生まれた子供にとってはなおさらさ。
”生きて欲しい”。”もっと色んな物を見せてやりたい”。
そう周りが思う事と、そう本人が望む事は、次元の違う事さ。同じに扱うべきものじゃない。
だが、理論はそうでも感情論ではそれを消化出来ない。
それが人間だ…。
だから、こうなった。」
工場は、何も感情を持たない。だが、工場を動かすシステムには、人の感情が入り込んでいる。
機械にとっては、心肺が停止しようが、呼吸が停止しようが、”死”という概念が埋め込まれていないのだから、止まる必要がない。
しかし、人の立場から見れば、そうではない。”止める”必要を認めないのだ。
停止条件を持たぬ工場は、今でもこの白骨を生かすために稼働している。
定期的に透析処理を行い、心臓を動かし、薬品の粉末を含んだ酸素を放出しては、その酸素を取り込んで肺へ送り込む。
すべて、決められた事だ。それ以上でも、それ以下でもない。
「…なぜ、人がいなくなったの?」
「一五〇年前、ここへ搬入された難病患者の気が振れた親が、深夜にあの煙突へ侵入し、薬品の過剰散布をおこなってしまったらしい。
その親も、子供を生かしたい一心でやった事だが、正常な人間には有毒な薬品である上、肺へ取り込めば即座に効果が出る。
異常な濃度の薬品を含んだ空気のせいで、コロニーは瞬時に緊急モードになった。
空調は酸素を生成する活動を一時止め、空気から薬品を除去する活動に移ったが、濃度が半端なかったようだ。濃度のせいで、常備されていたガスマスクでも完全な遮断は行えなかった。
救出活動は無理と判断され、コロニーからの緊急アラームを受けた政府から一時退避が強制執行され、そこにいた者は取る物も取らずにコロニーを後にした。
大抵は子供が小さかったため、抱き抱えて避難が出来たが、それでもこの施設から出れば、あとは死を待つのみ。
そして、親の手では救出出来ないほどの年の子供たちとその親は、取り残されるか、親ともどもここに残って死ぬかの選択を迫られた。
大多数の親はそこで、苦渋の決断をする。
『この子は何れ死んでしまうのだから』と。」
彼らは泣きながらコロニーを後にしたに違いない。後悔が大きすぎて、自死を選ぶ者もいただろう。
それでも、逃げない訳にはいかなかった。
「その中で、院長と数名の親はここに残った。
そして辛うじて密閉状態に出来た病院内で、錆びながら子供に付き添い、死んで行った。
親が死んでも、子供は生かされている。
皮肉なものだ。子供は生かされたせいで、錆びて行く親の死を目の当たりにした。
そして、世話をする者がいなくなった病院で、生かされていた子供も衰弱死を遂げる。」
それでも工場は動き続けた。