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鞆の浦

作者: Gerbera
掲載日:2026/08/12

 

 私は海のない県に生まれたのもあり、海を眺めるのを好む。

 遊ぶでも泳ぐでもない。

 時には眺めすらもしない。


 存在を身近に感じ、そこに過ごす日々と、過ごした年月を夢想するのを好むのだ。


 鞆の浦へは、旅行で立ち寄った。

 雨が降ったり止んだりを繰り返し、山からは霧のような白いモヤが立ち上っている。

 夏を感じさせない、涼しい天気だった。


 チェックインを済ませて早速、私は旅先の醍醐味である散歩に出た。

 窓から一望していた海を、堤防に腰掛けて視界一杯にした。風が、歩いたことで生じた熱を、心地よく吹き払う。海の匂いがした。

 点々と浮かぶ島。色濃い緑が、いかにも力強い自然を感じさせる。泳いでもたどり着けそうだと妄想して、当分泳いでいない今の自分には難しいかと思い直す。

 10年程度水泳を習っていたが、きっと今の私には100メートルですら難しい気がして……海の静けさもあり、少し寂しさを覚えて散歩に戻った。


 歩く。


 霧雨が降ってきた。

 宿で借りた傘が、細かく心地よい音を立てている。

 周辺の空気には、海の匂いが雨と混ざっている。

 山からは濡れた植物の匂いが降り、下からは濡れた石が香り、古そうな寺院や家々からは濡れた古木が主張した。

 

 主要な道路は海の堤防沿いに一本だけ通っており、私はそこから離れるように、細い道を選んでこの港町に浸透しようとしていた。そうして溶け込むのが好きだった。だから、まずはこの近隣の人とすれ違って、その雰囲気を取り込みたいと考えていた。


 微風は海からとも山からとも分からない、あらゆる曲がり角の向こうから吹いている。


 歩く。


 そこかしこから、雨の影響なのか盛んな流水音が聞こえている。排水溝が、川のようになっている。何かが流され、一瞬で見えなくなる。カタツムリの殻だったと思う。中身があったかは分からない。そのまま海へと運ばれてしまうのだろう。


 坂は急で、そのくせ多い。おかげで汗をかいているのに、汗はたちまち冷たくなって身体の表層を冷却し続けている。

 息が上がって来ているのに、しかし寒い。


 歩く。


 人がいない。気配があるので居ることは分かっても、会うことがないので確証が持てなかった。当然錯覚。培ってきた常識的思考が、「浸りすぎだ」と冷笑を浴びせてくる。その声すら、孤独な今は頼もしい。

 あんまりにも人がおらず、私は道沿いの家々の窓を意識し、あわよくば家人の姿を通り過ぎざまに目にしようとすら考えていた。


 歩く。


 探した。窓はあった。

 2階の開け放たれた窓があった。見上げると、部屋の天井だけがかろうじて見えた。掃除機の音が聞こえる。掃除中なのだろうが、それをしている人の姿は窺えなかった。

 モダンなデザインの家もあった。採光窓が開けられ、中からラジオかテレビかの音がもれ聞こえていた。中を見るには、身長があと1メートルほど必要そうだった。

 時代を感じさせる古い家屋を過ぎ去った。1階窓が開いており、網戸だけが部屋の内外を隔てていたために容易に中を視認できる理想的な状況だった。


 食卓が見え、皿が並び、何かの食べ物が置かれ————そして誰もいなかった。


 ……歩く。


 自分のコツコツとした足音を、気づけば抑えて歩いている。いったい何を恐れているのか。人に会いたいと思いながら、見つかってしまうのを避けているような妙な気分。危険とは無縁なのに、気持ちが隠れたがっている。何からかも分からない。


 古い木製の窓格子に、ピラリと何かがはられている。いや、そのまま格子に画鋲でとめられていた。日に焼けて、随分と掠れている。だいぶ長くここに放置されているのだろう。


『坐禅のススメ

 一呼吸、一呼吸を 大切に意識して座ると

     生きる時間の密度が濃くなります。

 さあ、一度 静かに座ってみませんか!


 [掠れた、一休さんを思わせるイラスト]


 毎月 第4 土曜日

 午前7時~8時30分』


 読み取れたのはこれだけ。

 周囲を見渡す。これを凝視する私に気づいた人間は誰もいない。

 そんな事実にどうしてか急かされて、もう足を止めてはならないと、再び足音を忍ばせた。


 ただ、歩く。


 ふと見られている気が常にしていることに気づいた。それがまた不思議で、どうやら常に視界にある山に見られて感じるらしいと思い至る。そんな自分に呆れながらも、こうして畏れと信仰は生まれたのかと、脳の退屈した場所が結論する。


 都会にはない、自然から場所を借りているような感覚が、実感として湧き上がった。


 登る。


 風化しつつあるお地蔵様を左に見下ろしつつ、山に向かって息を弾ませる。

 バタン、と——すぐ側で扉が閉まった音がした。一瞥する。誰もいない。ということは家に入った音のはずだが、仮に時間を巻き戻したとしても、そこに人はいなかったように思えてならなかった。


 傾斜が増す。一歩一歩に、上体を揺らすような力みを要する。

 そんな細い上り坂で、ビタリと立ち止まった。

 今、イヤな感触が足裏から右足を這い上った。「ミシャリ」とも「グチャリ」ともつかない音を耳でも聞いた。足元へ落とした視界内を、久しぶりに見た気のするカタツムリたちが、気味悪い緩慢さで這い回っている。何を踏んだかイヤでも分かった。


 ただでさえ弱りつつある気力が、この薄い硬さと軟い湿り気をペーストしたような感触にすり潰されていた。


 部屋付きの露天風呂が脳裏をよぎった。

 途端に、風邪でもひいたような寒気が一層に主張を強める。

 帰ろう。帰る理由ができたじゃないか。


 見上げる先にある、大きな寺院。そこまでは行こうと、このとき決めた。

 そうしてたどり着いた大きな山門を、くぐることもなく私は満足した。もう気力が萎えていた。心はすっかり音を上げて、今すぐにでも部屋へと戻りたがっていたのだが、それでも足取りの重さはどうにもならなかった。


 さて戻ろうと、私は視線を上げて——数秒ほど固まったと思う。

 人が、いたのだ。

 それも一人二人ではない。きっと7、8人はいたと思う。

 子供と手を繋いだ女性。楽しそうな女の子。立ち話している老婆に、頼りない足取りの杖をついた老人。自転車に乗った中学生たち。他にもいたかもしれない。


 私は安心したろうか。

 否、むしろ逆だった。

 一体どこにいたのか分からない、どうやって見落とせたのかも想像できない人々の姿に、まるでさっきまで別世界にでもズ(・)レ(・)ていたような、冷たい混乱だけがあった。

 これではまるで、この山門に辿り着いた途端、何かにこうして救われでもしたようだった。


 歩く。

 早足で、止まることなくただ歩く。

 それはまるで逃げ帰りでもするようで、実際心情的には逃避そのものだった。


 撮った写真を見て、今にして振り返ってみれば苦笑してしまう。

 いつかまた、霧雨の中伺おう。

 そうして再びあの不思議な空間に迷ったら、そのときこそは山門をくぐるのだ。


 窓の外から、夕立によって冷やされた空気が、蝉時雨を運び込む。

 どこからか、遠い海の匂いがした。古い木々の香りが呼んだ。

 

※この作品は1割程度のフィクションを含みます。

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