第8話 小さな歪み
違和感は、いつも些細なところから始まる。
朝の作業場は、昨日と変わらない。帳簿は新しい様式に切り替わり、修道士たちは戸惑いながらも記入を続けている。大きな混乱はない。それどころか、流れは少しだけ滑らかになっていた。
それなのに。
私は、倉庫の奥で立ち止まった。
「……数が、合わない」
声に出す必要はなかった。数字は、嘘をつかない。配給の総量、保管量、消費量。新しい様式で並べると、ズレがはっきりと浮かび上がる。
大きな不足ではない。今すぐ問題になる量でもない。だが、このまま続けば――冬を越す前に、必ず綻びが出る。
原因は一つではなかった。
運搬の遅れ。天候不順。修道士の人手不足。どれも些細で、誰か一人の責任にできるものではない。だからこそ、放置されてきたのだろう。
私は帳簿を閉じ、倉庫の外に出た。冷たい風が頬を打つ。空は低く、北方特有の灰色が広がっている。
「……言うべきか」
独り言が、風に消える。
ここで問題を指摘すれば、面倒な人間だと思われるかもしれない。頼まれてもいない仕事に口を出す、厄介な元令嬢。王都では、何度もそう扱われてきた。
けれど、気づいてしまった以上、見過ごすのは――難しい。
私は修道院長の執務室を訪ねた。
「エレナ様」
扉をノックすると、低い声が返る。
「入って」
室内は簡素だ。机と椅子、地図と書棚。無駄な装飾は一切ない。
「どうしました」
「倉庫の在庫について、少し気になる点が」
簡潔に、事実だけを述べる。感情は添えない。王都で身につけた癖だ。
エレナは黙って聞き、私の差し出した帳簿に目を落とす。
「……不足する可能性がある、と」
「はい。今すぐではありませんが、このままですと」
沈黙が落ちる。重いが、拒絶の気配はない。
「対策は」
短い問い。
私は一瞬、言葉を選ぶ。
「配給量の微調整と、運搬の優先順位の見直しを。負担を一部の地区に集中させない形で」
「それで、不満は出ない?」
「出ます」
即答した。
「ですが、冬に不足するよりは」
エレナは、ふっと短く息を吐いた。
「正直ですね」
それが評価なのかどうか、判断はつかない。
「分かりました。試します」
あっさりとした決断だった。
「ただし、責任は私が負います。あなたの名前は出しません」
胸の奥で、何かがきしむ。
「……なぜですか」
「ここでは、役割が全てです」
彼女は言う。
「あなたは、まだ“様子を見る立場”」
それ以上でも、それ以下でもない。
「承知しました」
私は一礼し、部屋を辞した。
廊下に出ると、息が少しだけ重いことに気づく。評価されたいわけではない。だが、名前が消される感覚は、過去を思い出させる。
――それでも。
夕方、配給の現場で、小さな変化が起きた。
「今日は、混乱が少ないな」
「待ち時間も短い」
修道士たちの声が、ひそやかに交わされる。
私は、少し離れた場所からそれを見ていた。誰も私を見ない。誰も、私に礼を言わない。
それでいい。
夜、部屋に戻ると、机の上に小さな包みが置かれていた。中身は、乾いた果実が数個。
誰が置いたのかは、分からない。名前もない。
私は、そっと一つ手に取り、口に運ぶ。甘さが、じんわりと広がった。
小さな歪みは、確かに存在していた。
そして、それは――少しずつ、正され始めている。
誰にも褒められないまま。




