第7話 誰にも褒められない仕事
朝の鐘が鳴る前に、目が覚めた。
修道院の朝は早い。王都での生活とは違い、ここでは時間が誰かの都合で引き延ばされることはない。起きる者は起き、働く者は働く。それだけだ。
私は簡素な身支度を整え、指定された作業場へ向かった。石造りの廊下は冷たく、足音がよく響く。途中ですれ違う修道士たちは、軽く会釈するだけで足を止めない。名前も、立場も、ここでは重要ではないらしい。
「そこに積んである帳簿が今日の分です」
昨日と同じ修道士が、淡々と指示を出した。
机の上には、いくつもの帳簿が積まれている。紙の端は擦り切れ、綴じ糸も緩い。急場しのぎで何度も使い回された痕跡があった。
「配給の記録と、倉庫の在庫管理ですね」
「ええ。分かるなら」
それだけ言って、修道士は去っていった。
私は椅子に腰を下ろし、帳簿を開く。数字を追う。やはり、合わない。致命的ではないが、積み重なれば必ず問題になる程度のズレ。
王宮なら、すぐに会議案件だ。責任の所在を巡って、言葉が飛び交う。だが、ここでは違う。ズレはズレのまま、静かに放置されている。
原因は単純だった。
配給の単位が、人によって微妙に違う。記録の仕方も統一されていない。悪意はない。ただ、誰も「揃えよう」と言わなかっただけだ。
「……このままだと、冬前に困る」
小さく呟く。
私は新しい紙を取り、簡単な表を作った。日付、品目、数量、受取人。必要最低限の項目だけ。誰でも記入できるよう、余白も大きく取る。
勝手なことをしている自覚はある。
だが、修正しない理由もない。
昼前、修道院長エレナが様子を見に来た。
「進み具合はどうですか」
「記録方法が統一されていないようでしたので、簡単な様式を作りました。これを使えば、今後は――」
説明しかけて、言葉を止める。
余計だっただろうか。ここでは、頼まれたことだけをやるべきなのかもしれない。
エレナは、紙を受け取り、ざっと目を通した。
「……分かりやすいですね」
それだけ言って、紙を机に戻す。
「使うかどうかは、こちらで判断します」
それ以上でも、それ以下でもない。
「はい」
私は頷いた。胸の奥で、少しだけ何かが沈む。評価を期待していたわけではない。けれど、完全に無風だと、さすがに堪える。
午後も、作業は続いた。
書類を揃え、数字を直し、記録を移す。誰も声をかけない。誰も成果を確認しない。私は、ただ淡々と手を動かした。
夕方、倉庫の前で修道士たちが小声で話しているのが聞こえた。
「今日の配給、やけに早く終わったな」
「記録が分かりやすかったからだろ」
私の名前は出ない。ただ、事実だけが共有される。
それでいい、と自分に言い聞かせる。
夕食の時間。簡素な食卓に並ぶのは、昨日とほとんど変わらない内容だ。だが、不思議と満たされている。身体が、働いた分だけ素直に空腹を感じているからだ。
部屋に戻る途中、廊下の端でエレナに呼び止められた。
「リリアーナ」
初めて、名前を呼ばれた。
足が止まる。
「今日の様式、明日から使います」
一瞬、言葉の意味を理解するのに時間がかかった。
「……承知しました」
「褒美は出ません」
念を押すように言われる。
「はい」
それでいい。褒美のためにやったわけではない。
部屋に戻り、椅子に腰を下ろす。窓の外は、もう暗い。
今日一日を振り返る。誰にも称賛されていない。誰にも責められていない。ただ、必要なことをしただけだ。
それが、こんなにも静かで、穏やかな疲労をもたらすとは思わなかった。
王都では、常に誰かの視線があった。正しいか、間違っているか。価値があるか、ないか。
ここでは、そんなものは測られない。
私は、ゆっくりと息を吐いた。
――誰にも褒められない仕事。
それでも、確かに世界は少しだけ、回りやすくなっている。
それで十分だと、今は思えた。




