第4話 夜営の火
日が傾き、空の色が鈍い灰に変わる頃、隊は森の縁で足を止めた。
「ここで野営する」
レオンハルトの指示は簡潔だった。騎士たちは慣れた動きで馬を降り、周囲を警戒しながら準備に入る。私は馬車を降り、少し離れた場所でその様子を眺めていた。
王宮では、誰かが必ず指示をくれた。立つ場所、話す相手、口を開くタイミング。だが今は、誰も私に何も言わない。自由であるはずなのに、足の置き場が分からない。
「……手伝うことは、ありますか」
そう尋ねると、近くにいた騎士が一瞬驚いた顔をした。
「い、いえ。お気になさらず」
即座に視線を逸らされる。罪人に手を出させるわけにはいかない、という無言の線引きだろう。理解はできる。慣れている。
私は小さく頷き、焚き火から少し離れた倒木に腰を下ろした。外套を羽織り、膝を抱える。森は静かだ。風が枝を揺らし、どこかで獣の気配がする。
火が灯る。ぱちぱちと薪が弾け、橙色の光が周囲を照らした。闇の中に、あたたかな円が生まれる。その輪の内側に、私はいない。
――当然だ。
そう思おうとした瞬間、足音が近づいた。
「ここに座るといい」
レオンハルトだった。手には、簡素な木の椀が二つ。
「温かい」
椀を差し出され、私は反射的に受け取った。中身は、干し肉と根菜を煮たものらしい。素朴な香りがする。
「……私が食べても?」
口に出してから、なぜそんなことを聞いたのか分からなくなった。
「食事だ」
それだけの答え。
私は椀を両手で包み、そっと口をつける。塩気が、舌にしみた。熱が喉を通り、胸の奥へ落ちていく。思っていた以上に、体が冷えていたらしい。
「ありがとうございます」
小さく言うと、彼は頷いただけで、隣の倒木に腰を下ろした。焚き火の光が、彼の横顔を照らす。昼間の硬さが、少しだけ緩んで見えた。
しばらく、言葉はなかった。沈黙は、火の音に溶けている。
「……王宮では」
不意に、彼が口を開いた。
「君は、いつも一人だったな」
胸が、ひくりと動いた。
「そう、見えましたか」
「見えていた」
断言だった。
「だが、誰もそれを問題にしなかった」
私は、椀の中を見つめる。具は少ない。けれど、十分だ。
「一人でいることは、公爵令嬢としては、正しい振る舞いです」
そう言い切ると、彼は少しだけ首を傾げた。
「正しい、か」
その一言に、問いが含まれている。
「……正しさは、時に人を守ります。時に、人を孤立させます」
自分の声が、焚き火に吸い込まれていく。
「私は、孤立する方を選んだだけです」
「選んだ?」
彼の視線が、初めて真正面から向けられた。
「本当に、選べていたのか」
言葉が、止まる。
選んだ。そう思ってきた。そう思わなければ、耐えられなかった。けれど――
「……分かりません」
小さく、正直に答えた。
レオンハルトは、それ以上追及しなかった。代わりに、焚き火へ薪を一本くべる。火が、少しだけ大きくなった。
「修道領では、役割を与えられるだろう」
彼は言う。
「だが、役割は拒める。受け入れるかどうかは、君が決めていい」
その言葉は、これまで誰も私に言わなかったものだった。
決めていい。
胸の奥が、わずかに震える。
「……もし、何も選ばなかったら?」
「それも選択だ」
簡単に言う。
「何も背負わず、生きることを、誰も責められない」
焚き火の光が、揺れる。炎の向こうで、世界が少しだけ柔らいで見えた。
私は椀を置き、膝の上で手を重ねる。
「団長」
「レオンハルトでいい」
即座に返された言葉に、少しだけ目を見開く。
「……レオンハルト」
名前を呼ぶ。それだけで、距離が縮まった気がした。
「私は、まだ……信じるのが、怖いです」
告白のような言葉だった。
「信じなくていい」
彼は即答した。
「ここでは、疑ってもいい。逃げてもいい」
そして、少しだけ間を置いて、続ける。
「俺は、君が決めるまで、隣にいる」
隣にいる。
それは、守るでも、導くでもない。押し付けでもない。
火が、ぱちりと音を立てた。
私は、ゆっくりと息を吐く。冷たいはずの夜気が、胸に痛くない。
北方への道は、まだ続く。
けれど、闇の中に灯るこの火は――消えずにいる気がした。




