第31話 戻る場所
修道領の朝は、変わらない。
鐘が鳴り、人が動き、倉庫の扉が開く。風は冷たいが、もう骨に染みるほどではない。冬は確実に終わりに向かっている。
私は、帳簿を手に作業場を見渡していた。
王国では、試験導入が始まっている。報告は、定期的に届く。順調な点も、滞っている点も、すべて記録として上がってくる。
けれど。
私は、そこにいない。
それを、改めて実感する瞬間があった。
「この判断、どうします?」
修道士の一人が、私に声をかけてくる。
以前なら、即座に答えていた問いだ。
私は、帳簿から視線を上げ、静かに首を振った。
「それは、あなたたちで決めてください」
一瞬、相手は戸惑ったような顔をしたが、すぐに頷いた。
「分かりました」
そう言って、仲間の方へ戻っていく。
その背中を見送りながら、胸の奥に小さな安堵が広がる。
――任せられる。
それは、手放した証でもあった。
午前中の作業が一段落し、私は倉庫の外に出た。空は高く、雲の流れがゆっくりと見える。
「珍しいな」
隣に立ったマルクが、ぽつりと言った。
「今日は、あまり口を出していない」
「……必要がないので」
私は、そう答える。
「皆、もう回せます」
マルクは、少しだけ口元を緩めた。
「それを言えるようになったか」
評価ではない。確認だ。
「離れるつもりか?」
その問いには、少し間があった。
「いいえ」
私は、はっきりと言った。
「ここにいます」
即答だった。
王国の話も、隣国の話も、すべて条件付きで関わっている。けれど、拠点はここだ。
選んだ場所。
「……そうか」
マルクは、それ以上何も言わなかった。
昼過ぎ、修道院長エレナと短い打ち合わせをする。
「王国からの報告ですが」
「読みました」
私は、頷く。
「問題点も、想定内です」
「助言を求めてきていますが」
「文書で返せる範囲だけで」
エレナは、微笑した。
「あなたは、もう“いなければ回らない人”ではありませんね」
「それが、理想でした」
そう言うと、胸の奥が静かに満たされる。
夕方。
帳簿を閉じ、私は今日の記録を書く。
――判断は現場で完結。
――補足助言のみ。
それを書いて、ペンを置く。
外では、人の声がする。笑い声も混じっている。作業が終わり、それぞれが戻る準備をしている音だ。
私は、窓辺に立ち、修道領を見渡す。
ここは、もう避難場所ではない。
逃げ込んだ先でもない。
選んで、戻ってきた場所だ。
王国がどう動こうと、
世界がどう評価しようと、
私は、ここから離れない。
それを、自分で決めた。
その事実が、何よりも心を軽くしていた。
――戻る場所がある。
それだけで、人は前に進める。
私は、静かに息を吐き、
明日の帳簿の準備を始めた。




