第3話 冷たい道行き
夜明け前の王都は、音が少なかった。
石畳を踏む靴音が、やけに大きく響く。門の方角から漂ってくる冷気が、肌を刺した。春のはずなのに、北へ向かう準備をしているせいか、空気まで先回りして冷えている気がする。
荷は、言われた通り最小限にした。着替えと、身分を証明するための書類。それから――一冊の手帳。誰にも見せる予定のない、覚え書きのようなものだ。
門前には、すでに馬車が用意されていた。質素だが頑丈そうな箱型で、飾りはない。罪人を運ぶには、むしろ丁寧すぎるほどだった。
近衛騎士が二名。護送とはいえ、人数は少ない。無駄を嫌う人の采配だと、すぐに分かった。
「乗ってくれ」
レオンハルトの声は、朝の空気よりも低い。鎧を着け、剣を帯びた姿は、昨日よりも距離を感じさせた。職務に戻ったのだ。
私は無言で頷き、馬車に乗り込む。扉が閉まる音が、区切りのように響いた。
馬車が動き出す。王都の景色が、ゆっくりと後ろへ流れていく。尖塔、白い壁、整えられた街路。あれほど慣れ親しんだはずの風景が、すでに他人のもののようだった。
――振り返らない。
そう決めていた。振り返れば、未練が生まれる。未練は、弱さになる。
しばらくは、馬車の揺れと車輪の音だけが続いた。沈黙が重い。だが、耐えられないほどではない。私は、この手の沈黙に慣れている。
「……寒くないか」
不意に、外から声がした。
一瞬、自分に向けられたものだと理解するのに時間がかかった。気遣いの言葉を向けられることが、あまりにも久しぶりだったからだ。
「大丈夫です」
即座に答える。反射的に。条件反射のように。
馬車の外で、何かが止まった気配がした。
「それは、質問への答えじゃない」
淡々とした指摘。責める調子ではない。ただ、事実を述べただけ。
私は小さく息を吐く。
「……少し、冷えます」
それが精一杯だった。
「外套を渡す」
扉が開き、厚手の外套が差し出される。騎士団のものだ。無骨で、装飾のない黒。
「いりません」
断るのが先に出た。受け取れば、借りができる。借りは、関係を生む。今の私には不要なものだ。
だが、外套は引っ込められなかった。
「命令だ」
短い言葉。逃げ道を塞ぐ、合理的な一言。
私は黙って外套を受け取った。指先に、彼の体温が残っている。それが、なぜか落ち着かなかった。
「……ありがとうございます」
言ってから、しまったと思う。
彼は何も返さなかった。ただ扉を閉め、再び歩き出す。馬車が動き、外の景色が流れ始めた。
外套を膝にかける。重みが、確かにそこにある。温かい。驚くほどではない。だが、冷え切っていた指先が、ゆっくりと感覚を取り戻していく。
――こんなことで、心が揺れるなんて。
自嘲が浮かぶ。私は、もっと強いはずだった。何を失っても、平然としていられるように、ずっと自分を律してきた。
馬車は城門を抜けた。
外の世界は、王都よりも広く、荒々しい。整えられていない道。無作為に伸びる草。人の気配は少ない。ここから先は、管理される世界ではない。
「北方までは、数日かかる」
再び、外から声がする。
「途中で野営もする。修道領に着くまでは、不便だろう」
「……そうですか」
それ以上、言葉は続かない。
私は、窓の外を眺めながら考える。修道領での生活。与えられる役割。名前のない日々。誰からも期待されない、ということ。
それは、恐ろしいはずだった。
けれど、胸の奥にあるのは、恐怖よりも――軽さだ。
期待されない。責められない。正しさを証明しなくていい。
その事実が、重たい鎖が外れるような感覚をもたらしていた。
「……奇妙だな」
思わず、独り言が漏れる。
「何がだ」
即座に返事が返ってきた。
聞かれていた。そのことに、少し驚く。
「追放されたのに……思ったほど、苦しくないのです」
言ってしまってから、後悔した。こんなことを言えば、彼は困るだろう。罪人が安堵しているなど、聞いていい話ではない。
だが、レオンハルトは否定しなかった。
「そういうこともある」
短い肯定。
「守るために背負わされていたものが、重すぎただけだ」
その言葉は、私の胸に静かに落ちた。重くも軽くもない。ただ、真っ直ぐだった。
守るために、背負わされていたもの。
私は、誰を守っていたのだろう。王国か。制度か。あるいは、自分の立場か。
考えようとすると、胸が少し痛んだ。
「……団長」
また、呼んでしまう。
「私は、罪人ですか」
問いは、ずっと胸にあった。聞く相手がいなかっただけだ。
少しの沈黙。馬の足音が、規則正しく続く。
「法の上では、そう扱われている」
現実的な答え。
「だが」
続く言葉を、私は待った。
「人としての価値まで、裁かれたわけじゃない」
それだけで、十分だった。
外套の縁を、指で掴む。確かに、ここにある。
冷たい道行きは続く。行き先は、まだ遠い。
それでも。
この沈黙は、昨日までのものとは、どこか違っていた。
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